5話 君もこれで天才ナイファーになれる!
森の側面から、別の影が飛び出した。
「えっ?」
今度はケイジの横手だった。彼が振り向くよりも早く、魔物が翼を広げて突進してくる。二人はまともに反応できないまま体当たりされ、勢いよく地面へと転がされた。
「ぐっ……!」
「きゃあっ!」
ケイジの身体が落ち葉を巻き上げながら地面を滑り、タマキもそのすぐそばで倒れ込んだ。
ヴェイドは間一髪で攻撃をかわしていた。剣の柄に手をかけたまま、低い姿勢で体勢を立て直している。さすが強キャラ。
木々の向こうから、さらに複数の影が動いている。
「う、嘘でしょ……」
タマキが地面に手をつきながら、震える声を漏らした。
「ケイジ君、さっきみたいにやってよ! ねえ、早く!」
「分かってるって! ちょっと待て!」
ケイジは立ち上がろうとしたが、先ほどの突進で打ちつけたのか、思うように身体が動かないらしい。彼の周囲には魔物が飛び回り、どれに狙いを定めればいいのかすら判断できていないようだった。
一方、会社員風の男性は木の陰に身を寄せ、どうすればいいのか分からないまま魔物を見上げていた。
そして、白衣の男性はというと――。
逃げていた。
彼はすでに、森の入り口へ向かって必死に走っていたのである。
…………。
いや、待て。
あの人、治癒能力持ちだよな?
ゲームなら、回復役というのは最後まで仲間を支える重要なポジションである。負傷した味方を治し、倒れそうな前衛を立て直し、時には自分の危険を顧みずに仲間を救う。それが俺の知る回復役というものだった。
なのに、この人は逃げた。
もちろん、彼は医師であって、戦闘訓練を受けた兵士ではない。いきなり魔物に襲われて、冷静でいられないのも無理はない。
それでも、治癒能力を与えられた彼が、誰かの命を救うより先に自分の命を守ろうとしたことに、俺は少しだけ失望していた。
「おい! 待て、あんた! 治癒能力があるんだろうが!」
地面に倒れたまま、ケイジが怒鳴った。
「こっちを治療しろよ! なんで逃げてんだ!」
彼の背中が木々の向こうへ消えていくのを見て、ケイジは悔しそうに歯を食いしばった。
「くそっ、役立たずが……!」
その言葉に、俺は反論できなかった。
なぜなら、今の俺にも、目の前の魔物をどうにかできる確信などなかったからだ。
俺の手にあるのは、果物ナイフ一本。魔法もない。頑丈な鎧もない。レベルだって分からない。さっきまでの俺なら、こんな状況を見れば「序盤の死亡フラグだな」とでも分析していたところだろう。
だが、今は違う。
魔物の一匹が、地面に倒れているタマキへと向きを変えた。
「いやっ、来ないで!」
タマキは後ずさろうとしたが、足がもつれてうまく立ち上がれない。魔物は翼を広げ、低い鳴き声を上げながら彼女へ迫っていく。
ヴェイドは別の魔物の動きを牽制しており、すぐには間に合わないようだった。
俺は果物ナイフを握りしめた。
怖いな。
当たり前だ。画面の中なら何度死んでもやり直せるが、ここではそうはいかない。失敗したら終わりだ。ゲームオーバーの表示が出て、リスポーン地点へ戻されることもない。
だがやるしかない。ナイフの威力がどれくらいか、怯えていればいつまでたっても分からない。せっかくの異世界なのに、平凡で終わってたまるか。
俺は走り出した。
「うわあああっ!」
自分でも驚くほど情けない声が出た。もっと格好いい台詞を叫びながら飛び出せればよかったのだが、そんな余裕があるなら、そもそもこんな声は出していない。現実の戦闘とは、どうやら演出まで自分の思いどおりにはならないらしい。
ナイフを握ったまま魔物へ向かって突っ込もうとした、その瞬間だった。
「待て」
襟首をつかまれ、俺の身体が後ろへ引き戻された。
「ぐえっ!」
情けない声が、今度は別の意味で漏れた。
振り返ると、ヴェイドが俺の襟をつかんでいた。彼は魔物から目を離さないまま、低い声で告げた。
「今、正面から飛び込むのは得策ではない」
「は?」
「君まで倒れれば、勇者一行は早くも全滅だな」
「じゃあ、どうすれば!」
「敵の動きを見ろ。魔物は今、あの二人に注意を向けている。こちらへ意識が向いていないうちに、敵が何を見ていて、何を見落としているか。それを考えるんだ」
ヴェイドの視線は、魔物の動きと、地面に倒れたケイジたちの位置を素早く行き来していた。
「君が動くのは、その隙ができてからだ」
……なるほど。
言っていることは分かる。確かに、敵の注意が別の方向に向いている今なら、正面から攻撃するよりも行動の選択肢が増える。
まあ、ゲームならよくある話だ。敵の注意を引きつける役と、隙を狙う役を分ける。それだけで、格上の相手に勝つ可能性は大きくなる。
(それ、ヘイト管理っていうんだよ……!)
