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「あなたを愛することはありません」
婚礼の夜、夫となったアルノルト様はそう言った。
黒い礼装に銀の髪。北方一帯を治めるグレイヴ公爵は、聖堂の彫像より端整な顔をしていた。ただ、その美しい唇から出た言葉は、新妻へ贈るには冷たすぎる。
「承知いたしました」
私が答えると、彼はわずかに眉を寄せた。泣くと思っていたのかもしれない。
政略結婚に夢を見るほど幼くはない。夫婦として礼を保ち、互いの家へ迷惑をかけなければ十分だ。そう自分に言い聞かせた。
アルノルト様は隣の寝室へ入り、内側から鍵をかけた。
その夜、私は奇妙な音で目を覚ました。
ギチ。
ギチギチ。
厚い壁の向こうから、硬い枝をゆっくり曲げるような音がする。
しばらくすると、ぬちゅ、と水気を含んだ何かが擦れた。続いて、ごくり。
音はそこで途切れた。
翌朝、食堂へ入ると、アルノルト様は先に席へ着いていた。昨夜のことなど知らない様子で新聞を読んでいる。
「あの……昨夜、お身体に何かございました?」
「何か、とはどういう意味ですか」
「音がしたのです。何度も。硬いものを……折るような」
新聞の端が彼の指の中でかすかに鳴った。
「古い屋敷です。家鳴りくらいするでしょう。……気にしなくていいですよ」
短い返事だった。
銀の匙でスープをすくう。濃い肉の香りが鼻へまとわりついた。表面には脂が薄く浮き、底に小さな白い欠片が沈んでいる。
骨だろうか。
匙の先で触れると、欠片は簡単に砕けた。
「料理長が替わったのですか?」
「いいえ」
給仕をしていた若い侍女が、盆を傾けた。名をミナといったはずだ。顔から血の気が引いている。
アルノルト様が彼女へ目を向ける。ミナの肩が跳ねた。
「奥様、お口に合いませんでしたら、お下げいたします」
「ええ。お願い」
皿を渡す時、ミナの指が私の手へ触れた。
逃げてください。
唇は動かなかった。それでも彼女の目は、はっきりそう訴えていた。
翌日、ミナは姿を消した。
「母親が病に倒れたため、暇を出しました」
家令は滑らかに説明した。
荷物も置いたまま、給金も受け取らず、吹雪の中を出ていったという。屋敷の者は誰も疑問を口にしなかった。
二日目の夜も、音がした。
ギチ、ギチギチ。
ぬちゅ。
ごくり。
三日目の朝、厩番が一人消えた。
三日目の夜、また同じ音が始まった。
私は寝台の中で毛布を握りしめた。
怖い。壁の向こうへ近づきたくない。耳を塞ぎ、朝まで何も知らずにいたかった。
けれど、次に消えるのは誰だろう。
あるいは、私か。
愛さないという宣言が、急に別の意味を持った。妻として扱わないというだけなら、あれほど険しい顔で告げる必要があっただろうか。
私は寝台を下りた。
公爵夫人へ渡された鍵束を手に取り、一番細い鍵を選ぶ。婚礼衣装に合わせて履いていた柔らかな室内靴なら、石床を歩いても大きな音は出ない。
廊下へ出ると、壁の燭台が青白く燃えていた。
ギチ。
昨夜より近い。
夫の寝室の前へ立った。扉の下から、細い光が伸びている。
ギチギチギチ。
呼吸を止め、鍵穴へ目を寄せた。
アルノルト様が寝台の脇に立っていた。
上半身には何も着けていない。白い背中の中央が盛り上がり、皮膚の下を太いものが這っていた。
ギチ。
背骨が一節ずつ伸びる。
肩甲骨が皮膚を押し上げた。裂ける寸前まで薄くなった肌の下で、骨の先が左右へ開いていく。肋骨が胸から脇腹へ移動し、獣の顎のような形を作った。
アルノルト様が顔を上げる。
