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「愛さない」と言った夫の寝室から、毎晩「ギチギチ」と骨が軋む音がします  作者: 住処


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「ほら、選べ。誰でもいい。……早くしなさい、セシリア」


 目を開けた私の前には、三人の人間が食材のように並べられていた。左は囚人服を腰まで脱がされ、腹へ解体用の切り取り線を墨で描かれた大柄な男。中央の年老いた女中は両腕を銀盆の上へ固定され、指先から血を抜かれている。右端にいる下働きの少年は、逃げないよう左右の足裏を一本の鉄串で床へ縫いつけられていた。


 地下室には塩、香草、肉切り包丁が用意され、少年の額から流れる血まで、銀の受け皿へ一滴ずつ集められている。あまりに整然とした支度のせいで、三人が人間だと訴えているのは、喉から漏れる呻き声と震えだけだった。


 血の匂いが鼻へ入った途端、私の肋骨がギチ、と開きかけた。歯茎の裏を突き破って細い歯が何本も生え、舌の表面には肉を削ぐためのざらつきが広がる。喉の奥からあふれた唾液を飲み込むと、自分の血と混じって妙に甘かった。


「お目覚めか、セシリア」


 父は三人の後ろへ立っていた。仕立てのよい上着にも磨かれた革靴にも汚れ一つなく、娘と婿を護送隊から奪った人間とは思えない。私は椅子へ縛られ、隣ではミナも口へ布を噛まされていた。地下室の奥には銀の棺が置かれ、内側から絶えず鈴が鳴っている。


「ここは……」


「狩猟館だ。王都の手前の。覚えているだろう? お前は……まあ、少し眠っていた」


 状況の説明はそれで十分だった。目の前の三人が私のために用意された食事だということも、残念ながら聞くまでもない。父は娘の初めての食事へ、ずいぶん行き届いた支度をしてくれたらしい。花嫁の父として披露宴に参加できなかった分を、ここで取り戻すつもりだろうか。まったく嬉しくない心遣いである。


「この方々が何をしたのです」


「男は死刑囚だ。どうせ首を吊られる。女は……余計な帳簿を見た。小僧はその孫だ。祖母を逃がそうとした。ほら、全員、ここへ来る理由がある」


 父は女中の腕へ短剣を滑らせた。浅く傷をつけるだけかと思ったが、刃先を皮膚の下へ差し入れ、薄い肉を一枚めくり上げる。黄色い脂肪の粒が露出し、その間から血が湧いて銀盆へ落ちた。


 女中は声を殺そうとして奥歯を噛んでいた。それでも父が刃先で剥がれた肉をつまむと、喉から潰れた悲鳴が漏れる。父は肉片を血の滴る短剣へ載せ、私の唇へ近づけた。


「年寄りは硬いらしいが……最初なら、その方が腹へ優しいそうだ。男は筋が多い。力がつく。子供は……柔らかくて、骨まで残らない。私は食べたことがないから詳しくは知らん。アルノルトがそう言っていた。とにかく選べ」


 私は吐き気を覚えた。同時に唇から伸びた舌が肉片を欲しがって刃へ巻きつこうとする。押し戻すため奥歯を噛みしめたところ、一本が割れ、歯茎の穴から次の細い歯がぬるりと生えた。人間をやめかけると、歯の生え替わりまで豪快になるらしい。


「罪人は一人だけです」


「密約を破ったんだ。それだけで十分だろう。……舐めろ。少しは楽になる。お前が苦しむのを見ていると、私まで気分が悪くなる」


 顔を背けると、父は肉片を床へ捨てた。私の首は反射的にそちらを追い、石の上で血と埃にまみれた肉さえ舌ですくいそうになる。椅子の背へ頭を打ちつけ、無理やり視線を外した。


