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吸血鬼の花嫁 ——怪物の城に春は来ない——  作者: 胡蝶
第二章:深まる絆と城の秘密
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第8話:従者と魔獣の語らい

城の夜が最も深まる頃、あるじと花嫁が眠りについた後の静寂は、従者であるセバスチャンにとって唯一の休息の時間であった。


「……ふぅ、ようやく片付きましたか」


セバスチャンは、磨き上げられた銀のトレイを棚に納め、白い手袋を外した。 彼が向かったのは、厨房の片隅にある小さな談話スペースだ。そこには、巨大な銀灰色の毛玉……守護獣ユンが、暖炉の残り火を背に、これ以上ないほどだらしなく寝転んでいた。


「クルル……。グルルル……」


「おやおや、ユン。そんな格好を主様に見られたら、また『ただの毛皮に戻れ』と叱られますよ」


セバスチャンが呆れたように声をかけると、ユンは片目だけを薄く開け、邪魔をするなと言わんばかりに尻尾で床を叩いた。セバスチャンは苦笑しながら、自分用のハーブティーを淹れ、ユンの隣の椅子に腰を下ろした。


「それにしても、ユン。貴方も最近、随分と丸くなりましたね。……体型の話ではありませんよ。その、刺々しかった魔力が、驚くほど穏やかになっている」


セバスチャンが手を伸ばすと、ユンは拒むことなくその大きな頭を委ねた。メインクーンの血を引くその毛並みは、アリアの世話をするようになってから、さらに艶を増している。


「クルゥ……」


ユンが短く鳴く。それは「あの娘が毎日ブラッシングをしてくれるからだ」と言っているようだった。


「ええ、分かっていますとも。アリア様は、貴方のことを本当の家族のように愛していらっしゃる。……主様の守護獣を、ただの『大きな猫』として扱うのは、後にも先ほどにもあの娘だけでしょう。ですが、それが功を奏した。貴方の魔力が安定したおかげで、城を維持する結界の綻びも、今ではすっかり消えてしまいました」


セバスチャンはティーカップを口に運び、ふと視線を二階の居住区へと向けた。


「……そして、何より主様だ」


ユンが、ピンと立った耳を動かしてセバスチャンの顔を見上げた。主の話になると、この魔獣はいつも以上に鋭い反応を示す。


「覚えていますか、ユン。アリア様が来る前の、この城の地獄のような静けさを。主様は、ただ『終わらない夜』を消化するためだけに、椅子に座り続けておられた。食事も摂らず、言葉も発さず、ただ自身の魔力が尽き果てる日を待つ、生ける亡霊のようでした」


セバスチャンの脳裏に、数年前のテオドールの姿が浮かぶ。 血に飢えているわけでもなく、ただ「生きている理由」を完全に見失っていた吸血鬼の主。彼は、村から送られてくる生贄たちにさえ、触れようとはしなかった。


「それが今ではどうでしょう。昨夜の主様の御様子を見ましたか? アリア様の体調を気遣うあまり、古い医学書をひっくり返し、私に『このハーブの配合は正しいのか?』と一晩中問い詰めてこられたのです。……私、危うく眼鏡が割れるかと思いましたよ」


ユンが「クスクス」と喉を鳴らすように笑った。


「さらには、アリア様が繕ってくださったあのマント。主様は『重くなった』と文句を仰りながら、鏡の前で何度も角度を変えて確認していらっしゃいました。……あんなに嬉しそうな主様の背中を見るのは、それこそ三百年ぶり、いえ、もっと前かもしれません」


セバスチャンは、ハーブティーの湯気の向こう側に、テオドールの「人間だった頃」の面影を重ねた。


「主様は不器用なのです。大切なものを守る方法を、あの悲劇ですべて忘れてしまった。……ですが、アリア様という小さなしずくが、主様の凍りついた時間を少しずつ解かし始めている。……あの娘は、生贄などではない。主様を、そしてこの死に体だった城を救いに来た、聖女様ですらあるのかもしれない」


ユンが、セバスチャンの膝に顎を乗せた。その瞳には、彼と同じような、優しく、けれど少しだけ切ない光が宿っていた。


「……ですが、ユン。私たちは知っています。この幸せが、どれほど脆い氷の上にあるかを。……主様は不老不死。アリア様は、あまりにも短命で、そして脆い人間の娘。……いつか、別れの時は来ます。その時、主様が再びあの地獄のような孤独に戻らぬよう、私たちは何ができるでしょうか」


セバスチャンの問いに、ユンは答えなかった。ただ、大きな前足でセバスチャンの手をぎゅっと踏みしめた。


「……そうですね。今、この瞬間を、精一杯『温かく』保つこと。それこそが、我ら従者にできる唯一の献身です。……さあ、夜食に最高級の削り節を用意しましたよ。アリア様には秘密ですがね」


セバスチャンが小さな皿を出すと、ユンはそれまでの哲学的な顔をどこかへ捨て去り、野生の猫のような勢いで食らいついた。


「……ふふ、貴方も主様に似て、食い意地が張っている。……明日も、良い一日になりますように。……アリア様の笑い声が、この冷たい城を少しでも長く、春の色に染めてくれることを祈って」


城の外では、相変わらずの吹雪。 けれど、厨房の談話スペースには、主たちには決して見せない、従者たちの深くて優しい愛が、暖炉の火と共に静かに揺れていた。


その夜、ユンがアリアの部屋に戻ると、寝言で「ユン、もふもふ……」と呟くアリアの隣で、彼はいつもより一層、その大きな体を暖かくして彼女を包み込んだ。


翌朝、セバスチャンが完璧な朝食を運んだ際、主様が「昨夜、ユンが夜中に厨房へ忍び込んだ形跡があるが」と問い詰めた。 セバスチャンは、ただ優雅に一礼し、こう答えた。


「……主様、それはきっと、幸福の余韻という名の魔力が、ユンを空腹にさせたのでしょう」

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