隠り世の代理人
アフタヌーンティーの作法は至って単純だった。3段のティースタンドの下段から上段まで順に1つずつ食して行き、最後のデザートのケーキをティーカップに注がれたお茶と共に楽しむ。
アメリカ特命全権大使トムリアル・ハワードの前に置かれた3枚の皿とカップ。ハワードの視界にはサンドイッチ、焼菓子、タルトケーキの3皿など入らず、湯気が立ち上るティーカップの中身のみ注視していた。
「我はティーカップから昇る湯気が好きでな」
ティーカップから香るジャスミンの匂いに脳内を支配されていたハワードは、我に帰ったように白髪の少女を見る。
「熱せられた液体が蒸発し冷えた空気に晒され上へ、上へと昇っていく。目には見えないがこの湯気は1滴1滴の液体だ。まるでこの世から去る数多の命が隠り世へ向かう情景のようではないか」
ルサンチマンは恍惚の表情で自らが持つティーカップを見つめる。この白髪の少女の発言の数々をハワードの頭は処理しきれなくなっていた。
「我は隠り世と現し世の狭間の存在だ。自由の国からの使者よ。隠り世の代理人と言ってもいい」
その突然の発言は、ハワードの首元に何故か寒気を与えた。
「······だ、代理人ですか? だが、一体誰の代理人だと言うのです。ミス ルサンチマン」
この国運を賭けた交渉の場で、ハワードは白髪の少女の名を何度も口にした。だが、この時初めてその名前の真意を理解したような気がした。
ルサンチマン。フランス語で「恨み、怨恨」という意味である事はハワードは知悉していた。大学時代第2外国語でフランス語を学んでいたからだ。
だが流暢なフランス語の発音が苦手だったハワードは、フランス人に対して劣等感を持っていた。その劣等感と相まってルサンチマンと言う名を「ふざけた名前」だと内心蔑視していた。
だが、自らを隠り世の代理人と名乗る少女の名前を考えると、その存在がハワードにとって異様地味できた。
ルサンチマンは意のままに人を殺せる。認め難い事実だが、特命全権大使はその前提で交渉を続けるしかなかった。
「······貴方は。一体何を我が国にお望みなのですかな? ミス ルサンチマン」
特命全権大使の矜持を奮い立たせ、沈黙する白髪の少女に問いかける。ハワードは本来の役目を果たそうとする。今自分に必要なのは怯懦では無く、自国の利益だった。
「おお。自由の国からの使者は話が早いな。何。借りていたものを返してくれればそれで済む話なのだ 」
「······借りていたもの。はて? 我が国がそちらに借りていたものなどありましたかな?」
「ああ。あるぞ。黒船来航以降、お主等がこの国から奪って行った富だ」
白髪の少女はティーカップを優雅に口に運び、その香りと味の余韻を楽しんでいるように見えた。一方、特命全権大使は交渉相手の言葉の意味を理解出来なかった。
「······く、黒船来航以降とは、また随分と突拍子が無い事を仰りますな。我が国に貴方の国からの債権は無い筈ですが?」
「人の家に凶器を携え強盗の様に押し入り、男は殺し女を犯し財産を持ち去る。お主の国のお家芸だろうて。我の国の民も随分手痛い目にあってきたぞ? 」
ルサンチマンは日本とアメリカの歴史的背景を引用して大雑把な表現をしてきた。ハワードは白髪の少女がアメリカから金銭的補償を要求している事を推察した。
通常なら脅迫など鼻で笑うところだが、この白髪の少女の不気味な力を無視する事はハワードには簡単には出来なかった。
そしてハワードは自分の役目を再認識する。これは大統領が言った通り国運を左右する交渉なのだと 。たとえ相手に譲歩する事があっても被害は最小限に食い止めなくてはならない。
これまでの外交交渉でハワードには戦略的撤退などと言う言葉は存在しなかったが、今彼の脳裏にはその文字が極彩色で浮かんでいた。
「ミス ルサンチマン。お互い胸襟を開いてお話をしましょう。貴方は。いえ日本は我が国にどれ程の補償を求めておいでですか?」
まず相手に数字を出させ、そこから交渉が始まる 。やり遂げて見せるとハワードは自分に言い聞かせる。
「4京3000兆円」
それは、ハワードが今夜白髪の少女から聞いた声の中で一際冷たく聴覚に届いた。




