【幕間:第2-1話】ノートに記された「銀色の背中と、秘密の約束」
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(※ページには、森で拾った小さな青い花が押し花にされ、その周りを囲むように丁寧に文字が綴られている)
四月○日。 今日、私はテオドール様に内緒で、とんでもないことをしてしまった。 今も心臓がふわふわして、筆を持つ手が少し震えている。もしこれがバレたら、テオドール様はきっとお城が揺れるくらい怒ると思うけれど……でも、後悔はしていないわ。
お昼過ぎ、テオドール様とセバスチャンさんが、地下の図書室へ調べものに行ってしまった隙に、私はユンに「お願い」をした。
「ユン。私を、森の奥まで連れて行ってくれないかしら?」
ユンは最初、目を丸くして「グルゥ……(ダメだよ、そんなの)」って首を振っていた。
テオドール様はいつも「結界の外は、人間にとっては毒で満ちているようなものだ」って仰るもの。
でも、私が「テオドール様のために、あの『星紡ぎの花』を探したいの」って一生懸命お願いしたら、ユンは少しだけ困ったような顔をしてから、大きな背中を貸してくれた。
ユンの毛並みに指を沈ませて、お城を抜け出した瞬間のあの風の匂い、一生忘れない。 冷たくて、でもどこか甘い、自由の匂いがした。
森の奥は、まるでおとぎ話の中に迷い込んだみたいだった。 村の大人たちが言っていた「呪われた森」なんて嘘。そこには、真珠みたいに光る羽を持った蝶々が舞っていて、足元には宝石みたいな露を湛えた、見たこともないほど大きなシダの葉が広がっていた。
ユンは、私が枝にぶつからないように、とてもゆっくりと、でも力強く歩いてくれた。
「グルル(アリア、あそこに美味しそうなベリーがあるよ。でも、主様以外の人が作ったものは食べちゃダメだよ)」
ユンがそんなふうに注意してくれるのが可笑しくて、私はユンの首筋に顔を埋めて笑った。
でも、森の深くへ行くにつれて、空気が少しずつ変わっていった。 ひんやりとした冷気が、足元から這い上がってくる。 あんなに元気だった私のお腹が、急にキュンと痛んで、私は思わずユンの毛を強く掴んでしまった。
「……っ……」
ユンはすぐに足を止めて、心配そうに鼻先を寄せてくれた。
「キャウン!(大丈夫? 苦しい? やっぱり無理だよ、帰ろう)」
ユンの温かい鼻息が頬に当たって、私は少しだけ元気が出た。
「大丈夫、ユン。……見て、あそこ。……あったわ」
大樹の根元。ほんの少しだけ差し込む、奇跡のような陽だまりの中に、その花は咲いていた。 『星紡ぎの花』。 透き通るような青い花びら。セバスチャンさんの淹れるお茶の色よりも深い、神秘的な青。 テオドール様が夜、なかなか眠れずにベランダで月を見ているのを、私は知っている。 吸血鬼の彼には必要ないかもしれないけれど、私は彼に「安らぎ」をプレゼントしたかった。
私が花を摘み取った瞬間。 森の奥から、地響きのような嫌な音が聞こえてきた。 黒い霧みたいな、ドロドロした影たちが、私たちの周りを取り囲んで……。 私は怖くて足がすくんでしまったけれど、ユンは違った。
「グルルルルッ!!」
ユンの背中が、見たこともないくらい大きく膨らんで、銀色の毛が一本一本、電気を帯びたみたいに輝き出した。 いつもの甘えん坊な「もふもふ」じゃない。
そこには、テオドール様さえも一目置く、最強の「聖獣」としてのユンがいた。
ユンが一度吠えるだけで、黒い霧が吹き飛んでいった。 ユンが前足で地面を叩くと、眩しい光が溢れて、魔物たちは悲鳴を上げて逃げていった。 私は、ユンの足元で、彼が作ってくれた「光の檻」の中に守られながら、ただ祈っていた。
ユン、怪我をしないで。私を、テオドール様のところへ帰して。
帰り道、ユンは誇らしげに鼻を鳴らして、夕暮れの森を歩いた。 私は、摘んだ花を大切に胸に抱いて、ユンの温かい背中で揺られながら、少しだけ泣いてしまった。 家族にさえ「お荷物」だと思われていた私が、誰かのために何かをしたいと思って、こうして冒険をして、それを守ってくれる存在がいる。 このお城は、私にとっての地獄なんかじゃない。 世界で一番、優しい場所なんだ。
お城に着くと、テオドール様は案の定、氷点下の表情で待っていた。 殺気で、お庭の池が凍っていたくらい。
「……アリア。貴様、死にたいのか」
その一言だけで、私の心臓は止まるかと思った。
でも、私が「これを、テオドール様に……」って、震える手で青い花を差し出したら。 彼は、信じられないものを見たみたいに目を見開いて。 それから、力任せに私を抱きしめた。 彼の腕は、初めて少しだけ「温かい」と感じた。きっと、すごく心配して、魔力で必死に体を温めてくれていたんだと思う。
「……馬鹿な女だ。……草一輪のために、俺を狂わせる気か」
耳元で聞こえたテオドール様の声は、少しだけ泣いているみたいに震えていた。
ごめんなさい、テオドール様。 でも、貴方がその花を、銀色の花瓶に生けて大切に机に飾ってくれているの、私はちゃんと見ているわよ。
今夜は、ユンも一緒に、私のベッドの横で寝ることを許してくれた。 テオドール様は「毛玉の防犯機能を確認するためだ」なんて言っているけれど、本当はユンにも感謝しているのよね。
ノートのこのページは、私の宝物。 この花が枯れても、この日の風の匂いと、ユンの誇らしげな鳴き声と、テオドール様の震える抱擁は、ずっと私の心に残る。
テオドール様。ユン。セバスチャンさん。 私を、生贄じゃなくて「家族」にしてくれて、ありがとう。 ……お腹の痛みも、今はもう、どこかへ行ってしまったみたい。




