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吸血鬼の花嫁 ——怪物の城に春は来ない——  作者: 胡蝶
第二章:深まる絆と城の秘密
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第14話:至高の一杯、あるいは名もなき献身

連続投稿となります。

よろしくお願いいたします!

城の夜気が、微かな「変化」を帯びていた。 いつもなら廊下に漂うのは、古びた石材の冷たい匂いと、テオドール様の纏う清冽な魔力の香気だけだ。けれど今夜は、厨房の重い扉の隙間から、五感を狂わせるほどに芳醇で、暴力的なまでに食欲をそそる「香り」が漏れ出していた。


(……なんて、いい匂い……)


私は誘われるように厨房へと足を向けた。 そこにいたのは、いつもの優雅な燕尾服を脱ぎ捨て、袖を捲り上げ、真剣な眼差しで大鍋を見つめるテオドール様の姿だった。


「……アリアか。勝手に入るなと言ったはずだが。……まあいい、ちょうど『完成』したところだ」


テオドール様は、額に光る汗を拭うことさえせず、私を席に座らせた。 目の前に置かれたのは、深みのある白磁の器。そこに注がれていたのは、月光を煮詰めたかのように白く、真珠のように滑らかな光沢を放つスープだった。


「……飲め。……貴様のその、欠陥だらけの胃袋を黙らせるためだけに、俺がこの三日間、不眠不休で挑んだ答えだ」


器からは、驚くほど重層的な香りが立ち昇っていた。 まず鼻をくすぐるのは、じっくりと時間をかけてローストされた根菜の、土の温もりを感じさせる甘い芳香。その奥に、雪解け水で育ったカブの清涼な香りと、数種類の秘密のハーブが織りなす、爽やかでいて深い香りが隠れている。


私は震える手でスプーンを取り、その真珠色の液体を掬い上げた。 驚くほど濃密だ。スプーンの背にまとわりつくその質感は、液体というよりも、柔らかな絹のドレスのよう。


一口、口に含んだ瞬間——私の世界が、一変した。


「…………っ、……あ……」


言葉が出ない。 舌の上に乗せた瞬間、スープは体温で解けるように広がり、喉を通る前に蒸発して体中に染み渡っていくような錯覚に陥った。 それは、徹底的に裏漉しされ、繊維の一本さえ残さない究極の滑らかさ。けれど、その中にはカブの生命力が凝縮されていた。 バターを使わず、代わりにナッツの油脂を極限まで乳化させたというコクは、驚くほど濃厚なのに、後味は驚くほど軽やかで、一点の濁りもない。


「……美味しい……。美味しいなんて言葉じゃ、全然、足りません……」


二口、三口と運ぶたびに、胃の腑が歓喜の声を上げるのが分かった。 いつもなら、食べ物が胃に入るたびに襲ってくる、あの嫌な重苦しさや、ガスが溜まるような不快感が全くない。それどころか、スープが通り道を作るように、私の冷え切った内臓を内側から優しく、力強く温めていく。


「……だろうな。……貴様の胃を荒らす要素はすべて排除した。……野菜の皮から取った出汁をベースに、魔力を通した銀の鍋で三日間煮込み続けたのだ。……一滴一滴が、貴様の血肉となるように」


テオドール様は、私が夢中でスープを啜る姿を、満足げに、けれどどこか照れくさそうに見つめていた。 ふと彼の足元を見ると、ゴミ箱には山のような「カブの残骸」が積み上げられていた。 完璧な中心部だけを贅沢に使い、少しでも筋があれば捨て、納得がいかなければ一から作り直した……その「名もなき献身」の跡。


「……テオドール様。……これ、本当に魔法みたいです。……お腹の痛みが、すうっと消えていく。……身体中の細胞が、喜んでいるのが分かります」


「……ふん。……魔法ではない。……単なる執念だ。……俺の獲物が、栄養失調で死ぬなどという屈辱を、二度と味わいたくないだけだ」


彼はそう嘯くけれど、その声はどこまでも優しかった。 私は最後の一滴まで、器を傾けて飲み干した。 空っぽになった器を見つめながら、私はこれまでにない「満腹感」と、何より「幸福感」に満たされていた。


「……ごちそうさまでした。……テオドール様、……ありがとうございます」


「……足りたか? ……なら、次はこれだ」


テオドール様が差し出したのは、食後の白湯に、セバスチャンさん特製のオイルを垂らしたもの。それを飲むと、お腹の中で微かに残っていた違和感さえも、霧が晴れるように消えていった。


「……アリア。……約束しろ」


テオドール様が、私の手を取り、その指先にそっと唇を寄せた。


「……俺の前でだけは、我慢をするな。……腹が痛ければ痛いと言え。……腹が減れば、俺に作れと命じろ。……貴様を生かすのは、村の冷たい義務ではない。……俺の、我儘なのだから」


「……はい。……私、もう我慢しません。……テオドール様のスープがあるなら、私、世界で一番健康な女の子になれそうな気がします」


私が笑うと、テオドール様も、今夜は隠すことなく、優しく微笑んだ。 その笑顔は、かつての肖像画の青年よりも、ずっと人間らしく、温かかった。


足元では、スープのお裾分けを(もちろん猫用に調整されたものを)もらったユンが、お腹を出して幸せそうに「クルル……」と眠りについていた。


城の外は、相変わらずの極寒。 けれど、厨房に灯る小さな明かりと、至近距離で交わされる二人の体温。 そして、胃の腑を満たす至高の一杯。 それは、どんな豪華な晩餐会よりも贅沢な、愛の儀式だった。


その夜、アリアがノートに記した文字。


『三月○日。 世界で一番幸せな満腹。 テオドール様のスープは、愛の味がした。 お腹が痛くないって、こんなに世界が明るく見えるんだね。 明日も、彼と一緒に笑って食べられますように。』

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