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顎が外れた。
痛みを感じるより先に口が胸元まで開き、裂けた頬の内側から、ぬるい血が舌へ流れ込んできた。私のものとは思えないほど長くなった舌は、向かいに座るミナの首へ伸びていく。
「奥様……?」
怯えた声とともにミナの喉が震えた。どくん、と鳴った心臓の音が、骨付き肉へ歯を立てた時のように聞こえる。薄い皮膚の下を流れる温かな血も、柔らかな喉の肉も、まだ一口も食べていない私の舌には、とっくに味が分かっていた。
甘い。
冗談にもならない。私は三日前まで、ごく普通の人間だったはずだ。やめて、と声にしようとしても、開いた喉の奥から出るのは湿った呻きばかりだった。
ミナは座席の端へ逃れ、背中を馬車の扉へぶつけた。取っ手へ手をかけたものの、外には御者がいると気づいたらしい。顔を涙で濡らしながらも扉を開けず、怪物になりかけた私と狭い車内へ残った。
「御者が……外に」
この状況で次の犠牲者まで心配するのか。寝室で食卓へ載せられていた時も思ったが、この娘は怖がりのくせに肝心なところで逃げない。
私は両手で下顎を押し上げた。しかし関節はギチギチと鳴るだけで閉じず、肋骨まで内側から押し広げられ、衣服の胸元が不自然に盛り上がっていく。
その時、馬車が凍った轍を踏んで大きく跳ね、窓の留め具へ銀の飾り鎖がぶつかった。
リィン。
澄んだ音と同時に、胸元まで垂れていた顎が勢いよく跳ね上がった。伸びた舌を自分の歯で噛み、先端が裂ける。肋骨も一息に引き戻され、肺をきつく締めつけた。
私は息を詰まらせて座席から落ちた。近づこうとするミナを止めたかったが、指まで反対側へ折れ曲がり、床を引っ掻くばかりで手の形を作れない。
馬車が揺れるたび、銀鎖は窓へ当たって音を立てた。その一音ごとに指の骨が一本ずつ元へ戻り、身体の内側へ釘を打って無理やり留め直されるような痛みが走る。ありがたい弱点ではある。もう少し手加減してくれても罰は当たらないと思う。
「その鎖……外して。早く、お願い」
どうにか顎を動かして告げると、ミナは青ざめたまま窓を見た。
「ですが、音が止まれば……」
「止めないで。手に持って、顔のそばで……ち、近すぎる。少しだけ離して」
彼女は震える指で銀鎖を外し、私の耳元で小さく振った。リィン、リィンと鳴るたび頭蓋の内側がひび割れそうになったものの、ミナの心音は少しずつ食べ物の音から、ただの心音へ戻っていく。
「今度は肩へ。傷のそば……たぶん、そこ」
「傷へ、ですか?」
「分からない。でも、確かめないと、あなたを食べる」
銀鎖が噛み傷へ近づいた瞬間、皮膚の下で硬いものが動いた。肩から鎖骨へ潜ろうとしていた細い塊が音を避けて背中側へ移り、白い筋となって皮膚を内側から持ち上げる。
「骨が……奥様の中を動いています」
「あの人よ。あの人が、私の中へ……ああ、気持ち悪い」
私自身で銀鎖を傷の外側へ近づけると、骨の塊は傷口へ戻っていった。痛みが増す代わりに、人間を食べたい衝動は薄くなる。つまり音を鳴らし続ければ、ひとまずミナを食べずに済むらしい。新婚三日目で夫に食われかけ、六日目には自分が侍女を食べかけるとは、我ながら大した結婚運である。
「わ、私が鳴らします。眠っている間も。腕が動かなくなったら、その時も……ですから、鎖をください」
「怖くありませんか?」
「怖いに決まっています。でも、逃げたら、奥様はもっと怖いでしょう」
迷いのない返事だった。
「あの部屋で、奥様は来てくださった。私、もう駄目だと思っていたのに。だから……今度は逃げません」
