第7話:針子の休息、銀の糸
城の生活に慣れ始めた頃、私はあることに気がついた。 テオドール様が常に纏っている漆黒のマント。夜の闇をそのまま切り取ったような美しく重厚な布地だが、その裾や袖口をよく見ると、戦いか、あるいは長い年月を生き抜いてきた証か、あちこちが擦り切れ、小さな裂け目がいくつもできていたのだ。
「……あの方は、ご自身の装いになど、全く興味がないのですから」
セバスチャンさんは、ティーカップを磨きながら溜息をついた。
「主様にとって衣服とは、単なる魔力の器。破れていようが、綻んでいようが、機能さえ果たせば構わないと仰るのです。……ですが、この城の主として、少々忍びないと思いませんか?」
「私に……直させていただけませんか?」
私は思い切って提案した。 村にいた頃、家事のほとんどをこなしていた私にとって、裁縫は数少ない得意分野だった。外で力仕事ができない分、部屋の中で針を動かす時間は、私の心を唯一落ち着かせてくれるひとときだったのだ。
「それは主様も喜ばれるでしょう。……ですが、あの方のマントは特殊な魔力布。普通の糸では通りませんよ」
そう言ってセバスチャンさんが差し出したのは、銀色の光を放つ不思議な糸の束だった。
「主様の銀髪から精製された『銀の糸』です。これならば、あのマントを繋ぎ止めることができるでしょう」
その夜。テオドール様が「少し外の空気を吸ってくる」と言って、吹雪の夜空へと飛び立っていった後。私はセバスチャンさんから預かった重厚なマントを膝の上に広げた。
「……重い」
手に持っただけで、テオドール様が背負っている孤独の重さが伝わってくるようだった。 私は一針、一針、丁寧に針を進めた。銀の糸は、月の光を吸い込んで、闇のような黒い布地の上で美しく踊る。
(……痛くありませんように。……寒くありませんように)
村で自分の存在を否定され続けた私が、今、この恐ろしい吸血鬼のために何かをしている。その事実が、私の震える指先に不思議な力を与えてくれた。
深夜。集中して作業を続けていたせいか、私はマントを抱えたまま、暖炉の前でうとうとと眠りに落ちてしまった。
どれくらいの時間が経っただろうか。 カチャリ、と窓が閉まる音で目が覚めた。 顔を上げると、そこには雪の匂いを纏ったテオドール様が立っていた。
「……何を、している」
彼の声はいつもより低く、そして微かに疲れていた。 私は慌てて立ち上がろうとしたが、膝の上の重みに足がもつれ、よろけてしまった。
「あ、テオドール様! おかえりなさい。……その、マントの綻びが気になったので、勝手にお直しを……」
テオドール様は、私の手元にある銀色の針と、丁寧に繕われたマントの裾をじっと見つめた。
「……無駄なことを。どうせまた、すぐに裂ける」
「それでも、です。……テオドール様が、この冷たい風の中で少しでも暖かく過ごせるようにって……そう思ったんです」
テオドール様は何も言わず、私の隣にどさりと腰を下ろした。 普段の威圧感が消え、肩の力が抜けた彼の姿は、驚くほど「人間」に近かった。
「……アリア。貴様は、なぜ俺を恐れない」
「……え?」
「俺は貴様を喰らうためにここに置いている。いつ気が変わって、その細い喉を噛み切るか分からない怪物だぞ。なのに貴様は、その怪物の服を直し、スープの味に一喜一憂し……。……理解できん」
テオドール様は、自嘲気味に笑った。
「俺の中には、もう『春』など残っていない。あるのは、永遠に続く冬と、飢えだけだ」
私は、膝の上のマントをそっと彼の肩にかけた。
「……テオドール様。私は、村にいた頃、誰からも必要とされていませんでした。私の体も、私の心も、誰にとっても『邪魔なもの』でしかなかったんです」
私は、自分の細い指先を彼に見せた。
「でも、この城に来て、テオドール様が作ってくれたスープでお腹が温まったとき……初めて、生きていてもいいんだって思えました。だから、このマントを繕うことは、私にとっての『救い』なんです。……貴方が怪物なら、私はその怪物の側にいたい」
テオドール様の手が、私の頬に触れた。 雪のように冷たく、けれど今の私には、世界中のどんな火よりも熱く感じられた。
「……馬鹿な女だ。……俺の横にいても、手に入るのは孤独と雪だけだぞ」
「……いいえ。テオドール様が、今こうして私を見てくださっている。それだけで、私はもう孤独じゃありません」
テオドール様は、はっとしたように目を見開いた。 彼の瞳の赤が、一瞬だけ、朝焼けのような柔らかな色に揺らいだ。 彼はそのまま、私の肩に頭を預け、静かに目を閉じた。
「……少しだけ、このままでいろ。……貴様のその、うるさいほどの鼓動が、俺の耳には妙に心地いい」
吸血鬼の主が、一人の生贄の少女の前で、初めて見せた「休息」の姿。 暖炉の火が、二人の重なる影を壁に大きく映し出す。 足元では、ユンが二人の境界を消すように丸まり、静かに喉を鳴らしていた。
窓の外では相変わらずの吹雪。 けれど、銀の糸で繋がれた二人の心には、誰にも壊せない小さな「結び目」ができていた。
私は、彼の銀色の髪にそっと触れた。
(……大丈夫。私が、貴方の冬を一緒に歩きます。……いつか、春が来るその日まで)
その夜、アリアがノートに記した文字は、かつてないほど力強く、そして優しく光っていた。
『三月○日。 テオドール様のマントを直した。 銀の糸は、私たちの絆のように。 彼が「少しだけこのままで」と言ってくれた。 世界で一番幸せな針子の夜。』
ありがとうございました!




