隠霊沙山
日本の屋根と呼ばれ、国内でも有数の標高を誇る地に、隠霊沙山という名の山があった。
その山は周囲の山々を拒絶するように単独で屹立していた。 無人駅の単線の周囲は、田園風景と広い空がどこまでも続いていた。
騒々しい都市とは何もかも違ったが、血の通った人間が直面するのは身体の芯から凍える寒さだった。
「ママ、さむいねー」
三歳の幼児が真っ赤になった小さい両手に息を吹きかける。そしてところどころ地面に残っている雪を素手で掴む。
小春の母である御城静香は軽装でここに来たことを後悔していた。 パンプスこそスニーカーに替えたものの、コートはいつもの薄手であり、なにより娘の小春に手袋さえ持たせるのも忘れた。
舗装が行き届いていないひび割れた道路を二十分ほど歩くと、後ろから白い軽トラックが静香達に横付けしてきた。
「あんたら何処から来た? この先は山しかないぞ?」
七十歳前後に見える白髪の男は、運転席から窓越しに静香に声をかける。男の第一声を聞いた瞬間、静香はこの男、否、この人間とは反りが合わないと感じた。
同時に静香は自分の考えに戸惑う。普段から他人に興味を持たない自分がなぜそんな感じ方をするのかと。
「······アンタまさか、自殺しに来たんじゃないだろうな?」
「······違います。あの山に住むある一族を探しに来たんです」
「あの山って、隠霊沙山のことか? あそこは鹿と熊しかいねえぞ?」
「貴方は地元の方ですよね? 陰の一族と聞いたことはありませんか?」
ぐずる小春を抱き上げ、静香は老人に単刀直入に質問する。すると、老人は金歯を見せ大笑いする。
「いや、済まねえ。隠語を使わねえ名を久方ぶりに聞いたもんでよ」
遠慮のない言いように、静香はやはりこの男とは合わないと確信した。
「寒いから車の中で話そう。アンタは良くてもその嬢ちゃんが可哀想だ」
静香は躊躇したが、自分の胸にしがみつく小春に負け、軽トラックの助手席に座る。
「······さっきも言ったが、この時期にあの山に登っても誰もいねえよ」
「······この時期、つまり冬は、ということですか?」
「アンタがさっき口にした一族は地元の俺らは「ずく」と呼んでいる」
「ずく、ですか?」
「ああ。長野の言葉で人の為に尽くすという意味だ。俺らはそれを隠語として使ってんだ」
ヒーターの効いた温かい車内で小春の機嫌はすっかり良くなり、鼻歌を歌っていた。
「アンタ、「ずく」の人達は一年中山の中で祈祷でもしてると思ったのか?」
「ち、違うんですか?」
静香が躊躇いがちに返答すると、老人は再び大笑いした。その笑い方が静香の癇にいちいち障る。
「こんな冬の真っ只中の山にいたら凍死しちまうよ。「ずく」の人達だって生活がある。普段は自分達の生業をこなして、山に入るのは季節の終わりだ 」
「季節の終わりですか?」
「そうだ。春夏秋冬、それぞれの季節の変わり目に山に入る。そして無念の内に亡くなった死者達の怨念を隠霊沙山に封じるんだ。だが、もうそれもすっかり拝めなくなった」
「······もう一つの一族。陰の一族が居なくなったからですか?」
この地元の人間である老人がどこまで事情に精通しているか分からなかったが、静香は確信に迫る質問をする。
「······そうだ。隠霊沙山には陰の一族と陽の一族がそれぞれの場所で役目をこなしていた。数年前まで陽の一族は役目をこなしていたが、無念の内に死んだ死者達の怨念をこの山に引き寄せる役目の陰の一族が不在になっちまった。土地に留めた死者の怨念を慰め清める役目の陽の一族も、やることが無くなっちまってとうとう諦めちまった」
二つの一族は陰と陽と言うだけあって険悪な関係だったという。だがそれぞれの役目は疎かにせず、長きに渡ってこの国の死者の怨念を協力して封じ浄化してきた。
「······もし、陰の一族が再び役目をこなせば、死者の怨念が引き起こす大災害は防げるでしょうか?」
「······さてな。仮に陰の一族が見つかったとしても、こんな田舎に住もうなんて思うか? ここいらもずいぶんと寂れちまった。誰からも感謝されない役目を好き好んでやる奴がいるかい?」
老人は達観したように遠くを見るような目をする。
「おまけに、だ。さっき俺が言った隠語も、この地元でさえごく限られた人間しか使わなくなっちまった。陰陽一族なんて言おうものなら白眼視される。陰の一族は廃れ方が酷くてな。一族の者への風当たりはきつかったらしい」
老人の説明に静香は黒渕の言葉を思い出す。白髪の少女は住む土地で忌み子として蔑視されていたと。
「······貴重なお話をありがとうございました。私は必ず陰の一族を探し出します。それしか」
それしか恩納を救い、アメリカの大虐殺を止める方法が無いと静香は内心で呟く。
「陰の一族ならもういるじゃねえか?」
「······はい?」
「アンタ俺と会った時、コイツとは話が合わねえなって思ったろ? 俺もそうだ」
「どういうことですか?」
「陰と陽。この二つは全くの正反対でな。合わねえんだよ、性格が。そっちの嬢ちゃんも俺のこと、一切見えねだろ?」
「······まさか、貴方は陽の一族の方なんですか?」
「そうだ。そしてアンタとその嬢ちゃんは陰の一族だ。俺は歳がいっているから昔に陰の一族と会ったことがあるんだ。まさに水と油、その時の感じと全く一緒だ。アンタは間違いなく陰の一族だよ」
「······私が? そんな。そんな話は母から一切聞いたことがありません」
「二つの一族は気が遠くなるほど昔から存在していた。一族と土地から離れた者達もしかりだ。アンタは一族から離れた者達の子孫なんだろ。アンタの母親だってきっと知らないだろうよ」
静香は林田六三郎との会話を反芻する。あの時、静香は林田から聞いた二つの一族のうち、まだ健在の一族の名を陽の一族と断定した。
なぜ自分はそれが分かったのか。静香は改めて考えても合理的な答えが見いだせなかった。
「ちったあ心当たりがあるみてえだな。それで? アンタは陰の一族として役目をこなす覚悟はあるのか?」
「······分かりません。いえ、やります。私にはそれしか選択肢が無いんです」
突然の事実に加え、迫られる決断。だが、静香には逡巡する余裕は許されていなかった。
「なら冬の終わりにまたここに来い。アンタら陰の一族のやり方は分からねえが、基礎的なことなら教えてやれる。そのあとは自分で学びながら何とかするって条件だ」
「······分かりました。冬の終わりにまた来ます。必ず」
静香は自らの退路を断ち、自分の行く先を決めた。そして、陽の一族のこの男とはやはり合わないと改めて痛感させられる。
皮肉にも、それが静香自身に陰の一族だという自覚をもたらしていた。
膝の上で大人しくしていた小春は、いつの間にか眠りに落ちていた。




