王子様と月の夜
ふわふわして暖かいなと、アデライドは感じていた。
ポカポカとしたぬくもりは、手首からやって来た。それは左手から体の中を順繰りに巡って、頭のてっぺんに到達すると、アデライドの意識をぱくりと丸呑みにしてしまった。
よく晴れた日の窓辺のような、冬の夜に被る毛布のような、優しい誰かの腕の中のような…そんな心地良さに、彼女は抗うことも出来ずに、意識は暗がりへと落ちていこうとしていた。
「…アデライドお嬢様、大丈夫ですか!」
「ヒァ!!」
気付くとすぐ近くに迫っていた紫の目とかちあって、アデライドは椅子に腰掛けたまま垂直に何ミリか飛び上がった。
ランベールが彼女の左手を握ったまま、こちらを見ている。その困惑したような顔に、彼女は震え上がった。
「ゴゴゴッゴベンナサイッ!」
「いいんですよ…眠くなってしまいましたか?体がだるかったり、夜中に何度も目が覚めたりしますか?」
ランベールの言葉に、今自分は診察を受けていた事を思い出して、アデライドはまた慌てた。
「イエッ!アノッ!毎日、夜はねます!!」
そりゃあそうだろうとしか言いようのないことを、アデライドは元気よく宣言した。だが普段ならツッコミを入れる人々も、この日はただ静かに見守っていた。
記憶を失って数日経ったアデライドは、よく眠るようになった。一見すると元気そのものなのだが、昼も夜も構わずに、電池が切れたように意識を失う。その頻度は日を追うごとに高くなり、今では一日のうちの数時間しか意識を保てていない。
「本当に些細なことでもいいんです。今のあなたの状況をすべて教えてくれませんか?」
表情を動かさないままランベールが問う。ここ数日で何度も繰り返されている質問に、アデライドが回らない頭を動かすと、ふと、外の景色が目に留まった。
「…ここからは、お花が、たくさん見えます」
「花ですか?」と、ランベールも窓の外を見る。三階にあるアデライドの部屋からは、紫色の花が咲き誇る様が一望できた。
「綺麗ですね」
「はい、あの、ここからは、とてもきれいで。まえは、そうでもなくって、それであの、だから、わたくし…」
人見知りの症状を残しているアデライドは、懸命に言葉を重ねている。しかし、言いたい事を上手く伝えられないようで、もどかしそうに俯いて唇を噛んだ。
「ライラックは今が盛りですからね。お好きなのですか?」
助け舟のつもりでランベールがした質問に、アデライドがびくりとして顔を上げる。困ったように眉を寄せたままの彼女に、ランベールは続けて言う。
「王都の中央にある公園でも、たくさん咲いています。…今度、一緒に見に行きましょう」
思わぬ誘いに驚いたように顔を上げたアデライドは、また紫の目が自分を見ているのを確認して頬を赤く染めた。寄ったままの眉が下がって、「たのしみです」と呟いた口元はグニグニと動いた後、笑みの形に落ち着いた。
ヴォルテール公爵家を出た一行は研究室に再び集まっていたが、部屋の空気は暗く重かった。毎日取っているアデライドの記録は、何よりも雄弁に現状を物語っていた。
「左胸に波長の違う魔力の塊がある。これの影響が大きい」
ガサガサと紙の帯を引き寄せてランベールが指摘する。アデライドの身体には彼女の魔力由来ではない、だが無視できないほどに大きな魔力波を放つ塊が出来ている。
「エエー…あのカタマリ、どんどん元気になってない?なんか、アディの体を食べてる気がするんだけどー?」
ミモザが小さくこぼした感想に、皆が顔を上げる。彼女の言うことに学術的な裏付けはない。だが、事実としてアデライドの魔力波は日に日に弱まっている。
公爵家は持てる財力と人脈を駆使して、方々から医師や魔術師を呼び寄せているし、今もシャルルが有識者を求めて駆け回っている。しかしアデライドの症状を治せる者はおろか、知る者すら見つかっていない。
