第6話:不器用な主と、秘密の白いスープ
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昨夜の温かな幸福感が嘘のように、朝の光はどこまでも透き通って、刺すように冷たかった。 城の分厚い窓ガラス越しに見える景色は、夜の間にさらに高く積み上げられた雪の壁。けれど、目覚めた私の心は、村にいた頃のような重苦しい絶望に支配されてはいなかった。
「……おはよう、ユン」
私の隣で、巨大な毛玉のように丸まって眠っていたユンが、片目を細めて「ふにゃあ」と気の抜けた声を出した。
その耳の先の飾り毛が、差し込む光を浴びて銀色に輝いている。 昨夜、テオドール様が置いていったスープの器は、すでにセバスチャンによって片付けられていた。けれど、私の胃の腑にはまだ、確かな温もりが魔法のように居座っている。 驚いたことに、いつもなら朝一番に私を苛む「腹部の張り」が、今朝は全くと言っていいほど感じられないのだ。
「……信じられない。私、本当にお腹が痛くないわ」
私はベッドから降り、そっと自分の腹部に手を当てた。いつもはパンパンに膨らんで、石のように硬くなっていた場所が、今は驚くほど柔らかい。テオドール様が、繊維の一本まで裏漉ししてくれたというあのスープ。あれは単なる料理ではなく、私の弱った内臓を癒やすための「薬」だったのだ。
コン、コン、と扉を叩く音がした。
「失礼いたします。アリア様、お目覚めでしょうか」
入ってきたのは、いつも通り完璧な身のこなしのセバスチャンだった。その手には、白銀の盆に載せられた小さなガラス瓶と、一輪の凍ったような青い花が置かれている。
「セバスチャンさん。……あの、昨日のスープ、本当に美味しかったです。テオドール様にお礼を申し上げたくて……」
「おやおや、主様は今、お休みですよ。……吸血鬼にとって、朝の光は何よりも毒でございますから。主様は、貴方がスープを飲み干したのを確認した後、ひどく疲れ切った顔で棺……いえ、寝室へ戻られました」
セバスチャンは、少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。
「なにしろ、一晩中厨房を占領して、カブを数十個も無駄にされたのですから。理想の『喉越し』を追求するために、何度も作り直していらっしゃいました。……貴方の胃に負担をかけない、奇跡の一杯を作るために」
「カブを、数十個も……?」 私は言葉を失った。あの冷徹な吸血鬼の主が、朝陽が昇る直前まで、私のために包丁を握り、カブの繊維と戦っていた。その姿を想像するだけで、胸の奥が熱くなる。
「主様が仰るには、『俺の作ったものを食べて死なれたら、俺の料理の腕が疑われる』とのことですが……まあ、主様の不器用な照れ隠しだと受け取ってください」
セバスチャンはガラス瓶を私の前に置いた。 「これは、主様がスープに使用した『氷晶のハーブ』から抽出したオイルです。これを食後に一滴、温かい白湯に入れて飲んでください。腹部のガスを抑える、古い魔術的な効能がございます」
「……何から何まで。私は、どうやってお返しをすればいいんでしょう。生贄として血を捧げることくらいしか……」
「主様は、貴方の血など求めてはおられませんよ」
セバスチャンは、少しだけ寂しげな表情を見せた。
「あの方は、あまりに長く孤独でいらっしゃいました。主様が求めているのは、血ではなく……自分の存在が誰かの『温もり』になるという、かつて失った人間らしい感覚なのかもしれません」
セバスチャンが去った後、私は城の中を少しだけ歩いてみることにした。 まだテオドール様が眠っている、静かな城内。 長い廊下の突き当たりにある広い厨房を覗くと、そこにはまだ微かに昨夜のスープの香りが残っていた。 磨き上げられた調理台の上に、テオドール様が使ったと思われる小さな包丁が置かれている。その持ち手には、彼が指を切った時に付いたと思われる、小さな小さな、乾いた赤い痕跡があった。
私はその包丁をそっと手に取り、布で丁寧に拭いた。
(……私にも、何かできることがあるはずだわ)
村では「穀潰し」と蔑まれた私。
けれど、この城では、私のために傷ついてくれる人がいる。 私は、自分の荷物の中から、あの大切な「ノート」を取り出した。 そこには今まで、呪いの言葉や痛みの記録ばかりが書かれていた。けれど私は、真っ白な新しいページを開き、震える手でペンを走らせた。
『二月○日。 怪物の城で、一番優しいスープを食べた。 テオドール様の指に、私のための傷があった。 今日から、私のノートは、彼に教えたい「幸せ」の記録にしたい。』
その時、背後から「クルル……」とユンの鳴き声が聞こえた。 振り返ると、ユンが私の裾を咥えて、どこかへ誘うように引っ張っている。
「ユン? どこへ行くの?」
ユンに連れられて辿り着いたのは、城の奥にある小さな「温室」だった。 外は猛吹雪だというのに、そこだけは魔力の暖房によって、色とりどりのハーブや見たこともない白い花が咲き誇っている。
「……わあ、綺麗……!」
その温室の隅に、昨夜私が飲んだスープの材料である「白いカブ」が、丁寧に植えられているのを見つけた。 不器用な吸血鬼が、夜中にここへ足を運び、一番育ちの良いカブを選び、冷たい水で洗って、私のためにスープを作った……。その情景が、鮮やかな色彩を伴って脳裏に浮かんだ。
私は、温室に生えていた雑草を、少しずつ抜き始めた。 病弱な私に、力仕事はできない。けれど、テオドール様の大切な食材を守るための手伝いなら、少しずつだってできる。 冷たい土に触れながら、私は初めて、自分の存在がこの世界に許されているような気がした。
「……あら、アリア様。こんなところで何を?」
ハーブを摘みに来たセバスチャンが、目を丸くして私を見下ろしていた。
「セバスチャンさん。……私、テオドール様のカブを、一緒に育てたいんです。それが、昨日のスープへのお礼になるかは分からないけれど……」
セバスチャンはしばらく私を見つめていたが、やがて優しく目を細めた。
「……主様がお目覚めになったら、ひどく驚かれるでしょうな。……ですが、きっと。あの方の不機嫌な朝が、今日からは少しだけ、賑やかなものになるでしょう」
雪山の頂、閉ざされた城の中で。 吸血鬼と、少女と、一匹の大きな猫。 歪で、けれど温かい日常の歯車が、ゆっくりと、けれど確かに回り始めた。
その夜、目覚めたテオドール様は、泥だらけになった私の指先を見て、案の定「ゴミが庭の土をいじるな」と毒づいた。けれど、その後に差し出された二杯目のスープは、昨日よりもさらに優しく、深い味がした。