口の両端が裂けた。
赤い肉が覗き、頬が耳の下まで割れていく。裂け目の縁では薄い皮膚が糸のように伸び、耐えきれず一本ずつ切れた。顎の関節が胸元まで外れると、剥き出しになった歯茎を突き破り、細い歯が何列もせり出す。床へ落ちた血混じりの唾液には、噛み砕かれた爪が三枚浮いていた。
ギチギチと鳴っていたのは、屋敷の柱ではなかった。
夫の骨だった。
寝台の上で誰かが動いた。
白い夜着。後ろ手に縛られた細い腕。口には布を詰められている。
ミナだった。
暇を出されたはずの侍女が、生きたまま銀盆へ載せられていた。
彼女は私に気づいた。涙に濡れた目が大きく見開かれる。
夫の肋骨がさらに開き、ミナの胴を挟もうとする。
私は鍵を差し込んだ。
手が震え、一度は穴から外れた。金属が扉を叩き、甲高い音を立てる。
室内の動きが止まった。
アルノルト様の首だけが、こちらへ向いた。
「セシリア」
裂けた喉から、二人分を重ねたような声がした。
逃げるべきだった。
私は鍵を回した。
扉を押し開けると、生臭い空気が顔へぶつかった。床には血の染みが幾重にも残り、壁際には女物、男物、子供用の靴が片方ずつ並べられている。寝台の下には切り取られた耳が糸へ通され、干し肉のように吊られていた。その一つには小さな青い耳飾りが残っている。昨日まで廊下ですれ違っていた侍女のものだ。
「ミナを……放して。お願いです。まだ、生きているのでしょう」
「ああ……見てしまったのですか。見ないでいてくだされば、よかったのに」
夫はゆっくり身体を折った。長くなった腕が床へつき、爪が石を掻く。
「言ったでしょう。愛さないと。あれは……私は、君を少しでも長く置いておきたかったのです。どうして扉を開けたのですか」
「何を……何を食べているの、あなた」
アルノルト様の裂けた口が弧を描いた。
「好きになるほど、うまくなるのです。困ったことにね。……そんな目で見ないでください」
胸の奥が冷えた。
「婚礼の前から見ていました。春の舞踏会です。転んだ子供を起こしていました。庭の犬も抱いていましたね。君は……笑うと、右の頬だけ窪む。あれを見てから、ずっと、口の中が痛くて仕方なかったのです」
彼の声が湿っていく。
「食べたかったのですよ、セシリア。……ずっと、我慢していました。本当に、我慢していたのです」
愛さないという言葉は拒絶ではなかった。
自分へ言い聞かせるための蓋だった。
アルノルト様の肋骨が鳴る。先端には、過去の食事から残ったらしい肉片が絡んでいた。
「使用人で散らしていました。君を食べないために、ほかの者で……いや、違いますね。そんな言い方をしたら、君はもっと怒るでしょう。ああ、でも、もう匂いを覚えてしまいました」
彼の爪が石床を蹴った。
私は脇へ飛んだ。爪が肩をかすめ、夜着と皮膚が一緒に裂ける。熱い血が腕を伝った。
ミナの載った盆が揺れる。
アルノルト様は床へ落ちた私の上へ覆いかぶさった。開いた肋骨の内側では、何本もの舌が、前の食事から残った眼球を転がしていた。一つが潰れ、透明な液と黒い瞳が私の頬へ落ちる。
その時、彼の爪が銀の水差しへ触れた。
カァン、と澄んだ音が響いた。
夫の身体が大きく痙攣した。
開いていた肋骨が一斉に縮み、数本が皮膚を内側から突き破った。黒い血が噴き、床を汚す。
私は春の婚礼式を思い出した。
聖堂の鐘が鳴るたび、隣に立つ彼は歯を食いしばっていた。緊張しているのだと思っていた。
金属の高い音がこの人の骨を狂わせる。
床の銀盆を両手で掴み、石壁へ叩きつけた。
ガァン!
