敗北
ルサンチマンはアメリカ特命全権大使トムリアル・ハワードの前に立つ。自分の腰にすら届かない小柄な少女に見上げられたハワードは、蛇に睨まれた蛙の如く脂汗を額から流していた。
「自由の国からの使者よ。お主の言い分は無理からぬ事だ。我の話は確かに荒唐無稽に聞こえるかもしれぬ。故に証拠を見せよう。お主の妻や娘、親族達には既に印をつけてある」
ハワードは高級スーツの中で全身の毛穴が開くような感覚を覚えた。白髪の少女のそれは、聞き誤り様の無い最後通告だった。
「や、やめてくれ! 妻や子に罪は無い! 頼む! 私なら何でもする!」
ハワードは白髪の少女に懇願する。全てを闇に飲み込む様な漆黒の瞳を特命全権大使に向け、ルサンチマンは微笑する。
「信じてもらえて何よりだ。自由の国からの使者よ 。さあ。ここからは寸暇をを惜しんで行動せねばならぬぞ。何しろお主等の自由の国の民達は土地や財産、全てを処分して新天地を探さねばならぬからな 」
ハワードは自分を支えていた自信と野望が粉微塵になる音を聞いていた。彼の僅かに残った冷静な理性が告げる。敗残処理をする上で被害を最小限に食い止めると。
彼にとって母国とは自分の野望を達成する為の舞台と道具に過ぎなかった。だがここに来て、ハワードは祖国を守る使命に初めて目覚めた。
「······ミス ルサンチマン。どうやら私の。いや。我が国の敗北のようですな。この上は貴方の言う通り可能な限りの補償を約束しましょう。ですが新天地とはどう言う意味ですかな?」
焦燥していても両目に力を失わないハワードを、ルサンチマンは意外そうな表情で一瞥する。
「その言葉通りの意味だ。自由の国からの使者よ。お主等の全ての土地。つまりは国土を財産と共に引き渡してもらう。もう自分の土地では無くなるのだ 。そのまま居座るのは迷惑な不法移民と同列ではないか?」
自国の不法移民を取り締まる政策を揶揄されたハワードは奥歯を噛み締める。
「ミス ルサンチマン。私は現実的なお話をしています。アメリカ全国民が国を。いえ土地を失いどこへ行けと言うのですか?」
「亡命すれば良いでは無いか。お主等がこれまで外から助けを求めて来た亡命者をどう扱ってきたか。それが問われるいい機会では無いか?」
「3億5千万人の亡命など非現実的です。ミス ルサンチマン。国から追い出すより労働力として活用した方が貴方達はより高額な補償を得られるのではないのですか?」
「······成程な。そこは盲点だった。お主等国民を奴隷として使役する事に考えが至らなかったな」
ハワードは逐一アメリカの歴史的背景を持ち出す白髪の少女に強い憤りを覚える。ルサンチマンはかつてアメリカが黒人を奴隷にしていた事を皮肉っていた。
「だがそれは認めぬ。核施設や原子力発電所と言った重要施設には技術者を残すが数で言えば数十万人だ。それ以外の民は国外退去してもらう」
「······ミス ルサンチマン。重ねてお願い申し上げます。このままアメリカ国民の居住の許可を! 数億人の亡命など不可能です!」
「あるではないか」
「······は?」
「お主等の得意とする宇宙技術を持ってすれば、月さえも行く事が可能だろう? 50年以上前の月面着陸が真実なら、今頃はとうに月での生活が可能ではないのか?」
「······な、何を馬鹿な。それは暴論です。月面に着陸するのとインフラ整備が前提の月での居住とでは規模が比べるまでもなく違い過ぎる」
「開拓精神だ。自由の国からの使者よ。その気になれば氷塊の地でも砂の地でも土地は残っているぞ。若しくは先住民を皆殺しにして土地を奪う。かつて英国の食い詰めたお主等祖先はそうして国を作った。それをまたなぞらえば良いでは無いか」
ハワードは足元が崩れて行くような気がした。それは自分の精神なのか。祖国の未来なのか。特命全権大使は判断がつかなかった。
「······慈悲を! 我々国民の最低限の尊厳の保障を要求する!」
「3ヶ月だ」
「······は?」
今夜何度目になるのか。ハワードは呆然と絶望が混じった声を漏らす。
「3ヶ月だ。自由の国からの使者よ。お主等全国民に印をつけるまでに必要な時間だ。これより3カ月後の4月5日。この日に国土に残った者達は全てその心の臓を空気に触れさせる事となる」
白髪の少女はハワードを見上げながら冷酷な通告を下した。一方、下される側は絶望の淵に追いやられる。
「4月5日は24節気では「清明」と言ってな。全ての生命達が清らかで生き生きとしていると言う意味が込められている。お主等アメリカ全国民が新たな独立宣言を行う日取りにこれ程相応しい吉日はあるまい?」
白髪の少女は優雅に、そして妖艶に微笑みピンク色のドレスのスカートを翻しまた窓に向かって歩いていく。
一歩、また一歩と歩く度に小さくなるルサンチマンの背中をハワード呆然と見ながら、祖国の崩壊の足音をその耳で聞いていた。




