【幕間:第1-2話】銀嶺の咆哮、あるいは「毛玉」と主の秘密会議
セバスチャンが「月の雫」を求めて北嶺の吹雪の中を這いずり回っていた頃、主を欠いたはずの城の深淵では、もう一つの「声なき戦い」が繰り広げられておりました。 それは、我が主テオドール様と、古の聖獣ユンによる、アリア様を巡る静かなる、かつ熾烈なポジション争奪戦でございます。
夜の帳が最も深く降り、城全体が深い眠りに沈む頃。アリア様の寝室の重厚な扉が、音もなく、魔法の指先によって僅かに開かれました。
「……おい、毛玉。そこをどけと言っている」
主様の低い、地を這うような声が、月明かりの差し込む寝室に響きました。 アリア様は、主様が丹精込めて整えられたシルクの寝具の中で、規則正しい寝息を立てておられます。その安らかな顔のすぐ傍ら、枕元の特等席には、銀灰色の巨大な塊——聖獣ユンが、まるで「私がこの方の守護神です」と言わんばかりの威風堂々とした態度で丸くなっておりました。
「グルルゥ……(嫌だ、今は僕が温めてあげている最中だ。主様こそ、冷気を持ってこないでくれ)」
ユンは目を開けることすら傲慢に拒み、ただ鼻先をアリア様の華奢な肩口に寄せ、満足げに喉を鳴らしました。その音は、地響きのように低く、けれどアリア様にとっては最高の安眠環境となっているようです。
「……貴様。アリアの寝顔を独占するとは不敬極まりないぞ。貴様には、庭の結界を強化し、不浄なカラスどもを追い払うという重大な任務を与えたはずだ。職務放棄で処刑されたいのか?」
テオドール様は、アリア様を起こさないよう、殺気を極限まで抑え込みながらも、その瞳には真紅の炎を灯してユンを睨みつけました。
吸血鬼の主様と、かつて一国を滅ぼしかけたとされる伝説の聖獣。本来であれば、その衝突は大地を割り、空を焦がすはずの災厄です。しかし今、彼らが争っているのは「どちらがアリアの体温を近くで感じるか」という、あまりにも平和で、あまりにも個人的な領土問題でございました。
「キャゥン!(掃除も警備も、影分身で終わらせた! 今の僕は自由だ!)」
ユンはふん、と鼻を鳴らし、さらにアリア様の腕の中に自分の頭をぐいぐいと押し込みました。 テオドール様はこめかみに青筋を立て、指先から微かな魔力の糸を伸ばしました。ユンを物理的に引きずり出そうとしたのです。しかし、ユンの毛並みは主様の魔力さえも「心地よいマッサージ」として吸収し、受け流してしまう特殊な霊力を持っております。
「……ええい、小癪な。アリアの心拍、血流、体温の変化……そのすべてを二十四時間体制で管理しているのはこの俺だ。貴様のような、知性よりも食欲が勝る単細胞な毛玉に、彼女の繊細な眠りを守れる道理がない」
「グルル……(主様こそ、その指先は氷のように冷たいじゃないか。アリアは、僕のこの最高級の毛皮の温もりが好きなんだよ。主様が触れたら、彼女は寒さで風邪を引いてしまうね)」
ユンの反論は、残酷なまでに真理を突いておりました。 吸血鬼であるテオドール様は、どれほど魔力で表面を温めようとも、その本質は死者の冷たさです。対してユンは、生きる炎を象徴する聖獣。特に最近、食生活が改善されてお腹の調子が良くなってきたアリア様にとって、ユンの柔らかくて温かな腹部は、どんな薬草よりも深く、安らかな眠りをもたらす特効薬となっておりました。
テオドール様は、自分の「体温の欠如」という、吸血鬼としての本質的な欠陥を突きつけられ、言葉を失いました。その表情は、愛する女性に拒絶された若者のようでもあり、あるいは自分の無力さに絶望する王のようでもありました。
しかし、主様はそこで引き下がるような御方ではありません。
「……ならば、物理的な温もりなど不要なほどに、深い安らぎを精神に与えれば済むことだ」
主様は、指先から銀色の粒子のような魔力を放ちました。それは、アリア様の夢の中に、美しい花畑や穏やかな陽光、そして「テオドール様と一緒にスープを飲む光景」を投影するための高度な幻惑魔法です。 アリア様を精神的に「独占」することで、ユンの物理的な優位性を無効化しようという、執念深い策に出られたのです。
すると、夢の中で幸せな光景を見たのか、アリア様が寝返りを打ちました。
「ん……テオドール、さま……」
「……っ!!」
主様は、その呟きを聞いた瞬間、心臓が停止しているはずの胸を自ら押さえ、膝をつきそうになりました。その顔は、月の光の下で林檎のように赤らみ、呼吸を忘れたかのように呆然とアリア様を見つめております。 アリア様の手が、無意識に、宙を彷徨っていたテオドール様の指先をぎゅっと掴みました。
「…………アリア。貴様というやつは……」
主様は、自分の冷たい指が彼女を冷やさないよう、即座に全魔力を指先一点に集中させ、火傷するほどの熱量を注ぎ込んで「人肌の温もり」を偽装されました。その必死な姿は、五百年前、千の軍勢を一人で屠ったという伝説の怪物とは、とても同一人物とは思えません。
結局、ユンはベッドの枕元から追い出される代わりに、テオドール様の足元で丸くなることで手を打ちました。 主様はアリア様に指を握られたまま、立ち去ることもできず、かといって横たわることもできず、夜明けまで中腰に近い不自然な姿勢で、彼女の寝顔を護衛し続けられたのです。
翌朝。セバスチャンが吹雪の山から帰還したとき、そこには奇妙な光景がありました。 寝室の床に座り込み、アリア様に手を握られたままガチガチに固まっている主様と、その足首を枕にして幸せそうにいびきをかいているユン。
目が覚めたアリア様が「あら、テオドール様? ユン? どうしてそんなところで朝を迎えているの?」と不思議そうに首を傾げたとき、主様は一睡もしていないはずの瞳を伏せ、涼しい顔でこう仰いました。
「……たまたまだ。城の警備状況を巡回していたところ、この毛玉が勝手にここで寝ていたのでな。……踏み潰しては寝覚めが悪いと思い、動かずにいただけだ」
「クゥーン(嘘つき! 僕を足蹴にしてアリアを独占しようとしてたくせに!)」
ユンの抗議の声は、アリア様の優しい「なでなで」と、「ユン、テオドール様を守ってくれていたのね。偉いわ」という勘違いに満ちた称賛によってかき消されました。 テオドール様は、アリア様がユンを撫でるその手に、猛烈な、火山のような嫉妬を燃やしながらも、彼女に指を握られていた感触を思い出し、耳を赤くしてスープの準備へ向かうのでした。
この城の夜は、こうして「幸せで、重すぎる独占欲」によって、一歩ずつ春へと近づいていくのです。