「アルノルト様の正体を知っていたのですね」


「知っていた。知っていたとも。だが、仕方がなかった。あれが国境を守って何年になると思っている」


「人を食べさせて?」


「言い方を考えろ! 私が食わせたくて食わせたと思うのか。村を十も焼かれるより、百人で済むなら……済むなら、その方がましだろう。そうだろうが!」


 棺の鈴が激しく鳴り、内側で伸びた骨が次々に折れる。その苦痛の中から、アルノルト様の声が聞こえた。


「ほら、セシリア。お父上は、数にすれば人の顔を見なくて済むのですよ」


「黙っていろ、化け物」


「その化け物へ娘を嫁がせた方の言葉とは思えませんね」


 父は棺を蹴りつけた後、私へ向き直った。アルノルト様は領民に正体を見られ、もう表向きの公爵として使えない。そこで感染した娘を怪物へ完成させ、しばらく療養したことにしてから銀の首輪をつけ、次の北方公爵として国境へ送るつもりらしい。


「お前は助かるし国も助かる。これでいい、そうだろう? 一人だけだ。まず一人食べれば、骨が馴染む。そう聞いている」


 子供の頃、父に褒められるのは決まって役に立った時だった。客の名前を覚えた時、母の代わりに晩餐を整えた時、家に有利な縁談へ笑顔で頷いた時。娘の幸福を尋ねられた記憶はないが、それを寂しいと思う発想さえ、いつの間にか忘れていた。


 今になってみれば分かりやすい。父が大切にしてきたのは、役に立つ娘という道具だった。嫁いだ先で食べられる道具から、銀の首輪で飼える怪物へ用途が変わっただけである。ずいぶん長くかかったが、ようやく自分の家での扱いを理解した。


 理解した以上、もう父の望む道具へ戻る気はなかった。


「嫌。……嫌です、お父様」


「強情を張るな。身体が裂けるんだぞ。痛いのはお前だ」


「それでも嫌!」


 娘を嫁がせた時はアルノルト様に食べられても構わず、感染した今は怪物として使えるから惜しい。父にとって私の価値はその程度の上下しかしないようだ。


 父はため息をつくと少年の髪を掴み、短剣を喉へ添えた。足裏を貫く鉄串が床を擦り、肉の穴を横へ広げる。少年の口から甲高い声が漏れ、傷口から新しい血が銀盆へ落ちた。


「なら……なら、腹をもっと空かせればいい。本能を刺激してやればくだらない意地も張らん」


 父が少年の喉を浅く切った。赤い線が開き、血が胸元へ伝う。あと少し刃を沈めれば取り返しがつかない。少年が目を閉じた瞬間、私は椅子ごと横へ倒れ、肩から石床へぶつかる激痛に耐えながら、背に隠した指を銀の飾り鋲へ伸ばした。目覚めてから父の話を聞く間に、一本だけ緩んでいることを確かめていた。


「ミナ!」


 引き抜いた鋲を床へ投げる。ミナはすぐに意図を察し、縛られた両足を伸ばして銀食器の盆を蹴った。


 カァン!


 皿と匙が石床へ降り注ぎ、地下室を甲高い音で満たした。私の胸では、開きかけた肋骨が勢いよく閉じ、間に挟んだ肉を内側から噛み潰す。口へ生えたばかりの歯も歯茎へ押し戻され、根元から折れた数本を血と一緒に吐いた。


 棺の中ではアルノルト様が絶叫し、内側から押し出された骨が銀板を何か所も盛り上げた。細い骨の先端が隙間から飛び出し、そばにいた兵の頬を貫く。引き抜こうとした兵の顔から肉が帯のように剥がれ、片側の歯茎が丸見えになった。


 地下室が血と嘔吐物の匂いで満たされる中、父の兵たちは棺を押さえようと駆け寄った。私はその間に割れた椅子の脚で縄を擦り切り、ミナ、囚人、女中の拘束を解く。少年の足を床へ留めていた鉄串だけは簡単に抜けず、囚人と二人で両端を持って引き抜いた。穴から血が噴き、少年は声も出せずに痙攣したが、ミナが肩へ担ぎ上げた。


