第15話:セバスチャンが語る『怪物の寝顔』、あるいは主の受難
至高の一杯を作り上げた代償は、吸血鬼の主であるテオドール様にとっても、小さくはなかったらしい。 夜が明ける頃、私はセバスチャンさんに連れられ、テオドール様の寝室へと足を踏み入れた。そこには、普段の威厳ある姿からは想像もつかない、無防備な寝顔を晒して眠るテオドール様の姿があった。
「……テオドール様……?」
深く豪華な天蓋付きのベッドの中、彼は白いシーツに顔を埋め、まるで幼子のように穏やかな寝息を立てていた。いつもはピンと張り詰めている彼の銀髪も、今は枕の上にふわりと広がり、無造作に顔にかかっている。 眉間の皺は消え、唇は僅かに開かれ、昨夜私に見せた「優しい笑顔」の余韻を残しているようだった。
「主様は、この数日間、ご自身の魔力を酷使しすぎました。スープ作りと、夜間のアリア様の様子観察と、そして……夜の『不法侵入者』の警戒。……吸血鬼といえど、ここまでの献身は体に堪えるのでしょう」
セバスチャンさんは、そう言って楽しげに眼鏡を押し上げた。
「『不法侵入者』とは……?」
「……おや。ご存じありませんでしたか? 貴方が夜中に寝苦しそうにしていると、主様は決まって、貴方の部屋の窓から忍び込んでいらっしゃいましたよ。……『ユンのやつが、毛布をかけ直すのが下手くそだからだ』と仰っていましたが」
私は、思わず頬が熱くなるのを感じた。 夜中に目が覚めるたびに、なぜか毛布がしっかりかけ直されていることに気づいていた。
てっきりユンがやってくれたのだと思っていたけれど……まさか、テオドール様が、毎日私の寝顔を見守りに来てくれていたなんて。
「……アリア様。主様の寝顔を見る機会は、非常に稀ですよ。……いかがです? 美しいでしょう」
セバスチャンさんが、そっと私の耳元で囁いた。
私は、彼の隣にそっと跪いた。 テオドール様の寝顔は、この世のどんな彫刻よりも美しく、けれど同時に、数百年の時を超えてきた孤独の影を宿しているように見えた。
「……セバスチャンさん。……こんな顔もするんですね」
「ええ。ですが、この寝顔を『安らかだ』と感じるのは、アリア様、貴方がこの城に来てからです。以前は、魘されたように眉間に皺を寄せ、常に戦っているような寝顔でした」
セバスチャンさんは、テオドール様の乱れた髪をそっと払ってくれた。
「貴方が、主様の心に『休息』という概念を教えてくださった。……感謝いたします」
私は、彼の頬に触れたい衝動を必死に抑えた。 代わりに、彼の大きな手に、そっと自分の小さな手を重ねた。 冷たい。氷のように冷たい。けれど、その冷たさの奥に、確かな「温もり」が宿っている。
「……テオドール様……」
私がそっと名前を呼ぶと、テオドール様の瞼が、微かにピクリと動いた。
「……ん……。……アリア……? ……まだ、夜が明けていないのか……」
彼は、寝ぼけた声で呟くと、無意識のように私の手を握りしめ、そのまま自分の頬に擦り寄せた。
「……冷たい。……だが、心地いい……。……もっと、……近くに……」
私は、彼のあまりに無防備な仕草に、心臓が爆発しそうになった。 テオドール様は、夢の中にいるかのように、私の手を強く握りしめたまま、再び深い眠りへと落ちていった。
「……おやおや。……よほどお気に入りのようですね。アリア様」
セバスチャンさんは、面白そうにニヤニヤと笑っている。
「セバスチャンさん! 見てたんですか!」
「ええ。完璧に。……ですがご安心を。主様は、きっと何も覚えていらっしゃらないでしょう。……寝惚けている主様は、素直で、可愛らしいものですよ」
セバスチャンさんは、そう言ってテオドール様のために用意した薬湯の入ったカップをテーブルに置いた。
「主様が目覚めたら、これを飲ませて差し上げてください。……そして、その際に、少しだけ……『お礼のキス』を添えて差し上げると、主様はきっと、さらに健やかに目覚められるでしょう」
「……っ! セバスチャンさん、からかってるでしょう!?」
私は顔を真っ赤にして彼を睨んだ。
「とんでもない。私はただ、主様の健康を第一に考えているだけです。……さあ、アリア様。主様が目覚めるまで、もう少しだけ、その愛らしい寝顔を堪能なさいませ。……きっと、主様は貴方がここにいてくださることを、夢の中で願っているはずですから」
セバスチャンさんは、そう言って優雅に一礼し、部屋を後にした。
残されたのは、眠るテオドール様と、私と、そして足元で丸まっているユンだけ。
私は、彼の寝顔をじっと見つめた。 吸血鬼の主である彼が、私のために指を切り、夜中にこっそり毛布をかけに忍び込み、そして、こんなにも安らかな寝顔を見せてくれる。 そのすべてが、私にとって、世界で一番甘くて、愛おしい光景だった。
私はそっと身をかがめ、彼の額にかかった銀色の髪を優しく払った。 そして、セバスチャンさんの悪戯な言葉を思い出しながら、彼の唇に、そっと自分の唇を重ねた。
「……ん、……っ」
冷たい唇。けれど、私の心臓は、彼の唇から流れ込む熱によって、激しく高鳴った。 それは、病で熱に浮かされた時とは違う。 全身の血が逆流するような、幸福な熱。
「……おやすみ、テオドール様。……早く、目を覚まして。……私が作った、朝食を食べてほしいな」
私は、彼の隣にそっと横になった。 テオドール様は、夢の中で私の存在を求めているかのように、私の腰に腕を回し、私を抱き寄せた。 彼の冷たい肌と、私の温かい肌が触れ合う。 二人の間にあったはずの境界線が、まるで最初からなかったかのように溶けていく。
吸血鬼の寝顔は、無防備で、愛しかった。 そして、その隣で眠る人間の少女は、心から「愛する人」の隣で眠る幸福を噛み締めていた。
その日のノートには、こう記された。
『三月○日。 彼の寝顔は、世界で一番美しい。 私がそっとキスをしたら、夢の中で抱きしめてくれた。 もう、この腕から離れたくない。 どうか、この甘い夢が、ずっと続きますように。』
ありがとうございました!