頭の中ではそんな突っ込みを入れつつも、俺はヴェイドの言葉を真剣に聞いていた。
「何をするにせよ、無駄死にだけはしないように」
ヴェイドはそう言って、襟から手を離す。
彼は再び魔物のほうへ向き直った。
……いや、ちょっと待ってほしい。
判断するのは俺自身って、急に責任を押しつけてくるじゃないか。こういう場面では、もっと親切な騎士が「私が時間を稼ぐ。その間に彼女を助けろ!」などと指示を出してくれるものではないのだろうか。
魔物は依然としてタマキを狙っている。ケイジは起き上がろうとしているものの、すぐに魔術を放てる状態ではない。
ならば、俺がやるしかない。
ナイフを握る手が汗ばんでいた。
強度も分からない。果物ナイフという名前のとおり、本当に果物を切る程度の性能しかなかったらどうする。魔物の身体に刃が通らず、反撃を受けたらそれで終わりだ。
それでも、攻撃する機会は今しかない。
魔物が翼を広げ、タマキへ向かって再び突進を始めた。
俺は地面を蹴った。
今度は、叫ばなかった。
真正面からぶつかれば、体格の差で押し負けるだろう。硬そうな部分にナイフを当てても、刃が通る保証はない。
ならば、少しでも自分に有利な瞬間を狙うしかない。
ゲームの中で何度も繰り返してきた感覚が、頭の奥から蘇ってくる。
相手の視界から外れ、距離を詰め、反応が遅れた一瞬を利用する。銃を持った相手に正面から挑むのではなく、動きを読んで、そのわずかな隙を奪う。それが、俺の得意とするナイファーの戦い方だった。
俺が今まで磨いてきた技術は、全部が無意味というわけでもないらしい。
魔物が咆哮をあげる。
首の皮膚が引っ張られ、鱗とも羽毛ともつかない表面がわずかにずれた。
(……あそこか)
ゲームなら、弱点部位に表示でも出てくれれば親切なのだが。残念ながら、現実は不親切設計らしい。
刃渡りの短い果物ナイフで、硬い胴体を正面から攻撃するのは無謀だ。ならば、狙う場所を変えるしかない。
武器が弱いなら、攻撃する場所くらい選ばせてもらおう。
魔物がタマキへ意識を向けたまま、俺の接近に気づくのが遅れた。
その一瞬を逃さず、俺は身を低くして、軌道から外れるように身体を斜めへ滑らせた。
翼が目の前を横切る。魔物の翼が頭上をかすめ、風圧に髪が揺れる。身体が地面に触れそうになるほど姿勢を崩しながら、俺は相手の懐へと滑り込んだ。
近い。
近すぎる。
思わず目をつぶりそうになったが、ここで怯めば何もできない。俺は歯を食いしばり、握りしめた果物ナイフを振り抜いた。
魔物の首が、こちらへわずかに振られた。首元の羽毛が開き、薄い皮膜が一瞬だけ露わになった。
(今だ!)
俺は刃を振り回すのではなく、魔物の通過する軌道に合わせて果物ナイフを滑らせた。
刃先が、羽毛の隙間へ入り込む。
手首に、硬いものを切ったときとは違う感触が伝わった。短い刃が柔らかな部分を捉え、そのまま横へ走る。
魔物の羽ばたきが乱れた。
直後、翼の先が俺の肩をかすめ、身体が大きくよろめく。踏みとどまろうとしたが、足が落ち葉に滑った。俺は片膝をつき、転倒だけはどうにかこらえる。
そのすぐ前を、魔物が地面へ落ちていった。
翼が地面を打ち、落ち葉が大きく舞い上がる。魔物は一度だけ身体を起こそうとしたものの、うまく飛び立てない。やがて羽ばたきが弱まり、動きが止まった。
俺は、すぐには近づかなかった。
罠かもしれない。死んだふりをしている可能性だってある。ゲームなら、敵の体力ゲージを確認すれば済む話だが、ここには便利な表示などない。
数秒待つ。
動かない。
……どうやら、本当に倒せたらしい。
俺はようやく息を吐き、手元の果物ナイフを見下ろした。
果物ナイフは相変わらず、どこの台所にでもありそうな姿をしている。光を放っているわけでもなければ、突然、伝説の武器に変貌したわけでもない。
それでも、確かに刃は通った。
俺は敵の注意がそれた一瞬を利用し、攻撃を避けながら、自分にできる方法で魔物を倒したのだ。
脳裏に、かつてゲームで敵を倒したときの光景がよみがえる。課金装備を着込んだ相手に散々苦しめられながらも、ようやく一本取ったときの、あの妙な達成感。
チャットに「FUCK YOU」と打ち込んで、負け惜しみを残して消えていく初心者たち。それを見て、俺は内心で勝ち誇っていた。
あのころは、たかがゲームの中の勝利だった。
だが、今は違う。
俺は、自分の力で、目の前の危機を乗り越えたのだ。
果物ナイフ一本で。
思わず、笑みがこぼれた。
戦える。
そう思えた瞬間だった。




