戦いのあとで
リーチ・ザ・スカイホテルの一般客室は、スイートルームには及ばないものの一流ホテルにふさわしい内装が施されていた。
その一室のダブルベッドの上で、白髪の少女は目を覚ました。金属の羽板と細い木が等間隔に並んだ天井には、天使の羽は舞ってはいなかった。
「お嬢、気がつきましたか?」
不安と安堵が混ざり合ったような表情で少女の顔を覗き込むのは、エキゾチックな顔立ちの男だった。
「······黒渕? ここはあの世とやらか?」
「違いますよ、お嬢。貴方はまだ生きています」
黒渕の式神は穏やかに微笑む。その柔らかい表情は、白髪の少女がよく知る黒渕本人に瓜二つだった。
マテオ達との死闘のあと、白髪の少女は一週間眠りについていた。都内に配置されていた黒渕の式神達はリーチ・ザ・スカイホテルに集まり、事後処理に当たった。
ホテルの破壊した部屋の補償、主である黒渕マグブルが直接担当していた案件の引き継ぎ、マテオ達の治療と宿泊部屋の斡旋、ジョセフの遺体の火葬。
式神達は粛々と、そして段取りよくそれらを処理していった。
「······あの暗殺者達に助けられたか」
式神に支えられながら、白髪の少女は身体を起こす。長い時間動かさなかった四肢は凝り固まっていた。
「彼らに会いますか? お嬢」
「······会わねばなるまい。後継者殿ともな」
翌日の午後、マテオ達と恩納隆は白髪の少女と再会を果たす。ベッドの上で半身を起こす少女は、殺し合いを演じた相手に漆黒の瞳を向ける。
「我の負けだ。現時点でアメリカ国民につけた印は全て取り除く」
マテオ、バレンタ、フランシスコは、白髪の少女の突然の敗北宣言に驚く。
「······それを信じるに値する証拠はあるの?」
顔中に小さい切り傷を負ったマテオは、神妙な様子の宿敵に確証を求める。
「······それは自由の国からの使者、いや、今は大統領か。彼に証明してもらう」
白髪の少女がそう言うと、横に立っていた黒渕の式神が携帯電話を操作し電話をかけた。程なくして通話が始まった。
アメリカ、ワシントン・DCのホワイトハウスでは、大統領トムリアル・ハワードがベッドの中で眠りを中断されていた。
「······もしもし。そちらは夜中なのに申しわけありません。黒渕です。覚えておいででしょうか?」
「······勿論だ、ミスター・黒渕。まさか君から電話を貰えるとは思っていなかったよ。君とミス・ルサンチマンは息災かな?」
トムリアルは寝起きの声を一切出さず、アメリカ合衆国を滅亡の淵へ追いやる悪魔達に精一杯の皮肉を口にする。
「大統領閣下。一月二十日の大統領演説、お見事でした。貴方達の勝ちです。あのモールス符号が、アメリカ合衆国の運命を変えました」
「······それは、どういう意味かな? ミスター・黒渕」
不用意な言葉は一切使えない相手に、トムリアルは慎重に敵の内情を探る。あのモールス符号は、トムリアル達アメリカにとって一縷の望みを賭けた最終手段だった。
「言葉通りだ、大統領殿。モールス符号を見てはるばる来日した暗殺者達に我は敗れた。故にアメリカ全国民の印は全て解く」
突然のルサンチマンの声に、トムリアルの心臓は凍りつきそうになる。永遠に関わり合いたくない相手だったが、自分の立場をわきまえた大統領は、怯える心を奮い立たせる。
「······私の健康の為に詳細を聞くことは止めておきましょう。ミス・ルサンチマン。印を解いたという証拠は?」
ベッドの隣で心配そうに自分を見つめる妻を手で制しながら、トムリアルは最も重要な質問をする。
「自らの身体で確かめるがいい。お主には既に印をつけていた。我に敵対行為を働けば呪いが発動される」
トムリアルはルサンチマンの言葉の真意を瞬時に理解した。白髪の悪魔は、自分の命を使って確かめろと言っていた。
「······ミス・ルサンチマン。私も自分の命が惜しい。ですが、アメリカ全国民の為なら喜んで人身御供になりましょう。ですがもう一度だけ確認させてください。貴方の言葉を信じてもよろしいのですか?」
夜中に叩き起こされた大統領は、自分の命が突然危険なポーカーの賭けの対象になった気分だった。だが、ろくな手札が無くとも今は降りられない勝負だと確信していた。
「もう一度だけ言おう。アメリカ全国民の印は解いた」
白髪の悪魔のその言葉を聞いた瞬間、トムリアルはベッドサイドに備え付けられた有線の固定電話器を手に持つ。
最高機密に対応した通信機器は、国防総省の国防長官にすぐに繋がった。
「東京の赤坂、リーチ・ザ・スカイホテルに直ちに特殊部隊を送れ」
大統領の命令を、国防長官は迅速に実行する。
「あなたっ!!」
顔面蒼白になり自分の胸を手で押さえる夫に、妻は泣きながらしがみつく。
どれくらいの時間が経過したのか、ホワイトハウスの寝室の中で、トムリアルの耳に聞こえるのは自分の乱れた呼吸音だけだった。
そしてトムリアルは震える手で受話器を握る。
「······国防長官、作戦は中止だ。繰り返す、作戦を直ちに中止せよ。アメリカ合衆国は救われた」
大統領の二度目の命令も、国防長官は忠実に実行した。国防総省の職員達に歓喜の叫び声が上がったのは、その少しあとだった。
白髪の少女とアメリカ合衆国大統領との緊迫したやり取りを間近で聞きながら、恩納隆は自分が場違いなところにいると感じていた。
『······俺は何も出来なかった。でも、せめて見届けないと駄目だ』
白髪の少女から携帯電話を受け取ったマテオは、緊張した面持ちで咳払いをする。
「······もしもし、大統領閣下?」
「······もしもし、私の名はトムリアル・ハワード。まずは感謝を言わせてくれ。アメリカを救ってくれてありがとう」
「······そう言ってもらえて光栄です。大統領閣下。でも、僕達は大切な人を失いました」
「······そうか。その英雄の名を教えてもらえるかな?」
「······ジョセフ、ジョセフ・テーラーです。大統領閣下」
「······ジョセフ・テーラー。大統領の名に誓って約束する。ジョセフ・テーラーと君達にアメリカ合衆国は永遠に感謝する。今日、この日のことを絶対に忘れない」
「······そ、その大統領閣下。一つお願いが」
「なんだい? 何でも言ってくれ、ミスター······」
「マテオです。大統領閣下」
「ああ、マテオ。望みを言ってくれ」
「アメリカの永住権って貰えます?」
ホワイトハウスの寝室のベッドの上で、夫の通話に聞き耳を立てていた大統領夫人は、夫と一緒に呆気に取られていた。