何も言えずにいると、ミナは私の耳から出た血を布で拭った。試しに銀鎖を握る手を止めてみれば、ほんの三呼吸で彼女の心音が大きくなり、肩の骨が鎖骨へ潜った。口の中へ細い歯まで生えたため、慌てて鎖を鳴らして歯茎の奥へ戻す。今できるのは一時的に止めるところまでで、私たちの耳も無事では済まないらしい。
「三度鳴らしたら、一度休みましょう。いち、に、さん……ああ、血が。奥様、耳から血が出ています」
ミナへ鎖の片側を預ける。細い銀鎖は、私たちの手の間でかすかに鳴った。
◇
日が暮れる前、護送隊は街道沿いの礼拝所で馬を休ませた。私たちの馬車の後ろには八人の兵に囲まれた黒い荷馬車が続き、荷台へ銀色の棺が固定されている。
王都の裁判所まで、アルノルト様も同じ道を運ばれるらしい。棺の内側からは小さな鈴と、肉を擦る湿った音が交互に聞こえた。彼が動くたび銀鈴が鳴り、伸びかけた骨を折っているのだろう。
「奥様、近づかない方が……」
「私の身体について知っているのは、あの人だけです」
ミナと銀鎖を持ったまま棺のそばへ立つ。銀板の合わせ目から黒い血が染み出しており、その匂いに私の腹が鳴った。相手が夫でも、今の身体には立派な食べ物らしい。夫婦で食うか食われるかしか選べないとは、ずいぶん狭い新婚生活だ。
「アルノルト様。聞こえていますね」
鈴が止まり、返事の代わりに爪が銀板を掻いた。骨が伸びようとするたび、ギチ、リリン、と二つの音が重なっている。
「私の肩へ何を入れました」
「ようやく、君の中で目を覚ましたのですね」
潰れた喉から絞り出すような声には、隠しきれない喜びが混じっていた。
「質問に答えてください」
「私の歯です。傷の中へ置いてきました。三日ほど眠り、目覚めれば胸へ向かう。そこへ根を張れば、君も私と同じです」
噛まれた日から三日が過ぎ、今日になって骨が動き始めた。ならば聞くべきことは一つである。
「目覚めてから、どれほど猶予がありますの」
「三日。もっとも、人を食べずに三日も耐えられればの話ですが」
「食べたらどうなります」
「楽になります。骨が肉を得て、身体へ馴染む」
「ミナを食べろと?」
「君は彼女を気に入っています。きっと美味しいですよ」
ミナの手が震え、銀鎖が強く鳴った。私は棺へ顔を寄せる。
「あなたと同じになるくらいなら、骨に裂かれて死にます」
「同じになれば、死なずに済みます」
「百人を食べて生きることを、私は生きるとは呼びませんっ」
棺の中から低い笑いが返ってきた。
「その声も、いつまで続くでしょうね」
突然、礼拝所の外で馬がいななき、窓辺にいた兵の喉へ黒い矢が突き刺さった。兵は抜こうとして鏃を喉の中で折り、口から血の泡を吹きながら何かを訴える。声にならないまま倒れた身体を踏み越え、森から灰色の外套を着た兵たちが現れた。胸元にあるのは、私の実家ヴァルモント侯爵家の紋章だった。
助けが来たと思ったのは、ほんの一瞬である。父の兵は護送兵を斬り伏せると銀の棺を縄で固定し直し、私の馬車へ乗り込んでミナを殴った。唇が歯へ当たり、白い前歯が一本、血と一緒に床へ転がる。
幼い頃、父の紋章を見れば安心しなさいと教えられた。領内のどこにいても、あの鷲が娘を家へ連れ戻すと言われて育ったものである。実際に迎えは来た。ただし連れ帰る先が安全な家とは、誰も約束していなかったらしい。
「何をするのです!」
銀鎖を鳴らそうとした手を掴まれ、そのまま鎖を奪われた。
「侯爵閣下のご命令です。お嬢様と公爵を、そろってお連れするようにと」
音が止むと、胸の奥で眠りかけていた骨が動き出す。兵たちの背後では銀の棺の鈴も激しく鳴り、私と夫の骨音が呼び合うように重なった。
「よかったですね、セシリア」
棺の中から、アルノルト様の楽しげな声がする。
「君のお父上は、私たちを引き離したくないようですね」
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