「もっと早く気付いていたら」そんな後悔が焦燥感と手を組んで、ランベールの足を絡め取ろうとしてくる。それを振り切るように、彼らは再びデータと向き合う。残された時間はきっと短く限られている。彼らの願いと反比例するように。
それから数日後の深夜、ヴォルテール公爵家の庭園では、均等に並んだガス燈がよく手入れされた木々を照らしていた。その一つに足をかけた人影へ、後ろから声が掛けられた。
「何をしてるんですかぁ⤵︎」
「フオォォ!ってなんだ、お前か。びびらせんな!」
「いや、なんだお前かぁじゃありませんヨォ」と困り顔のジャンを放置して、侵入者は何事もなかったように木登りを再開していた。ため息を吐いて見守っていたジャンは、自らの職務を遂行することにした。
幹にしがみつこうとするフィリップを、ジャンはベリベリと力任せに引き剥がした。「フォォオオオン!」と、無駄にうるさく鳴いて四肢をカサカサと動かす王子を持ち上げながら、ジャンは子供の頃に大きな甲虫を捕まえた時のことを思い出していた。
「…お嬢様に会いたいんですよネェ?それなら窓から侵入じゃなくて、お客様としてドアから入ってください」
捕えられた甲虫王子(中型・ノーマル)は、放っておくとワキワキと動きまわるので、そのままジャンの手でアデライドの部屋の前まで運ばれた。
「こんな時間なのにいいの?」
「お嬢様は今日…ずっと寝たままでした。寝顔でいいなら、少しだけ会ってあげてください。僕の見張り付きですけど」
いよいよこの日、アデライドは一日中、目を覚ますことがなかった。眠り続ける主人を見て、屋敷の人々は否応なしに、迫り来る望まぬ未来を覚悟するようになっていた。そんな悲壮感を漂わせるジャンとは対照的に、にぱっと笑ったフィリップは「いや、起きてるよ」と言って、ドアをノックした。
「ごきげんよう、俺の眠り姫」
深夜の訪問者を、アデライドはベッドで上半身を起こした状態で迎えた。寝起きらしく少しぼんやりしていたが、覚醒している主人を目にしてジャンが安心したように顔を綻ばせる。が、同時に自分の失態にも気付かされた。
「ごめんね。姫君の安息の時間を邪魔するつもりはなかったんだけど、今夜の月はどうしても君と一緒に眺めたかったんだ」
家宅侵入の動機を、フィリップは詠うように供述する。情状酌量の余地を微塵も感じさせない自分本位の塊のような言い分に、侵入を幇助してしまったジャンがひとり震えている。
「マァ…?」と、理解が追いつかない様子のアデライドに、フィリップはズカズカと近づいていく。ちゃっかりとジャンの持っていたランプを奪っていた王子は、それを窓辺のチェストの上に置いた。
「少しだけ俺の話し相手になって欲しいんだ…君の声はどんな薬湯よりも、俺の心を温かく癒してくれるから」
今のアデライドにとってのフィリップは、見知らぬ不法侵入者でしかない。だがしかし、窓際のランプは彼にとって実に効果的な協力者であった。
仄かな灯りは優しげな笑みを温かく照らし出し、なぜかきっちりと着込んできていた礼装の、絹糸の装飾に控えめな煌めきを与えた。それは彼を少女の夢に現れる王子のように演出した。
顔が良いってズルいなぁと、傍観者に成り果てたジャンが内心でつぶやく中、夢裡の王子様ヅラをした不法侵入者は、彼の姫たるアデライドに語りかける。
「今の君のことを、教えてくれないかな?」
ランベールが何度も繰り返した問いと、同じようで違うフィリップの質問を、アデライドはゆっくりと咀嚼する。
「いま、目がさめたの」
「うん」
「わたくし、さいきんすぐねむくなるの」
「うん」
「起きるとみんな、ホッとしてるの」
「うん」
「どこもいたくないし、なにも苦しくないのに」
「うん」
「みんな、わたくしを、心配してるの」
「うん」
フィリップが短い相槌だけを返す。それに答えてアデライドも淡々と、話を続けていく。
「わたくしが、起きていられないから、みんなに心配をさせてしまうの」
