1%の支配者
恩納隆は寝間着の上から紺色のダウンジャケットを羽織り、サンダルを履いてアパートの3階から階段で降りていく。
深夜の一段と底冷えする寒さに、隆は白い息を吐きながら身を強張らせる。アパートの前にはワインレッドのローバー・ミニクーパーが停められており、車の窓から身を乗り出し隆に手を振る者がいた。
「遅くに申し訳ありません。恩納さん」
ミニクーパーの狭い助手席に座る隆に、黒いスーツを着た黒渕マグブルは爽やかに非礼を詫びてきた。
「······黒渕代表。私の携帯電話はキャッチホンの契約はしていない筈ですが、これは代表の仕業でしょうか?」
「はい、その通りです。各携帯電話会社を通じて色々と段取りを組みまして。恩納さんの契約を少し変えたのもそのついでです」
黒渕は悪びれず柔和な笑顔で返答する。携帯電話会社の段取りとは一体何なのか。質問したい事は山程あったが、恩納は取り敢えず黒渕が口にした事から一つずつ聞くことを決めた。
「······国民一人ずつに、配給の為のQRコードが送られる?」
「はい。明日から政府は携帯電話会社を通して携帯電話を所持している全国民にQRコードを送ります。そこに政府公認の電子マネーが毎月入金されます。言うなればベーシックインカムのような制度ですね。それがあれば日用品は店で手に入ります。一日あたり使用できる金額は限度があり当面は不正を防ぐ為に本人確認が必要になりますが、国民生活はこれまで通り経済活動が可能になります」
そして携帯電話を持たない人達は役所の窓口で配給手帳を即時発行すると言う。当分の間は現金の使用が禁止され、預貯金の引き出しも厳しく制限される。
だがそれは一時的なものであり、国内の情勢が落ち着けば段階的に現金の使用を許可する。そして国内の混乱に備えて陸上自衛隊を街の警備に動員する準備があると言う。
「ですが自衛隊が出動する事はないでしょう。コロナ騒動の時に証明されましたから。この国の国民は緊急事態には羊のように大人しく政府の言う事を聞くと」
まるで自分が直接羊だと言われているような気分になった隆は、苦虫を噛み潰したような表情になる。
「······黒渕代表。これからこの国はどうなるのですか?」
「食料やエネルギーについては心配ありません。日本と付き合いのあった各国にはこれまで通り輸出入を続ける事を確約させています」
「······確約? それは政府が? それとも黒渕代表がそうさせたのですか?」
「恩納さん。世界の富を握っているのでは全体の何パーセントだと思いますか?」
突然の黒渕の質問に、隆は頭の中を巡る不審と不安の思いに水を差された気分になる。
「······テレビか本で見聞きした覚えがあります。全体の1割ですか?」
「本当の世界の支配層は1%です。彼等は途方もない富を独占しています。そして富とは権力と同義です。各国の政治家は所詮彼等の使い走りです。1%の権力者を操れば、他国にこちらの要求を通す事は容易いことです」
大柄な黒渕がシートに体重を預けると、その負荷に耐えかねたように軋む音がした。代表取締役が言わんとする事は隆にも理解できた。
黒渕と「お嬢」と呼ばれる女性は1%の支配者達にジャスミンの印をつけ脅迫しているのだ。故に各国はどれだけ自国が混乱していても日本とこれまで通り輸出入を継続しなくてはならない。
「······黒渕代表。ナショナル・モールのあの虐殺は本当に必要だったのですか?」
隆は挑むような目つきで黒渕を睨みつける。人間として越えてはならない領域をいとも容易く踏み越える現代の陰陽師に対して、隆は何一つ理解できる点は無かった。
「······どうやら私は恩納さんから随分と嫌われたようですね。仕方ありません。これは恩納さんが後継者の役目を了承してから話すつもりでしたが」
黒渕の表情はいつもの柔和さが消え、隙のない引き締まったものに変わった。
「恩納さん。死者達の無念を晴らさなければならない。以前そうお話したと思います。それを果たさなければ数百年に一度、天変地異という名の大災害が起こるのです」
「······天変地異?」
「はい。生を全うする事を強制的に中断された人間の無念と恨みは、私達生者が想像できないほど根深いのです。その怨念の行き場が無くなると、現世に多大な影響を及ぼすのです」
「つまり、定期的にガス抜きをしなければならない。そういう事ですか? 黒渕代表」
「その通りです。近代に入ってから人間達が起こす戦争や紛争は桁違いの死者を生みました。もう近いのです。限界が」
「そ、そのガス抜きの為にナショナル・モールの人達を犠牲にしたのですか?」
「······10万人程度の犠牲では死者達は納得しません。3億5千万。アメリカ全国民の命を以ってようやく溜飲が下がるでしょう」
隆は内心で絶句する。やはり静香が言った通り、ナショナル・モールの殺戮はアメリカ全国民にルサンチマンの存在と力を知らしめる為のパフォーマンスだった。
しかもアメリカ全国民の命を奪わないと死者達の怨念が世界に歪みを生み大災害が起こるという事実。一介の賃金労働者の隆にとって、それは理解し難い事だらけだった。
「······恩納さん。これは言いにくいのですが、お嬢の寿命が思ったより早く尽きそうなのです。それまで私は後継者を見つけたい。それが本音です。恩納さんには勿論断る権利があります。ですから次の後継者候補にお願いする他ないところまで追い詰められているのです」
「······次の後継者候補?」
黒渕の不吉としか言いようがない言葉に、隆の胸は急に不安に埋め尽くされていく。隆の脳裏にある人物の顔が浮かんだからだ。
「次の後継者候補は、御城さんです」
黒渕は無機質な声色で躊躇うことなくその名を口にした。隆の脳は思考する事を放棄したように、ただ呆然とするしか無かった。