「ぐ、ああっ!」
夫の顎が跳ね上がった。外れていた関節が勢いよく戻り、長い舌を自ら噛み切る。肉の塊が床へ落ち、まだ生き物のように跳ねた。
私はミナの拘束を解いた。
「ミナ、立てる? お願い、立って!」
彼女は何度も頷いた。
二人で廊下へ飛び出す。後ろから、骨を引きずる音が追ってきた。
ギチ。
ギチギチ。
「待ちなさい! 外へ行ってはいけません、セシリア!」
アルノルト様の声が屋敷中へ響く。
「皆、知っているのです! 家令も、使用人達も! 私が守る、その代わりに肉を寄越すのです! 君のお父上だって知っていました。知っていて、君を寄越したのですよ!」
前方から家令が現れた。手には猟銃がある。
「お、奥様。どうか……戻ってください。私どもも、こうするしか……銃を下ろさせてください」
銃口がこちらへ向く。
ミナが息を呑んだ。
私は壁の呼び鈴へ手を伸ばした。銀の鎖を力いっぱい引く。
屋敷中の鐘が鳴った。
リン、リン、リン、リン!
背後でアルノルト様が絶叫した。
家令が振り返る。その隙にミナが体当たりした。猟銃が落ち、暴発する。弾は天井へ穴を開けた。
私たちは玄関を抜け、雪の中を礼拝堂へ走った。
裸足のミナが何度も転んだ。私も肩の傷から血を流している。白い雪へ赤い跡が続き、追手へ道を教えていた。
礼拝堂の扉を閉め、鐘楼へ続く階段を上がる。
下から扉の壊れる音がした。
ギチギチという音が近づく。
私は鐘の綱へ飛びついた。
夜明け前の村に、大鐘が鳴り響いた。
ゴォン。
一度。
ゴォン。
二度。
村の家々に明かりがともる。
階段を上ってきた夫の身体が、鐘の下で崩れ始めた。伸びた背骨は一節ずつ逆向きに折れ、皮膚を突き破る。肋骨が閉じるたび腹の内臓を押し潰し、裂けた脇腹から腸が太い縄のようにこぼれた。口からは飲み込まれた指や髪の束が黒い血と一緒にあふれ、その中で半分だけ消化された人の顔が一度まばたきをした。
「やめなさい、セシリア!」
夫が私へ手を伸ばす。
「愛しています! 分かってください、私は、本当に……君を!」
私は綱を引いた。
ゴォン。
大鐘の響きに押し潰され、彼の頭が胸の中へ沈んだ。
礼拝堂へ領民が集まり始めた。猟銃や斧を持った者もいる。誰もが鐘楼に横たわる公爵の姿を見た。
床へ散らばった人の歯も、指も、片方だけの靴も見た。
家令は逃げようとして、息子を食われた厩番たちに取り押さえられた。
アルノルト様はそれでも死ななかった。
潰れた身体の奥から、私を呼び続けた。
「愛しています……だから、食べたいのです。どうして分かってくれないのですか」
私は返事をしなかった。
夜が明けるまで鐘を鳴らし続けた。
◇
三日後、私は王都へ向かう馬車に乗った。
公爵家の地下から百人を超える遺骨が見つかった。家令と共犯者は拘束され、アルノルト様は銀の棺へ封じられた。父が何を知っていたのか、王都で確かめるつもりだ。
向かいの座席にはミナがいる。包帯を巻いた彼女は、疲れ切った顔で眠っていた。
私は窓の外へ目を向ける。
雪原の向こうへ、夫の領地が小さくなっていく。
助かった。
そう思った途端、肩の傷が熱を持った。
爪で裂かれただけだと思っていた。包帯をずらすと、傷の端に小さな歯形が残っている。いつ噛まれたのだろう。
胸の奥がむず痒い。
息を吸うと、肋骨が狭く感じた。
ミナが身じろぎする。眠る彼女の首筋に、青い血管が透けていた。
甘い匂いがした。
そんな匂いを感じたのは初めてだった。
胸の内側で、何かが場所を空けようとする。
ギチ。
私は両手で口を塞いだ。
ミナが目を覚ます。
「奥様、今の音は?」
答えようとした私の顎が、もう一度鳴った。
ギチギチ。
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