第10話:氷華の庭と、零れ落ちた本音
城の裏手に広がる庭園は、春が近いというのに、未だ深い雪と魔力の氷に閉ざされていた。 そこは、テオドール様が作り上げた「永遠に枯れない、けれど命のない」庭。 私は、セバスチャンさんから渡された厚手のショールを肩にかけ、月明かりの下、氷の彫刻のように美しい花々が並ぶ庭へと足を踏み入れた。
「……綺麗。全部、氷でできているのに、まるで生きているみたい」
透き通った青い薔薇、結晶で形作られた百合。 触れれば指先が凍りつきそうなほど冷たいのに、その造形には、作った者の狂おしいほどの情熱が込められているのが分かった。
「……夜風はまだ冷えると言ったはずだ。貴様は、学習という言葉を知らんのか?」
背後から、低く、けれどどこか甘さを孕んだ声がした。 振り返ると、テオドール様がいつもの黒いマントを翻して立っていた。彼は私の隣まで歩み寄ると、私のショールの合わせ目を、不器用な手つきでさらにきつく締め直した。
「テオドール様。……このお庭、テオドール様が作ったんですよね? どうして、こんなに寂しくて、美しいものを作られたんですか?」
私の問いに、テオドール様は氷の花の一輪に、長い指先で触れた。
「……寂しいか。俺には、これがふさわしい。……ここにあるのは、俺と同じだ。朽ちることもなければ、育つこともない。ただ、時が止まったまま、永遠にその形を保ち続けるだけの、偽物の命だ」
「偽物なんかじゃありません」
私は思わず、彼の言葉を遮った。
「こんなに綺麗なのに。……テオドール様が、誰にも邪魔されないように、大切に、大切に守ってきた場所なんだって、分かります」
テオドール様は、自嘲気味に口角を上げた。
「……フン。守ってきた、か。俺はただ、外の世界の『変化』が怖かっただけだ。季節が巡り、花が咲き、そして枯れる。人間が生まれ、老い、そして死ぬ。……俺だけが置いていかれるその理から、目を逸らしたかっただけなのだ」
彼は月を見上げた。その横顔は、あまりにも美しく、そして脆かった。
「……アリア。貴様もいつか、俺を置いていく。……どんなにこの城で温めても、どんなに俺がスープを煮込んでも。貴様の短い一生は、吸血鬼の俺にとっては、瞬きの一瞬に過ぎん」
「……テオドール様……」
「……怖いのだ。……ようやく手に入れたこの『温もり』が、俺の指の間から雪のように溶けて消えてしまうのが。……貴様が、老いて、動かなくなり、冷たくなっていく様を……俺はどんな顔で見ればいい?」
テオドール様の声が、微かに震えていた。 これまで決して見せることのなかった、彼の心の最奥にある「恐怖」。不老不死の怪物が抱く、あまりにも人間らしい「喪失への怯え」。
「……だから、時々思うのだ。……いっそ、今この瞬間に、その喉を噛み切ってしまえば。……俺の血を与えて、貴様も同じ『夜』の住人にしてしまえば。……そうすれば、永遠に貴様を失わずに済むのではないかと」
彼の瞳が、赤く、激しく燃え上がった。 テオドール様の手が、私の首筋に添えられる。彼の牙が、月の光を浴びて白く光った。
「……アリア。……俺を、怪物にしたいか。……それとも、今すぐここから逃げ出すか。……選べ。俺の理性が、この庭の氷のように砕けてしまう前に」
静寂が二人を包む。風の音さえも、息を潜めたように消えた。 私は逃げなかった。むしろ、自分から彼の胸に飛び込み、その漆黒のマントを強く掴んだ。
「……逃げません。……どこにも行きません」
私は彼の目を見つめて、一文字ずつ、魂を込めて言った。
「テオドール様。……吸血鬼になるのは、嫌です。……私は、人間として、貴方を愛したいから」
「……何だと……?」
「永遠なんて、いりません。……いつか私が死ぬその時まで、貴方の隣で笑いたいんです。……テオドール様、……貴方が言った通り、私の人生は、貴方にとっては一瞬かもしれません。……でも、その『一瞬』を、全部、貴方に捧げます」
私は、彼の冷たい頬を両手で包み込んだ。
「私が死んだ後、テオドール様がまた一人になるのが怖いなら。……私が生きている間に、一生分、数百年分、数千年分の『大好き』を、貴方の心に刻み込みます。……貴方が一人で夜を歩くとき、私の声が、私の温度が、貴方の魂をずっと温め続けられるくらいに……!」
「アリア……貴様……っ」
「だから、怖がらないでください。……テオドール様は、もう、独りじゃない。……私が、この命が尽きるその瞬間まで、貴方の『春』になります。……それが、私の本音です」
テオドール様は、はっとしたように目を見開いた。 やがて、彼は耐えきれないように私を強く、壊れるほどに抱きしめた。 彼の心音が、私の背中に響く。早鐘を打つような、あまりにも切実な鼓動。
「……馬鹿な女だ。……本当に、救いようのない、……俺だけの、愛しい花嫁だ……」
彼の声には、もう鋭い棘はなかった。 ただ、泣き出しそうなほど深い愛情と、祈りが込められていた。
「……分かった。……誓おう。……貴様がその命を終えるその瞬間まで、俺は貴様を離さない。……たとえ世界中のすべてが枯れ果てても、俺が貴様という花だけは、誰にも触れさせずに守り抜いてやる」
テオドール様は、私の額に優しく唇を寄せた。 氷の庭に、どこからか暖かい風が吹き抜けた。 氷の花たちは溶けることなく、けれど、その中心に微かな「生命の光」を宿したように輝き始めた。
足元では、ユンが二人の影を繋ぐように寄り添い、静かに、優しく、祝福の喉鳴りを聞かせていた。
その夜、アリアがノートに記した文字。
『二月○日。 氷の庭で、彼と約束をした。 私は、彼の「春」になる。 永遠はいらない。 今、この瞬間を、彼と共に生きる。 それだけで、私はもう、何も怖くない。』
部屋に戻ると、テオドール様はいつになく熱心に、ハーブの配合を変えた新しいスープを作り始めた。
「……少しでも長く、その小さな命を保たせるために、俺の全力を見せてやる」
そう言って、少しだけ耳を赤くして笑う彼の横顔を見て、私は幸せの涙を零した。




