【幕間:第1-1話】人形執事の観測日記、あるいは「完璧」の裏側
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我が主、テオドール・フォン・ベルシュタイン様が、これほどまでに「非効率」という概念を具現化した存在に成り下がるとは、五百年もの長きにわたりお仕えしてきた私でさえ、想像の範疇を超えておりました。
ことの始まりは、あの「生贄」の少女——アリア様がこの城の門を叩いたあの夜に遡ります。 本来、この城における「生贄」の扱いは至極単純なものでした。地下牢の奥底に放り込み、恐怖と絶望によってその魔力が最も円熟する瞬間を待つ。それが、歴代のベルシュタイン家が守ってきた、合理的かつ伝統的な作法でございます。しかし、現当主であるテオドール様が下した命は、そのすべてを根底から覆すものでした。
「セバス。一番日当たりの良い、東の客室を整えろ。寝具はシルクだ。……それも、肌の弱い人間が触れても一分の痒みさえ感じさせぬ、最高級のものを」
その時の主様の瞳には、獲物を慈しむような光ではなく、何か、守るべき「宝物」を見つけた子供のような、奇妙な熱が宿っておりました。
そして今、時計の針は午前三時を回りました。 本来であれば、この時間は主様が静まり返った書斎で、古の魔導書を紐解きながら、静謐な孤独を楽しまれているはずの刻限です。しかし、現在の主様がいらっしゃるのは、書斎ではなく、火の粉が爆ぜ、むせ返るような香草の匂いが充満する厨房でございます。
「……セバス。火力が強い。コンマ数ミリ、薪の配置を動かせ。これではカブの繊維が熱によって変質し、アリアの胃壁を刺激する恐れがある。彼女の繊細な消化器官は、植物の繊維一本がもたらす抵抗さえ、今は許容できぬのだ」
主様は、吸血鬼の貴族が持つべき、月光のように白く高貴な指先で、血塗られた剣の代わりに無骨なピーラーを握りしめておられました。その瞳は、かつて戦場で敵の首を狙った時よりも鋭く、剥き上げられたカブの表面を凝視しております。
「主様。すでに火は最小限まで絞っております。これは薪の燃え残りによる余熱でございます。……それよりも主様。そのカブを剥くのは、今ので四十二個目ですが。厨房の床が、主様のこだわりによって脱落したカブの皮で埋め尽くされようとしております」
「黙れ。このカブは、右側に僅かな歪みがあった。アリアの視覚に入る情報は、すべてが完璧な黄金比で調和していなければならない。人間というものは、視覚的な違和感から無意識に不安を抱く生き物だ。その不安が迷走神経を刺激し、結果として消化不良を招く。……俺の作るスープは、アリアの五感すべてを肯定する福音でなければならんのだ」
主様は、アリア様が肌身離さず持っていらっしゃる「ノート」の中身を、彼女が眠っている間に精査されました。
もちろん、私は「それはプライバシーの侵害ではないでしょうか」と進言いたしました。しかし、主様は「これは敵情視察ではない。彼女を蝕む『苦痛』の正体を暴くための、聖なる調査だ」と一蹴されました。
そこには、村の連中が彼女に浴びせてきた、目を覆いたくなるような言葉の数々が記されておりました。
『お腹が痛いなんて、甘えだ』
『またスープを吐いたのか』
『お前が生まれてから、この家には不幸ばかり続く』。
その歪な文字で綴られた絶望を読み進めるたび、主様から漏れ出す殺気によって厨房の窓ガラスにはピキピキと霜が降り、私の心臓部に当たる歯車さえも、凍りついて停止するのではないかと危惧したほどです。
「セバス。例の『月の雫』のハーブは、もう抽出が終わったか」
「はい。極寒の北嶺、標高三千メートルの断崖にのみ咲く、胃の痙攣を鎮める伝説の薬草でございますね。……主様の無茶な命令に従い、私が吹雪の中を不眠不休で駆け回り、採取してまいりました。現在、魔力を通した蒸留器で、その一滴にまで有効成分を凝縮させております」