「うん」
「いっぱい、いろんな人が、来てくれるの」
「うん」
「でも、みんな、知らないひとなの」
「うん」
「…あなたのことも、わたくしは、知らないの」
見上げてきたアデライドの瞳が揺れている。ふいっと目を逸らしたフィリップの、その目線は窓の外に向けられた。
「ここからは花がたくさん見えるね」
「…はい」
月とガス灯の明かりだけでは捉えられないはずの花々の姿を、まるですべて見えているかのようにフィリップが呟く。
「君の部屋からは見えなかったのに」
続いた言葉に、アデライドが目を見開く。視界にかかる眠気のベールを、まるですっかりと引き剥がそうとするように。
「なぜ、知っているの?」
「君が教えてくれた。春に咲く綺麗な花が、君の部屋の窓からは見えにくくて、毎年残念に思っていたって」
アデライドが10歳の時、ダニエルの起こした事件後に彼女の部屋は今の場所へと移された。新しい壁紙が貼られ、ぬいぐるみとそのための手作りの家具があり、窓からはアデライドの好きな紫色の花がよく見えるこの部屋は、彼女に対する思いやりを目に見える形で現していた。それは疑いようもない、大勢の人々からの愛情の証だった。
「わたくしは、しらないの。みんなが心配して、起きてほしいのは、わたくしじゃないの」
俯いてギュウっとブランケットを握り込んだアデライドが、6歳の自分と12歳の彼女の差に、苦しみに近い感情を覚えていることは、傍観者の目にも明らかだった。ジャンは観客席から、救いを求めるように舞台上の王子様を見つめた。
「今の君と、12歳の君は、違う道を選んでる。ある意味では、違う存在なのかもしれないね」
観客の期待を大いに裏切るセリフを、王子様は吐き出した。でも観客は、彼が本物の王子様ではないことを知っていたから、歯がゆいとは思ってもそこまで落胆はしなかった。
だがしかし、観客がネタバレ情報を掴んでいても、ここで幕が下りる訳ではない。偽物の王子様は、まがい物のお姫様に、筋違いな脚本に則ったセリフを伝える。
「君が本当の気持ちを言ってくれたから、俺も本当のことを言うね」
「はい」
「俺は君の友達だよ。だけど最初に会ったのは、今の君じゃなくて、18歳の君なんだ」
「…はい?」
キョトンと見上げてくるアデライドの、疑問にまんまるになった瞳をまるで気にも留めていない様子で、フィリップはひとり話し続ける。
「18歳の君は、とても綺麗だった。見た目もそうだけど、心の中もね。俺は君と、色んなことをたくさん話したんだ」
「マァ…」
「その次に会ったのは9歳の君。俺は久しぶりに会えたのが嬉しすぎて、何を話したのか覚えてないくらいに浮かれてた」
「マァ」
「その次は11歳の君。君のお誕生日を祝えたのは初めてだったから、すごく嬉しかった。君は色んな人に囲まれて笑っていて、とても眩しかった」
「マァ…」
ひとりで楽しそうに続けるフィリップの話を、アデライドは他所ごとのように聞いている。そんな今まさに観客席に降りようとしているお姫様の手を、王子様はふわりと包み込んだ。
「そして今、6歳の君に会えた。寂しいのに、周りのみんなを心配して本当の気持ちを言えない、そんな優しい君だ」
舞台上に引き戻されたお姫様が、王子様を見つめる。二人の黒い瞳に、互いの姿だけが映り込む。
「いつの、何歳の、どの君も、俺は大好きなんだって、今の君が俺に教えてくれた。いつだって君は、俺だけの大事な薔薇の花だ」
ただ一人の観客は、軌道修正した脚本にホッと胸を撫で下ろした。王子様とお姫様の物語では、観客はハッピーエンドを望んでいる。それは当の本人も同じで、王子様はただお姫様の幸せのためだけに舞台へ上がったのだ。
「だから…このまま君が眠ってしまわないように、俺に魔法を使わせて欲しいんだ」
「まほう…?」
「そう、俺だけが使える、君だけのための魔法だ。これを使えば君を眠りの世界から救い出せるよ。でも…」
