第9話:開かずの間の肖像画、あるいは怪物の残像
城での生活がひと月を数える頃。 私は、セバスチャンさんから「掃除の際も、ここだけは決して入らぬよう」と言い渡されていた、西塔の最上階にある一室の前に立っていた。
重厚な黒檀の扉。そこには強力な結界の魔力が宿っているのか、近づくだけで肌がピリピリと震える。けれどその日、扉はなぜか、誘うようにわずかな隙間を開けていた。
(……テオドール様……?)
扉の向こうから、言葉にならない、深い溜息のような、あるいは祈りのような気配が漏れてきた。私は吸い寄せられるように、その禁忌の部屋へと足を踏み入れた。
部屋の中は、驚くほど埃一つなかった。 窓は厚いカーテンで閉ざされ、燭台に灯された数本の蝋燭だけが、微かな光を投げかけている。 部屋の壁を埋め尽くしていたのは、何枚もの肖像画だった。 その中央、最も大きな額縁の中に、私は「彼」を見つけた。
「……うそ……」
そこに描かれていたのは、燃えるような赤い瞳を持たない、穏やかな琥珀色の瞳をした一人の青年だった。 銀色の髪は今よりも少し短く、頬には健康的な赤みが差し、何よりも……その唇は、優しく、慈愛に満ちた微笑を湛えていた。 隣には、彼によく似た面差しをした少女が、愛らしい花冠を抱えて笑っている。
「……見ただろう。……俺の、もっとも醜い過去を」
背後から響いたのは、氷の礫のような冷たい声だった。 振り返ると、テオドール様が暗闇の中に立っていた。その瞳は、肖像画の青年とは対照的に、飢えた獣のような深紅に光っている。
「テオドール、様……。ごめんなさい。扉が開いていたので、つい……」
「……セバスが閉め忘れたのだろう。あいつも、余計な期待を抱く悪い癖がある」
テオドール様は、音もなく私の横を通り過ぎ、肖像画を見上げた。
「……そこにいるのは、テオドールではない。数百年前に死んだ、一人の愚かな人間だ。家族を守れず、国を焼かれ、最後は愛する者の命を繋ぐために、自ら魂を悪魔に売った……哀れな敗北者の姿だ」
彼の声は、震えていた。 怒りではなく、深い、深い絶望に。
「この肖像画を描かせたとき、俺はまだ信じていた。……春が来れば、すべては元通りになると。だが、吸血鬼になった俺に春は二度と来なかった。俺が触れるものはすべて凍りつき、俺が愛した者は、俺のこの牙を恐れて死んでいった」
テオドール様は、自分の鋭い爪を見つめた。
「アリア。……貴様が見ているのは、ただの残像だ。今の俺は、血を啜り、永遠の夜を彷徨うだけの怪物に過ぎない。……肖像画の男のように、貴様に微笑むことなど、一生かかってもできんのだぞ」
彼は私を突き放すように言った。 けれど、私は逃げなかった。 私は一歩踏み出し、彼の冷たい、震える手を両手で包み込んだ。
「……いいえ。私が見ているのは、肖像画の残像なんかじゃありません」
「……何……?」
「今、私の目の前で、こんなに悲しそうな顔をして立っている……テオドール様です」
私は彼の瞳を、真っ直ぐに見つめた。
「肖像画の彼がどれほど優しくても、私をスープで救ってくれたのは、彼じゃありません。……私のために指を切って、私のためにカブを煮込んでくれたのは、今、ここにいる貴方なんです」
テオドール様の瞳が、驚愕に大きく見開かれた。
「……過去の貴方がどんな人でも、私は今のテオドール様が大好きです。……不器用で、口が悪くて、でも誰よりも心が温かい、今の貴方が。……だから、自分を怪物なんて呼ばないでください。……貴方は、私の大切な、旦那様なんですから」
私は背伸びをして、彼の額にそっと、羽が触れるような口づけをした。
テオドール様は、雷に打たれたように硬直した。 やがて、彼は崩れ落ちるように膝をつき、私の腰に顔を埋めた。 その大きな肩が、微かに、けれど激しく震えている。
「……アリア。……貴様は、本当に……救いようのない、馬鹿な女だ……」
掠れた声。 吸血鬼に涙は流れない。けれど、彼の心は確かに泣いていた。数百年の孤独が、私の小さな体温によって、音を立てて解けていくのが分かった。 私は、彼の銀色の髪を優しく撫で続けた。
肖像画の中の青年は、もう微笑んではいなかった。 けれど、部屋を照らす蝋燭の光の中で、テオドール様の背中は、かつてないほど「人間」の重みを取り戻しているように見えた。
「……テオドール様。……いつか、この部屋のカーテンを開けましょうね。……二人で、本物の朝日を見られる日が来るまで、私がずっと側にいますから」
足元では、いつの間にか現れたユンが、主を慰めるようにその足元に体を擦り寄せている。
その夜。 アリアはノートに、たった一行だけ、にじんだ文字で記した。
『三月○日。 彼の中にある「人間」の欠片を見つけた。 その欠片を、私が一つずつ拾い集めて、いつか彼を本当の笑顔にしてあげたい。 世界で一番、愛おしい怪物さんへ。』
部屋を出る際、テオドール様は最後に一度だけ、肖像画を振り返った。 そこには、自分でも気づかないほどわずかに、けれど確かな光を宿した「今の自分」の姿が、鏡のように映っていた。




