個室の戦場
世界は、たいてい最悪のタイミングで牙を剥く。
そして今――
オレは、公衆トイレでそれと戦っていた。
「……出ねぇ」
個室の中、便座に座ったまま、静かに宣言する。
終わった。
いや、違う。始まってすらいない。
腹は限界だ。だが肝心のブツは、完全に引っ込んでいる。
逃げた。あいつ、逃げたぞ。
「くそ……」
判断ミスだった。家まで我慢するべきじゃなかった。過去の自分を殴りたい。往復ビンタを決め込みたい。
オレはそっと膝に肘をつき、額を押さえる。
敗北だ。
「おい、聞いたか!? 糞が出ねぇってよ!」
「ギャハハ! 大丈夫ですか~? おじさ~ん!」
「違うわ!!」
思わずドア越しに叫ぶ。
「“くそぉ~”って、嘆いてただけだ!」
……まぁ、出てないのは事実だけど。
「やべ、聞こえてた!」
「逃げろ、逃げろ~!」
幼さのある甲高い声が遠ざかっていく。
……まったく。
元気があってよろしい。
静寂が戻り、オレは深く息を吐いた。
「……さて」
諦めるか。今日は負けだ。
そう思った、そのとき。
ドンッ――!!
地面が、揺れた。
トイレの壁が軋み、天井の埃がぱらぱらと落ちてくる。
「……ん?」
地震か?
いや、違う。
揺れ方がおかしい。
衝撃が、上から来たみたいな――
次の瞬間。
バキィィィィッ!!!!
屋根が、消し飛んだ。
「……は?」
青空を覆い尽くすほどの巨体。ねじれた角。赤黒い皮膚。
絵本に出てくる鬼のようだ。
……握手したい。
腹は糞でつっかえているが、胸はときめきでみっちりになる。
「おい」
低い声が降ってくる。
「ガキどもを知らないか?」
ガキ……?
さっき、オレに戯れていた子たちか?
「知らねぇな。トイレの中までは把握してない」
鬼は答えない。ただじっと、こちらを見ている。
そして、
「く、くく……っ、はははは!! なんだその姿は!!」
……ああ、これか。
足を大きく開いて便座に座り、ズボンを下ろしたままの男。
まぁ、確かに、絵面はきたなっ……良くはない。
「笑うなよ。こっちは戦闘中だ」
「ははは!! 何と戦っているんだ?」
「自分と」
一瞬の沈黙。
そして、さらなる爆笑。
「ははははは!!」
……まぁいい。
「屋根、戻せ」
「断る」
即答。
「ついでに貴様も潰す」




