賃金労働者の道徳と倫理
「この会社に身を置いて働けば働くほど不思議に感じる事があります。ブラック企業とは対極のホワイト企業級の待遇。仕事と言えば死亡現場に立会い、その後は相手を死に至らしめた張本人を呼び出し調書を取る。全くもってお気楽な業務内容ですよね」
御城静香は椅子の背もたれに背中を預け、自分より3年先に生活管理調査会社「思いやり」に入社した先輩を鋭い視線で見つめる。
まだ入社して1年しか経過してない後輩から無言の圧力をかけられている恩納隆は、自分が取り調べを受けているような圧迫感と息苦しさを感じていた。
「······体内の臓器である心臓が胸部の骨に串刺しにされ体外に飛び出す。通常なら世間を騒がす事件がどのメディアも扱わない。まるで情報統制が敷かれているように。そして私達が持つこの不可解な能力。まるで誰かに与えられているとしか思えません。更に付け加えれば······」
「そこまでだ御城さん」
恩納は後輩の話を遮る。チェーン店のカフェの外は粉雪が舞い始めていた。外界の寒さと反比例するかのように、恩納の頬からは汗が流れる。
「······それ以上は口にしちゃいけないよ。いや。頭で思考する時点で気付かれているかもしれないけどね。だとしてもやはり言葉にしては駄目だ。この会社に居たいならね」
この時、恩納は確かに静香の事を心配していた。だが人間力の余裕の無さが祟り、後輩を脅すような言いようになってしまった事に自己嫌悪に陥る。
「······誰に気付かれているんですか? 恩納さん。黒渕代表取締役にですか?」
「······そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
「そうじゃないかもしれない、とは ? もっと上の存在があると言う事ですか?」
静香の息継ぎを許さぬかのような追求に、恩納はいよいよ追い詰められたような気分になっていた。
「······ジャスミン」
俯いた恩納は、小さな声で呟いた。
「······ジャスミン? 恩納さん。今ジャスミンと言いましたか?」
静香はテーブルに身を乗り出し、先輩が口にした言葉を確認しようとする。
「······香ったんだ。この仕事をしてから2年が過ぎた頃から。あの死亡現場に行くと、いつもジャスミンの匂いが······」
恩納はそこまで言うと我に返ったように猛然と席を立ち上がった。
「······御城さん。今のは忘れてくれ。いや。忘れなきゃ駄目だ。娘さんとの生活を守りたければ、この仕事に疑問も疑念も持っちゃいけない。これは脅しでも警告でもない。心からのお願いだ」
恩納はそう言い残すと、使い古したビジネス鞄とダウンジャケットを抱えて足早にカフェを出た。店の外は粉雪が吹雪いていた。
ダウンジャケットを着てから店を出れば良かったと後悔しながらも、静香のいる店内にもう一度入る気分にはなれなかった。
駅まで歩きながら恩納は静香の言葉を反芻していた。彼女の指摘は鋭く的を射すぎていた。恩納自身も含めて、この会社の人間達は入社するまで霊感や超能力といった分野とは無縁の人生だった。
同僚達との世間話で彼等も自分と同類だと分かったが、では何故突然この妙な能力が身についたのか?
「恩納君。世の中には知らなくても。いや。知らない方が幸せな事もあるよ」
1度だけ尊敬する林田課長が恩納に呟いた事があった。それは、忠告とも警告とも取れた。恩納は今の仕事に満足していた。
厚い福利厚生。1年毎に昇給する給与。平日もプライベートな時間を確保できる。何より心や身体に傷を負った 被害者のアフターケアを担う仕事は、正義や熱意とは無縁な恩納でもやり甲斐や意義を感じていた。
「······でも。殺人は殺人なんだよな。いくら合法的と言っても」
国も警察も司法も沈黙、若しくは黙認しているが 、恩納達が扱う案件は相手を死に至らしめた本人が罪に問われない合法的な殺人だった。
だが、恩納は死亡した人間達に同情したことはただの1度も無かった。先般の白鳥綾音の件もそうだが、死亡した加害者達の悪行はどの案件も筆舌にし難い内容だったからだ。
この世の中には法が無力な事件事故が溢れている 。相手の死を願い、それが成就する。この合法的な殺人は弱者の救済と言えるものではないか?
「······でも。中には更生する可能性がある人間も」
恩納の独り言はそこで途切れた。答えの出ない 問答を繰り返す事への徒労感が精神を消耗させる 。 賃金労働者のささやかな苦悩を、この妙な能力を自分達に与えた超越者はどこかで見ているのか。
目的地の駅を目の前にして、恩納は無意識に漆黒の空を見上げていた。




