亡国への帰路
アメリカ特命全権大使トムリアル・ハワードの国運を賭けた交渉は終わった。結果は上司である大統領の期待には著しく添えないものだった。
スイートルームの扉を開け廊下に出たハワードの視界に飛び込んできたのは、床に仰向けに伏す五人の男達だった。
彼等5人はハワードを守る為に派遣されたシークレットサービスの精鋭達だった。 5人共に胸部の衣服が破れ、胸骨に串刺しにされた心臓は外に飛び出していた。
初めて見る呪いの光景に、ハワードは何故か冷めた感情しか沸いてこなかった。
「お疲れ様でした。ハワード特命全権大使。貴方のボディガード達は銃を持ちこの部屋に突入しようとしました」
黒渕マグブルがいつの間にかハワードの前に立ち、哀れなボディガード達の顛末を説明する。
「どうやらこのボディガード達は大使すら知り得ない密命を帯びていたようですね」
育ちがいいのか、黒渕の声は穏やかで聞く者を安心させた。ハワードは無言で頷く。彼等シークレットサービスにルサンチマンの暗殺を命じたのは、考えるまでも無く大統領だった。
ハワードは虚ろな目で五人の遺体を眺めている内に、ある事に気付いた。彼等の胸部周辺のシャツには血の跡があったが、床には1滴の血も落ちていなかった。
それは心臓も同じであり、臓器は完全に乾ききっていた。そしてその色は深紅に染められていた。
「······それは呪いを行使した死者達のせめてもの礼節です。床を血で汚さぬようにと」
聴き心地の良い黒渕の説明に、ハワードは何故か得心が行ったような気がした。
「······そうか。死しても尚、礼節を守る。我らはそのような人々を死に追いやったのだな。この心臓の赤い色が彼等の深い怨念の証明か」
印をつけられた者がルサンチマンや日本に危害を加えようとすると呪いが発動する。それは思考しただけでも同様だった。
何故5人のボディガード達が銃を構え行動する前に死ななかったのか。黒渕はハワードにそれが分かるかどうか問いかける。
「······ミス ルサンチマンがこの光景を私に見せる為だろう」
「その通りです。ハワード特命全権大使。彼等は大統領からルサンチマンの暗殺を命令された時点で殺す事が可能でした。ですが敢えてこの瞬間まで生かしておきました。種々の条件はルサンチマンから聞いた通りです。ゆめゆめ違えることのなき様お願いいたします」
ハワードは力無く頷く。彼が大統領へ持ち帰るのは、祖国の未来では無く絶望だった。黒渕はハワードに亡命手続きをする為に出入国在留管理局まで送ると告げる。
「ハワード特命全権大使。今なら手持ちの金品を放棄してその身1つで管理局へ駆け込めば貴方は助かるでしょう」
だが、ハワードは弱々しく首を横に振る。
「ミスター黒渕。それは出来ない。祖国には私の家族や同僚がいる。いや。違うな。私は国民に奉仕する公務員だ。我が身の保身を図る事は許されない」
ハワードの両眼には力こそ無かったが、その言葉には揺るがない決意が感じられた。
「······では大使。せめて空港までお送りしましょう」
ワシントン行の便は終っている時間帯だったが、空港にはハワードが搭乗してきた特別チャーター便 が主人の帰りを待っていた。
「······ありがとうミスター黒渕。だが今夜は数十年振りに自分でタクシーを拾いたい気分なんだ。もともと非公式に来日した身だ」
黒渕はハワードと共にエレベーターに乗り込む。エレベーターの厚い扉が閉まる時、ハワードは極度の精神的疲労からよろめいた。特命全権大使は、自分の仕事が終わった事を実感していた。
「······自由の国からの使者はどうだった? 黒渕」
ハワードを見送った黒渕は、再び地上53階のスイートルームに戻ってきた。白髪の少女は疲れた表情でL字型のソファーの背もたれに身を預けていた。
「焦燥していましたが堂々たるものでした。彼は保身に走ると思いましたが意外でしたね。初見は俗物に塗れた人物に見えましたが」
黒渕はブランケットを白髪の少女の膝に置き、自らもソファーに腰掛ける。
「人は土壇場でその本性が出るものだ。彼の者は私人としては俗輩の類に相違ないが、この瀬戸際で公人としての本来の自分に目覚めたのだろう。案外本人が一番驚いているのではないか?」
ルサンチマンはそう言うと、縫製技術の粋が込められたドレスの胸に手を当てる。そこには、桜を模した刺繍があった。
「そのドレスが気に入ったようですね。お嬢」
「ああ。世辞抜きで真に素晴らしいドレスだ。我が死んだ後は、このドレスも一緒に燃やしてくれ」
「······お嬢」
「その様な顔をするな。黒渕。まだ我は死なぬ。あと3ヶ月はな。アメリカ全国民に印をつける役割が残っておる」
「お嬢。やはり私では貴方の器には不適格でしょうか?」
「その話なら幾度となくしてきただろう。黒渕。私は他人の身体や精神を支配してまで生きながらえようとは思わぬ。それに陰陽師一族の末裔であるそなたでさえ我のこの力の継承は出来ぬのだ。我の器に適応する者などこの地にどれ程存在するか。こればかりは天の気まぐれという他ないな」
白髪の少女はため息混じりに微笑すると、テーブルに手つかずのまま置かれた焼菓子とタルトケーキを黒渕に勧める。
「自由の国からの使者はあまり食さなかったからな 。廃棄するのも勿体ない。一緒に食べてはくれぬか? 黒渕」
「結構ですね。深夜の甘い物ほど背徳感をそそられる物はありません」
黒渕は微笑み手掴みで焼菓子を口に頬張る。それを見た白髪の少女は、あどけない笑顔を見せタルトケーキにフォークを刺す。 深夜のアフタヌーンティーの時間が再開され、このスイートルームに穏やかな空気が流れ始めた。
「実はな黒渕。見つけたのだ。天の気まぐれでな。私の力のみを継承させる事が可能な器を」
「······それは本当ですか、お嬢? 一体誰ですか? 」
黒渕は驚愕した表情で咀嚼中のタルトケーキを飲み込む。
「その者は黒渕も面識がある者だ。名は······」
「恩納さん。聞いていますか?」
生活管理調査課の自分のデスクで頬杖をついていた恩納隆は、我に帰ったように慌てて横を向く。そこには、両手に資料も持つ御城静香が立っていた。




