1月20日
その日、ワシントンDCでは朝方の気温がマイナス3度を記録していた。国立公園であるナショナル・モールには極寒の空気に晒されながらも10万人の住民が集まっていた。
時計台の針は午前9時45分を差していた。住民達は白い息を吐き震えながらもその表情は一様に皆明るかった。
広大な芝生に設営された30か所の臨時受付所には、長蛇の列が途切れる事なく続いていた。今朝ここで受付さえ終えれば、翌日には口座に1万ドルが振り込まれるからだ。
政府の貧困層対策の一環だが、ワシントンDCの住民だけに給付される事について全米から政府に批判が殺到していた。
テレビ局の取材に答える住民達は、大統領の気前の良さと当面の生活費が賄える安堵感を笑顔で応えていた。 園内には巨大な屋外用ディスプレイが設置され、10時からは大統領の特別演説が流される予定だった。
受付所で忙しく働くトマス・ハリントンは、不満が顔に出ないように必死だった。政府職員として働くトマスは今日は有給休暇の筈だった。
休暇を取り消され受付所に駆り出された上に、政府財政難にも関わらず1人につき1万ドルの給付を10万人に行う政府上層部の正気を疑った。
「······それにしても、ドローンカメラが多すぎやしないか?」
トマスは空に浮かぶ無数のドローンカメラを一瞥してため息をついた。ドローンの数さえ今日のトマスには癇に障った。
そして時刻は10時。ディスプレイには大統領の姿が映し出される。大統領が公の場で姿を見せるのは実に1カ月ぶりだった。
その大統領の痩せこけた身体を見て、トマスは表情を歪めた。以前の大統領は運動不足が指摘される程の恰幅の良さだった。
それが頬がこけ、ライトブラウンの髪の毛は全て白髪になっていた。そしてダークスーツに黒いネクタイ。それはまるで葬儀に参列する格好だった。
「······ふん。この大統領も長くはないな。今年の中間選挙が楽しみだよ」
トマスは自分の不遇の全てを大統領が原因だと決めつけ、今年60歳になる大統領に見切りをつけていた。
ホワイトハウスの大統領執務室では、入室を許された20人の新聞記者達が椅子に座り大統領が演説を始めるのを待っていた。
大手新聞記者のマイケル・ミラーは、この大統領執務室に入室した時から妙な空気を感じていた。執務室の端に控える副大統領を始めとする高官達から殺伐とした雰囲気が漏れていたからだ。
そして大統領が演台の前に立つ時、黒服のボディガード達が大統領の足元に巨大な幕を敷いた。その幕にはアメリカの星条旗が描かれており、大統領は星条旗の上に立つ格好となった。
国家の象徴である星条旗を踏みつけるなど大統領として不適切な行為であり、大統領演説が終わったらこの事を追求して夕方のニュースのトップにする事をマイケルは決めていた。
そしてマイケルが気になったのが執務室の天井の縁沿いに設置されていた間接照明だった。その照明の1部が切れかかっているのか、点滅を繰り返している箇所があった。
重要な大統領特別演説を行う執務室の備品管理も満足に出来ないのかと、マイケルは興醒めしていた 。
そして、大統領の特別演説が始まった。
「······親愛なるアメリカ国民の皆さん。今日は皆さんにとても辛いお知らせをしなければなりません」
やせ細った大統領は、暗い表情で演説の口火を切った。
「残念ながら。アメリカ合衆国は日本に、いえ、日本に存在する1人の少女に敗北しました。彼女の名前は「ルサンチマン」彼女は恐るべき能力を持っています。アメリカ全国民を殺せる程の能力です」
大統領執務室の記者達がざわめき始めた。一体大統領は何を言っているのかと。それを理解出来るものは誰1人いなかった。
「今から約3ヶ月後の4月5日。この日までに我々全国民は全ての財産を放棄して国外退去をしなければなりません。そうしなければ、我々はルサンチマンに殺されます。信じ難い話ですが残念ながらこれは真実です。財産の放棄と言いましたが言葉通りです。ポケットにクレジットカードを入れる事は出来ません。1ドル札を入れることも許されません。もちろん、ひとかけらのチョコレートさえもです」
ナショナル・モールのディスプレイで大統領演説を聴いていた10万の住民達は各所で囁き合っていた。これはきっと大統領の長いジョークだと。
「ふん。エイプリルフールの先取りのつもりか?」
受付所でトマスは大統領の演説に益々機嫌が悪くなって行った。だが、それにしては大統領の両目には鬼気迫る迫力がある事をトマスは感じ始めていた 。
大統領は演説を続ける。ルサンチマンがアメリカ全国民を殺す方法を説明していく。ジャスミンの香りを嗅がせマーキングをする。
マーキングされた者はいつでも殺す事が可能となる。 ルサンチマンに危害を加えようとする者、またそれを思考するだけでも即座に殺される事。
ルサンチマンに対抗出来る可能性を持つ能力を持った者達は既に皆殺しにされている事。 核施設や軍事施設と言った重要施設の技術者のみ国内に留まる事が許されている事。
「······親愛なるアメリカ国民の皆さん。私のこの説明を信じる事は難しいでしょう。ですから今からそれを証明します。尊い犠牲を伴って」
大統領の肩が震えだし、マイケルを始めとする記者達もこの特別演説の異様さに徐々に気づき始めていた。
一方、ナショナル・モールの10万人の聴衆の中に 小さな囁き声が時と共に大きくなって行く。それは 、大統領が「ジャスミンの匂いを嗅がせる」と言ってからだった。
ジャスミンの匂いを嗅いだ記憶を思い出した聴衆が、互いに隣の見知らぬ人にその覚えがあるか不安そうな表情で問いかけていく。
「······ナショナル・モールに集まった10万人の住民の皆さん。貴方達は3億5千万人のアメリカ国民を救う為に生贄となっていただきます」
それを言い終えた瞬間、大統領はスーツに右手を滑り込ませ自動小銃を取り出した。その光景にマイケルや他の記者達は凍りついた。
大統領は、自らこめかみに銃口を当てた。




