第23話:吸血鬼の目覚め、あるいは穢された純白
意識が浮上する感覚は、まるでもの凄く深い、底なしの沼から這い上がるようだった。 重い、重い。自分の体が自分のものではないような違和感。 心臓が動いていない。呼吸をしていない。 なのに、全身を駆け巡る「何か」が、以前よりもずっと鮮明に、鋭敏に世界を感じさせていた。
「……あ、……っ……」
喉が渇く。 今まで感じたことのない、喉を焼くような、魂が枯れ果てるような渇き。 私はゆっくりと目を開けた。そこには、月明かりを遮るように私の顔を覗き込む、テオドール様の姿があった。
「……目覚めたか。……アリア」
その声は、ひどく掠れていた。 テオドール様の顔は、これまでに見たことがないほどやつれ、その端正な輪郭には深い影が落ちている。 私は、自分の首筋に触れた。そこには、まだ生々しい牙の痕が二つ、焼き印のように刻まれていた。
「テオドール……さま……。……私、……どうして……」
口を開いた瞬間、自分の声の響きに驚いた。 鈴の音のように透き通っているけれど、どこかこの世のものとは思えない、冷たい響き。 鏡を見なくても分かった。私の瞳はもう、村で見上げた空の色ではない。 彼の瞳と同じ、呪われた「真紅」に染まっているのだと。
「……すまない。……貴様の願いを、俺が殺した。……貴様を、俺と同じ『夜の怪物』に堕とした。……恨め、アリア。……俺を、呪って殺しても構わん」
テオドール様は、私の手を握りしめた。 その手は、以前よりもずっと、ずっと熱く感じた。……いや、違う。私の体が、死者のように冷たくなってしまったからだ。
「……喉が、……熱いの。……テオドール様、……私、どうなっちゃったの……?」
私は、抗いようのない衝動に突き動かされていた。 テオドール様の首筋を流れる、ドク、ドクという鼓動の音。 彼の血管を流れる、あの芳醇で、熱くて、甘い「生命」の匂い。 かつてあれほど愛した彼の匂いが、今は「最高の食事」の匂いにしか感じられない。
「……っ! ……ダメ、……来ないで、……テオドール様……!」
私は、自分の中に目覚めた「獣」に恐怖した。 このままでは、私は大好きな人を食い殺してしまう。 私は彼を突き飛ばそうとしたけれど、テオドール様は微動だにせず、むしろ自分から私の首に腕を回し、その豊かな喉元を私の唇へと押し当てた。
「……拒むな。……これは、俺が犯した罪の、最初の報いだ。……飲め、アリア。……俺の血を食らい、俺の魔力を継ぎ、……永遠に俺から離れられない体に作り変えてやる」
「……だめ……、……そんなこと……」
「……飲め!! ……貴様が飢えに狂う姿を見るくらいなら、俺は今ここで、この喉を掻き切ってでも貴様を満たしてやる!」
テオドール様の咆哮に、私の理性が千切れた。 私は、彼の首筋に、自分の中に生えたばかりの鋭い牙を突き立てた。
「…………っ!!」
テオドール様の体が大きく震える。 口の中に流れ込んできたのは、言葉では言い表せないほどの、神聖で、暴力的で、甘美な「熱」。 それは、彼が三日間煮込んだどのスープよりも濃厚で、私の全身を、細胞の一つひとつを、歓喜の炎で焼き尽くしていく。
ああ、なんてこと。 大好きな人を傷つけることが、こんなにも気持ちいいなんて。 彼の命が、私の中に流れ込んでくることが、こんなにも幸福だなんて。
「……ふ、ふふ……。……そうだ、アリア。……もっと飲め。……俺のすべてを奪い尽くせ。……そうして、貴様の魂を、俺の色で完全に塗り潰してやる……」
テオドール様は、苦痛に顔を歪めながらも、恍惚とした表情で私の頭を抱き寄せた。 首筋に回された彼の指が、私の髪を愛おしそうに梳く。 穢された純白。 村での私は死んだ。 人間としての私は、もうどこにもいない。
どれくらいの時間が経っただろうか。 私がようやく牙を抜くと、テオドール様は蒼白な顔で、けれど満足げに微笑んだ。 彼の首筋からは、私のつけた二つの赤い痕が、月光に照らされて光っている。
「……これで、お揃いだな。……アリア」
テオドール様は、血で汚れた私の唇を、自分の指で優しく拭った。 「……貴様は今、世界で一番美しく、残酷な怪物になった。……人間だった頃の貴様も愛していたが、……俺と同じ『夜』を生きる今の貴様は、……気が狂うほど、愛おしい」
私は、血の涙を流した。 頬を伝うその雫は、もう透明ではない。赤く、重く、私の喪失を物語っている。
「……テオドール様、……私、もう……、……あのお庭で、笑うことはできないの……? ……セバスチャンさんの紅茶を、美味しいって思うことはできないの……?」
「……できん。……貴様が美味しいと感じるのは、もう俺の血だけだ。……貴様が見る太陽は、もう貴様を焼く刃でしかない。……だが、絶望するな」
テオドール様は、私の体をシーツごと抱き上げた。
「……貴様が太陽を失ったなら、俺が貴様の月になろう。……貴様が食事を失ったなら、俺が貴様の糧になろう。……貴様が世界すべてを敵に回しても、俺という名の地獄が、貴様を永遠に抱きしめてやる」
扉の影で、セバスチャンさんが静かに跪いていた。
「……目覚め、おめでとうございます。アリア様。……今日から、この城は本当の意味で、貴女様のものとなりました」
ユンは、変わり果てた私の姿を見て、悲しそうに、けれど決意を秘めた目で「クルル……」と短く鳴いた。
私は、テオドール様の腕の中で、外の景色を見た。 春の夜風が、桜の花びらを巻き上げる。 その景色は、以前よりもずっと鮮明で、ずっと冷たく、そして美しかった。
人間としての死。吸血鬼としての新生。 アリアのノートに、最後の一ページを記す手は、もう震えていなかった。 そこには、赤黒い文字で、ただ一言だけ。
『四月○日。 さようなら、私。 こんにちは、永遠。 私は、テオドール様の隣で、本当の「怪物」になりました。 もう、お腹が痛いことも、誰かに怯えることもありません。 ただ、彼の血を求め、彼に愛されるだけの、美しいお人形として。』
愛ゆえに堕ちた、二人の果てしない夜。 悲劇はまだ、終わらない。 次は、アリアを毒した村への、テオドール様の「慈悲なき復讐」が始まる。




