疑念
「恩納さん。早く被害者の通院先を決めて貰えますか?」
2年後輩の御城静香に催促される恩納隆は、慌ててノートパソコンのファイルを開く。
「ごめんね。御城さん。候補は3つまで絞っているんだけど。あと少しだけ精査させてくれるかな?」
中途半端に伸びた白髪交じりの髪の毛を掻きながら、恩納は両手を合わせ静香に懇願する。
「周囲の人達が言っていましたよ。被害者のケア先なら専属のクリニックがあるのに恩納さんは余計な仕事を増やしているって」
静香は縁無し眼鏡の中から冷めた視線を恩納に向ける。だが、その声には相手を軽蔑する成分は含まれていなかった。
「医者もピンからきりだからね。なるべく被害者の心の傷に寄り添ってくれる人がいいんだよね」
同僚達から奇異の目で見られている事は重々承知だったが、恩納は自分のやり方を変えようとはしなかった。
静香は小さくため息を漏らすと、整理されていない恩納のデスクから見覚えのある資料が目に入った 。
「······恩納さん。あの高校生の案件、まだ相談室に案内していないんですか?」
静香は乱雑に置かれた書類の1枚を手に取った。静香達、生活管理調査会社「思いやり」は、死体現場の立会い、被害者を呼び出し相談、被害者のケア先を紹介してその業務が終わる。
この一連の業務は担当した職員が全てをこなす。 しかし、この案件に限っては珍しい事起こった。3日前、死亡現場に恩納の上司である林田課長が偶然鉢合わせたのだ。
死亡現場には林田課長が立会い、その後の被害者との面談からは恩納が引き継いだという経緯があった。そしてその面談がまだ終わっていなかったのだった。
「恩納さん。忙しかったら私が相談を担当しますが ?」
今までの記憶に無い思いがけない後輩の優しい言葉に、恩納は思わず両目を丸くした。
「ありがとう。御城さん。でもこの案件、ちょっと調べたい事があるんだ」
「······調べたい事ですか? それは私達の業務範囲外じゃないですか?」
恩納は椅子から半ば腰を浮かし、周囲を警戒するように左右を見て小声で静香に耳打ちする。
「御城さんだから言うんだけどさ。この案件、ちょっとすっきりしないんだよね」
「······すっきりしない。ですか?」
静香は両目を細め恩納を見つめる。意図せず後輩の顔に至近に迫った恩納は「愛想さえ欠落していなければ異論無しの美人」という評価を男性同僚達から受ける後輩からシャンプーの香りを嗅ぎ心拍数が乱れた。
「う、うん。この被害者の高校生なんだけどさ。本当に被害者なのかなって」
慌てて自分から離れた恩納を、静香は怪訝な表情で見る。静香は改めて手にした資料に視線を落とす。
荒川遠香17歳高校生。54歳の父親である荒川健太と2人暮らし。長年に渡る父親である健太からの精神的苦痛を受け続け、父親の殺害するに至る。荒川健太の死因である胸部損壊の心臓の色は黄色。
生活管理調査会社には、加害者と被害者の大まかな情報を調べる班があり、その上で被害者を相談室に呼び出す。
恩納や静香達は被害者と対面すれば事件の経緯が分かる能力があり、調査班の情報と一致していれば被害者にケア先を紹介する。
「つまり、一致していないと言う事ですか? 恩納さん。調査班の情報と?」
「う、うん。まだ被害者と対面していないから断言出来ないんだけと。この案件、なんかモヤモヤするんだよね」
両腕を組み釈然としないと言った表情の恩納に対して、静香は首を傾げる。
「被害者と対面もしていないのに、相手の内情が分かる能力は私達にはありませんよ。それよりも早く被害者と対面した方が調査班の情報と齟齬があるかどうか分かるんじゃないですか?」
「······いや。その必要は無いよ。調査班の情報とは違う。分かるんだ」
「分かる? 恩納さん。それはどう言う意味ですか?」
静香に再度問いかけられた恩納は、一瞬自失を失いかけていた事に気付き、大袈裟に右手を振る。
「い、いや。俺何言ってんのかね? 御城さん。今のは忘れてね。あ! 俺クリニックの調査に行ってくるね」
使い古されたビジネスバックを乱暴に掴み、恩納はオフィスから逃げるように出て行った。御城はそれを注意深く観察しながら見送る。
その様子は静香が知る恩納の能天気ないつもの姿だった。つい先刻。恩納が妙な予言を口にした時、恩納の瞳の光が消え黒色に変化したように静香には 見えた。
都営バスを乗り継ぎながら、車内で恩納は混乱していた。ついさっき静香に語った内容も去ることをながら、最近の自分は普通ではないとの自覚があった。
「······なんだろうな。こう意識が底のない沼に沈んでいくような感覚。日に日に増えていくような気がする」
吊り革に体重を預け立っていた恩納は、眼下の座席に座る女子高生が奇異な目で自分を一瞥した事に気付く。頭の中の思考が口から漏れていたのだ。
2年前から死体現場に行くと咲いてもいないのにジャスミンの匂いを感じるようになった。全てはそこからおかしくなったように恩納には思えた。
恩納は停車したバスから降り立つと、目的地である住所を確認する為にスマホをポケットから取り出す。
「······偶然。だよな?」
恩納は複雑怪奇、と言った表情で5メートル先の歩道を見た。そこには、まだ事前連絡を取っていない今日の面会対象者である荒川遠香が歩いていた。




