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吸血鬼の花嫁 ——怪物の城に春は来ない——  作者: 胡蝶
第三章:崩壊と永遠の愛
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第16話:アリアのノート、暗い過去の書き換え

城の図書室の片隅。 私は、自分の「ノート」を膝の上に置いて座っていた。 それは、村にいた頃からずっと持ち歩いている、唯一の持ち物。けれど、その中身は、誰にも見せられないほど醜く、暗い感情で満たされていた。


私は、ふと最初のページをめくってみた。


『○月○日。 またお腹が痛い。母が「無駄飯食らい」と言って私を叩いた。 ごめんなさい。私が生まれなければ、お母様はもっと幸せだったのに。 死にたい。でも、死ぬ勇気すらない私は、なんて卑怯なんだろう。』


震える文字。 ページをめくるたび、当時の「絶望の匂い」が蘇ってくる。

村での私は、存在すること自体が罪だと思っていた。ガスの溜まるお腹は「呪い」で、食べられないことは「わがまま」で、私が流す涙は「家族を困らせる毒」だった。


『○月○日。 セレナに、私のスープを捨てられた。 「どうせお姉様は食べられないんでしょう? もったいないわ」と言って笑った彼女の目が、怖かった。 お腹が空いているのに、何を食べても痛い。 私は、神様に嫌われているんだ。』


「……う、……うう……」


読み返すうちに、当時の孤独が胸を締め付け、涙がノートの紙面にポタポタと落ちた。 インクが滲み、私の暗い過去がさらに黒く汚れていく。 そこにいたのは、愛されることを諦め、ただ「死」を待つためだけに生贄に志願した、一人の哀れな少女だった。


「……何をしている。……また泣いているのか」


不意に、背後から影が差した。 テオドール様だった。彼は私の隣に静かに腰を下ろすと、私が隠そうとしたノートを、その大きな手でそっと止めた。


「……見ないで、ください……。こんなの、テオドール様に見せるようなものじゃ……。私の、醜い、汚いところばかり書いてあるんです……!」


私は必死にノートを抱え込んだ。 完璧で美しい彼に、私のこの惨めな過去を知られたくなかった。嫌われたくなかった。 けれど、テオドール様は拒絶する私を無理に引き剥がすことなく、ただ静かに、私の頭を自分の肩に引き寄せた。


「……アリア。貴様が言っただろう。俺の過去がどれほど血塗られていても、今の俺を見てくれると」


彼の声は、凪いだ海のように穏やかだった。


「……ならば、俺も同じだ。貴様がどれほど自分を呪い、どれほど暗い淵を歩いてきたとしても……俺は、今の、この温かい貴様を愛している」


テオドール様は、私の手からノートをそっと受け取ると、その古いページをゆっくりと、慈しむようにめくっていった。 私の絶望の記録を、彼は一言も漏らさず、最後まで読み終えた。


「…………」


沈黙が流れる。 私は怖くて、顔を上げられなかった。けれど、次にテオドール様が口にしたのは、拒絶ではなく、絞り出すような「怒り」と「祈り」だった。


「……許せん」


「……え?」


「貴様をここまで追い詰めた連中が、そして、この記録を一人で綴らなければならなかった貴様の孤独が……俺には、到底許せん。……アリア、貴様は『神に嫌われている』と言ったか」


テオドール様は、ノートの最後の「空白のページ」を開いた。 そして、私からペンを取り、迷いのない手つきで、そこに大きく文字を記した。


『——お前は、俺に選ばれた。』


力強い、銀色の魔力を帯びたような文字。


「神が貴様を見捨てたとしても、この怪物が貴様を拾い上げた。……貴様を『無駄飯食らい』と呼んだ奴らがいたなら、俺がそいつらの目の前で、世界で一番贅沢なスープを貴様に飲ませてやろう」


彼は私の頬を両手で包み、その赤い瞳を私の目に合わせた。


「貴様の過去は、もう消えはしない。だが、……俺がすべて上書きしてやる。貴様のノートの続きを、俺との記憶で、……塗りつぶしきれないほどの『幸福』で、埋め尽くしてやる」


「……あ……、……テオドール、さま……っ」


私は、彼の胸に顔を埋めて、声を上げて泣いた。 それは、これまでの「死にたい」という涙ではなかった。 私の絶望を、私の汚れを、すべて知った上で「愛している」と言ってくれた彼への、感謝と喜びの涙。 数百年の孤独を生きた吸血鬼が、一人の少女の「過去」という魔物と戦い、それを打ち破ってくれた瞬間だった。


「……よし。……もう泣くな。……貴様の涙は、もう毒ではない。……俺の心を溶かす、甘い蜜だ」


テオドール様は、私の背中を何度も、何度も優しく叩いてくれた。 足元では、ユンが私の足に体を擦り寄せ、まるで「僕もいるよ」と言うように温もりを分けてくれている。


その日の夜、私はノートを抱きしめて眠った。 明日からは、新しいページが始まる。 そこにはもう、「死にたい」という文字は並ばない。 テオドール様が教えてくれた、不器用な愛の言葉と、ユンのもふもふした温もりと、セバスチャンさんの淹れたお茶の香りと——。


私が生きている、確かな「理由」が、これからの一ページ一ページに刻まれていくのだ。


『三月○日。 彼は、私の絶望さえも愛してくれた。 「お前は俺に選ばれた」 その言葉だけで、私は一生、生きていける。 過去の私、ごめんね。もう、大丈夫だよ。 世界で一番幸せな怪物の花嫁より。』


窓の外では、雪が解け始めていた。 私のノートの中の冬も、今、ようやく終わりを告げようとしていた。

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