「でも?」と続きを促すアデライドの顔は落ち着いていた。まるで何を言われるかをわかっているかのように。
「次に目が覚めたとき、君は12歳の君だ」
6歳のアデライドにとっての終わりを告げる言葉に、彼女の肩が震えた。それが正解だと、わかっていても辛く寂しい。そう思う彼女を、細い腕が抱きしめた。
「大丈夫。いつでも会えるから。アディと私は、繋がっているから。時間も国も飛び越えて会いに行くよ」
アデライドの耳にだけ届くように小さく呟かれた言葉が、気休めでもお為ごかしでもない、本当の気持ちなのだと、彼女の心に響いて広がった。それは温もりとなって伝わり、涙を溢れさせた。
フィリップは自分の胸元に広がる涙の温度を感じながら、今この世界では彼女にだけ使える呪文を唱えた。
「ぶるわぁぁああ〜…」
「じじむさいですねぇ.大丈夫ですかぁ⤵︎」
「だいじょばない〜」
お姫様に魔法をかけて再び寝かしつけた王子様は、しかし自分に掛けた魔法は消しとばしてしまったようで、ふらふらと足元がおぼつかない。だが仕方なく抱き上げたジャンに「抱っこよりおんぶがいいですぅ」と文句を言う程度の気力は残していた。
「あのぉ〜…」
「一時凌ぎ」
「は?」
ジャンの機先を制するように、フィリップが彼の疑問に答えているようで、そうでもない言葉を吐き出す。
「アレで解決した訳じゃない…一時的に抑え込んでるだけだから。そう言っといて」
「誰にですか?」
重ねられた疑問に、いくらかの言葉と感情を呑み込むようにしてからフィリップが答える。
「クソ野郎に」
「ああ」
これで通じる程度には、ジャンはこの王子様を理解していた。でもいつだって確認は大事だと、彼は大きな声を出す。
「ランベール・ド・ロワイエ卿ですネェ!」
本当にすっかり体力を失っている王子からは、「チクショウめ」と彼らしい肯定の言葉が帰ってきた。どうやら気力もすっかり失い始めた王子様に、ジャンは言葉を選んで声をかける。
「ところで、フィリップ殿下。さっき言っていたことで思ったんですけどぉ…算数苦手なんですかぁ!?」
「オォン?」
「最初に会ったのが18歳って、計算合わないですよネェ!」
「ああ、そういう感ソー…」
「大丈夫ですヨォ⤴︎!多少の計算違いがあっても、お嬢様にはちゃあんと伝わってますよぉ!殿下の損得勘定抜きの、純情な友情が!!」
「うっせ!あらゆる意味でうるせえし!夜中だぞ!」
大音量で掻き鳴らされる、打算はないが上手い事は言いたいという欲は感じるフォローに、フィリップが噛み付いていると、後ろからもノンデリが生えた。
「なんですか!こんな夜中にどうしたんですか二人で!」
「ウワァ!ノンデリが仲間を呼んだ!」
「ポールさん、もう交代時間ですかぁ!あ、お嬢様ですけど!フィリップ殿下が魔法を掛けたので、明日は起きるそうです!でもちょっと計算違いがあると不安なので、パメラさんにも伝えてください!」
「何て伝えますか!」
「えっと、殿下がお嬢様に”君は俺の大事な薔薇だ“とか言ってましたヨォって!」
「申し送りのテイでイジるのやめろ!!」
ノンデリにサンドされて困窮していたフィリップを、ニコラとクリストハルトが迎えに来たのはそれからすぐのことであった。
抱えていたフィリップを、ニコラへ手渡すのに躊躇いを感じたジャンの気持ちを汲んだかのように、クリストハルトは組み立て式の台車を持ってきていた。
かくして月夜の王子様は、つぶさに地面の凹凸を拾って揺れる台車に乗せられて去っていった。だが割とすぐに、荷台からこぼれ落ちた挙句に台車に轢かれて、結局ニコラが背負って帰っていったとか、そういうちょっと不名誉な事実をアデライドが知る未来が訪れるかは、まだわからない。
未来はいくつもの選択肢を残していて、王子様とお姫様の物語はまだまだこれからなのだから。