「遅い。貴様が雪山で遊んでいる間に、アリアが今朝、寝言で『……お腹、重い……』と言っていたぞ。貴様の遅滞が、彼女に三時間もの不快感を与えたのだ。その代償は、貴様の全身のネジを一本ずつ外して、ユンの遊び道具にすることで支払わせるべきか?」
「……主様。私は遊びに出かけていたわけではございません。それよりも、アリア様が『重い』と仰ったのは、単にユン様が彼女のお腹の上を枕にして寝ていたからかと。あのお方は、主様が仰る通り、重厚な毛並みをお持ちですから」
主様は、カブを削る手をピタリと止め、氷の彫像のように凝固されました。
「…………貴様、それをなぜ早く言わん。……あの毛玉め。アリアの腹を物理的に圧迫するなど、許されざる暴挙だ。今すぐあの毛をすべて魔法で毟り取り、アリアのための、世界一柔らかい寝椅子の詰め物にしてくれる」
「……おやめください。ユン様が禿げ散らかせば、アリア様はショックでそれこそ寝込んでしまわれます。……それより主様、スープの灰汁をお取りください。コンマ数グラムの不純物が混じっております」
主様は「チッ」と舌打ちをされ、再び鍋へと集中されました。 このように、現在の主様の思考回路は、アリア様を中心とした「全自動幸福提供システム」へと再構築されております。 吸血鬼としての数世紀に及ぶ威厳や、闇の王としての誇りは、どこかの野菜屑と一緒に捨てられてしまったのかもしれません。
明け方、東の空が白み始めた頃、ようやく主様が納得されるスープが完成いたしました。 主様はそれを、彼女のために特別に用意した、熱伝導率の低い稀少な木材から削り出したボウルに盛り付けました。そして、ご自身の指先から微かな魔力を通し続け、スープの温度を「三十六.五度」に固定されたのです。 外気温の変化、ボウルの熱吸収、空気の対流。それらすべてを計算し、アリア様がどのタイミングで口をつけたとしても、最も胃に負担をかけない「人肌」の温度で提供し続けるために。
主様は、椅子を厨房のコンロの前に持ち込み、スープが湛える黄金色の水面を、恋人を見つめるような目で見守りながら夜を明かされました。
「……セバス。アリアの様子を見てこい」
「先ほど確認いたしましたが、昨夜の薬草の効果もあり、非常に穏やかな表情で眠っておられました。……あ、そういえば、寝言で主様のお名前を、それはそれは愛おしそうに呼んでおられましたよ」
「…………!!」
主様は一瞬、全身の血液が沸騰したかのように赤らみ、不自然なほど激しく咳き込まれました。
「……と、当然だ。俺がこれほどまでに、彼女の生存環境を最適化しているのだからな。感謝の念が夢にまで溢れ出すのは、論理的な帰結だ。……行け、セバス。俺は、このスープが彼女の食道を通るその瞬間まで、一分の温度の狂いも許さぬ。貴様は、アリアが目覚めたときに彼女の肌を包むための、最高級の朝露を集めておけ」
「……御意。……主様、朝露で洗顔なさるアリア様の笑顔、きっと素晴らしいでしょうね」
「………………。……ああ。……あの笑顔を永遠に守れるのなら、俺はこの城の金銀財宝をすべて溶かし、彼女の消化を助けるための魔法陣に変えても構わん」
主様。それは流石に、愛が重すぎます。
日記の最後に、私はこう記すことにいたしましょう。
『本日の観測結果: 主様の狂愛指数、限界値を突破。 アリア様の頬に、僅かな赤みが戻る。 城の備蓄カブ、残り二個。 ……この、狂おしくも穏やかな地獄のような日常が、いつまでも続くことを、人形の冷たい歯車の奥底で願わずにはいられない。』
さあ、夜が明けます。 お腹を空かせた、世界一愛らしい「生贄」が目覚める時間です。




