第22話:落花、あるいは血塗られた予兆
幸せすぎたのだ。 春の光を浴び、愛する人と朝食を囲み、新しいノートに希望を綴る……そんな人間らしい日々が、この呪われた城で永遠に続くはずがないと、心のどこかで分かっていたはずなのに。
事態が暗転したのは、穏やかなティータイムの最中だった。
「……ケホッ、……ッ、ゲホッ……!」
不意に襲ってきた激しい咳。 喉の奥から、鉄の味がせり上がってくる。私は慌てて口元を抑えたが、指の間から溢れ出したのは、テオドール様の瞳よりも鮮やかな、どす黒い「鮮血」だった。
「アリア……!?」
テオドール様の顔から、一瞬にして色が消えた。 彼は手に持っていたティーカップを床に叩きつけ、倒れそうになる私の体を、砕けんばかりの力で抱きとめた。
「セバス! 早くしろ! ……クソッ、なぜだ! スープは完璧だったはずだ! 貴様の胃は、もう治っていたはずだろう!?」
「テオ……ドール……さま……。……ごめんな、さい……。なんだか、急に……」
視界が急速に暗くなっていく。 私は、自分の体が内側からボロボロと崩れていくような感覚に襲われていた。 それは、お腹が弱いといった次元の話ではない。私の命そのものが、限界を迎えようとしている——そんな確信めいた恐怖が、全身を駆け抜けた。
次に目を覚ましたとき、私は寝室のベッドに横たわっていた。 部屋には、重苦しい沈黙と、嗅いだことのないような強い薬草の匂いが充満していた。
「……気がつきましたか。アリア様」
ベッドサイドには、いつになく険しい表情のセバスチャンさんが立っていた。 そして、その隣——テオドール様は、暗闇の中で獣のように蹲り、自分の拳を血が滲むほど強く握りしめていた。
「……セバスチャン、さん。……私、どうしたの……?」
「……アリア。……貴様の村の連中は、……最後まで救いようのないクズだったということだ」
テオドール様の声が、地獄の底から響くような低い唸りとなって部屋に震えた。 セバスチャンさんが、静かに、けれど無機質な声で事実を告げた。
「……アリア様。貴方様が村で食べさせられていた『薬』……。体質を改善すると言われていたあの飲み物には、極少量の『呪毒』が混ぜられていました」
「……じゅどく……?」
「ええ。……生贄として捧げられた後、怪物の城で生きたまま体が腐り、発狂して死ぬように。……そうすることで、怪物の魔力を弱め、村への災いを払い、あわよくば城を自滅させるための……村に伝わる『生贄の儀式』の仕上げだったのです」
私は絶句した。 お母様が、セレナが、「これを飲めばお腹が楽になるわよ」と言って差し出していたあの苦い水。 あれは、私を救うためのものではなく、私を「歩く毒」に変え、テオドール様を殺すための刃だったのだ。
「……俺の魔力で、貴様の胃は治せた。だが、……骨の髄まで染み込んだその呪毒までは、浄化しきれなかった。……春が来て、貴様の生命力が活発になったことで、……毒もまた、牙を剥いたのだ」
テオドール様が、ゆっくりと立ち上がった。 彼から溢れ出す殺気は、城全体の温度を奪い、窓ガラスがピキピキと音を立てて凍りついていく。
「……あいつらだ。……あいつらが、貴様の短い一生を、……こんな、汚らわしい計画のために利用した。……俺が愛した貴様を、……俺の手で救い上げたはずの貴様を、……また、暗闇へ引きずり戻そうとしている……!」
「テオドール様、……やめて……。……そんなに、悲しい顔をしないで……」
私は手を伸ばそうとした。けれど、腕を上げる力さえ、今の私には残っていなかった。 呪毒は、私の臓器を蝕み、呼吸をするたびに肺が焼けるような痛みを引き起こす。
「……セバス。……準備をしろ」
テオドール様が、冷たく言い放った。
「主様。……まさか、……『あの禁忌』に手を出すおつもりですか? ……それでは、主様ご自身も……」
「構わん。……アリアを失うくらいなら、俺はこの世の理など、すべて踏み潰してやる。……神が彼女に死を与えたというなら、俺は悪魔に魂を売り、彼女に『永遠の地獄』を授けてやる」
「テオドール様……? 何を……何を言っているんですか……?」
私は、彼の瞳の中に、見たこともない「狂気」の色を見た。 それは、愛ゆえの狂気。アリアという光を失うことを拒絶した怪物が、最悪の選択をしようとしている予兆。
「……アリア。……貴様は言ったな。人間として、俺を愛したいと。……永遠なんていらないと」
テオドール様は、私のベッドに乗り出し、私の顔を両手で挟み込んだ。 彼の赤い瞳から、一滴の、血のような涙が零れ落ち、私の頬を濡らした。
「……すまない、アリア。……俺は、貴様の願いを叶えてやれない。……俺は、貴様を『こちら側』へ連れて行く。……貴様がどれほど俺を恨もうと、どれほど光を恋しがろうと。……俺は、貴様を、死なせはしない」
テオドール様が口を開く。 そこには、これまで隠し続けていた、最も鋭く、最も美しい吸血鬼の牙が、月光を浴びて白く輝いていた。
「……永遠に、俺と彷徨え。……愛している、アリア」
「……あ、……っ……!!」
首筋に、鋭い痛みが走った。 テオドール様の牙が、私の血管を貫き、そこから彼の「呪われた血」が、私の全身へと流れ込んでいく。
呪毒による死の痛みと、吸血鬼の血による新生の苦しみ。 二つの相反する力が、私の体の中で激しくぶつかり合い、私は絶叫することもできず、ただ暗い、暗い、深い闇の中へと堕ちていった。
城の外では、春を祝う花々が、冷たい突風に煽られて一斉に散り落ちた。 ユンの悲痛な遠吠えが、夜の森に響き渡る。
それが、幸福だった日々の終わり。 そして、血と絶望に彩られた、真の「地獄」の始まりだった。
その日のノートは、床に落ち、開かれたまま。 そこには、私の血で汚れた一ページが、主を失ったまま風に揺れていた。