「ミナ、この方たちを! 早く、早くして!」


「奥様は?」


「私は……父と話が残っています。すぐ行く、たぶん!」


 ミナは囚人を立たせ、女中と少年を扉へ向かわせた。私は父へ飛びついて短剣を奪う。銀音の痛みで足元は揺れたが、娘を食卓へ載せた親へ腹を立てる程度の力なら残っていた。


「セシリア、何をする! 下ろせ、それを下ろしなさい!」


「娘を皿へ載せておいて、今さら親の顔をしないで!」


 囚人が追ってきた兵を殴り倒す。その隙に逃げようとした女中を見て、父が声を張り上げた。


「待て、その女を行かせるな! 帳面だ、帳面を持っている!」


「記録なら、もう持っておりますよ」


 女中が胸元から取り出した薄い帳面には、日付、人の名前、送り先、肉の重さまで記され、余白には父の署名があった。


「それを寄越せ!」


 父が飛びかかるより早く、囚人が両腕をその胸へ叩きつけた。二人が倒れ、宙を舞った帳面を、ミナの背に負われた少年が受け止める。


「祖母ちゃんには触らせない!」


 先ほどまで食べ物にしか見えなかった三人が、自分の判断で証拠を守っている。私が救おうとした人たちに、早くも私の未来を救われていた。


「ミナ、お願い!」


 父の兵へ銀盆を投げ、追跡を妨げる。三人が階段を上って姿を消したところで、地下室の大時計が時を告げた。


 キィーン。


 高く震える音が響いた瞬間、胸へ潜っていた骨の塊が肩まで跳ね戻った。移動した骨は内側から肉を裂き、胸から肩へ斜めに赤い筋を走らせる。噛み傷の下まで来ると皮膚を白く盛り上げ、何本もの小さな歯を開いて傷口の肉へ噛みついた。


 痛みで吐きそうになったが、これで確かめられた。音で動かせる。アルノルト様の歯は、まだ身体へ根を張り終えていない。


「気づきましたか」


 棺の中から夫が囁く。


「高い音を嫌っているのです。君の中にある歯も、私の骨も」


「その歯を外へ出せば、私は戻れますか」


「戻したところで私が呼べばまた潜ります。君の中にあるのは、私の一部ですから」


 硬いものが棺の内側へ当たり、鈴が鳴った。私はどうしても聞いておきたかったことを口にする。


「私を心配しているのですか。それとも完成した私を食べたいだけ?」


「両方です。君が苦しむと、私もつらいのです。けれど……ああ、でも、君が美味しくなるのは嬉しいのです。どう言えば許してもらえるのでしょうね」


 即答されたおかげで、最後の迷いはきれいに消えた。この人から愛情と捕食を分けた答えは一生得られない。夫に助けてもらおうなどと、少しでも考えた私が甘かった。


「奥様!」


 階段の上からミナが呼ぶ。三人を外へ出し、私を迎えに戻ってきたらしい。


「棺の内側の鈴を止めろ。起きたあとは私の手鐘で従わせる。逃げた連中を食わせれば、帳面も証人も残らん」


「ミナ! 銀の鈴を守って!」


 父の命令で二人の兵が棺へ駆け寄った。手にした壺から溶けた蝋を隙間へ注ぐと、棺の内側から伸びた指が兵の手首を掴んだ。熱い蝋が皮膚へかかり、焼けた肉の匂いが漂う。それでも兵は壺を離さず、鈴を一つずつ蝋の中へ沈めていった。


 リリ、リン。


 音が減るたび、棺の中の骨音は太くなった。私は棺へ走ったが、兵の剣が行く手を塞ぐ。避ければ間に合わず、受ければ腕を失う。


 そこへ上の階から少年の悲鳴が届いた。別の兵が逃げた三人へ追いついたのだ。


 棺か、人命か。


 迷う時間はなかった。


「ミナ、上へ!」


 棺へ背を向け、階段へ走る。追手の腕へ噛みつきそうになる口を銀鋲で叩いて耐え、少年から兵を引き離した。ミナも拾った剣の柄で兵を殴り倒し、二人で少年を外へ押し出す。


 地下から、途切れかけた音が届いた。


 リ……ン。


 蝋に沈んだ最後の鈴が、一度だけ鳴って止まった。


「よし」


 父の安堵した声が消えると、音に押し戻されなくなった骨が銀の棺から一斉に伸び始めた。


 ギチギチギチギチ。


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