11.降りしきる雨の中で
この勝負で勝敗が決まるからか。陸上部の新旧エース対決となったからか。
かつて無い程に場は盛り上がり、運動場には喧しいくらいに声援が飛び交っていた。
誰もが手に汗を握る状況であって、興奮が冷めやらぬ状態であったが、一つのアクシデントでその賑わいが嘘であったかのようにシンと静まり返ってしまった。
「亮平……っ!!」
沈黙を破ったのは颯太で、先程まで全速力で走っていた筈の彼は足を止めて叫び、来た道を引き返す。
彼が駆け寄った先には一人の生徒が、亮平が倒れていた。
「おい、どうしたんだ!?」
「……っく。に……ろ……っ」
亮平はこれまで通り、誰も寄せ付けない走りをしており、颯太も付いて行くのがやっとといった様子で追い抜けずにいた。
だが、残りあと僅かという所で急に亮平のペースが落ちてしまい、そして彼は倒れ込んでしまったのだ。
つまずいたり誰かと接触しての転倒ではなく、亮平は苦しむようにして倒れたようで、頭を両手で押さえて呻き声を上げている。
あまりに突然の事で颯太以外の走者も走るのを止めてしまい、応援席に居た他の生徒達も息を呑んでいたが、事の重大さに気が付き騒めき出す。
実況席に居て、つい先程まで熱の入った実況をしていた生徒も驚き声を上げ、救急車をと叫びかけるが、そこでまた新たな異変が起きた。
「こ、これは……。わわわ……っ!! 何ですか……!?」
いつの間に広がったのか。空は黒く分厚い雲に覆われており、そこから大粒の雨が地上に降り注ぐ。
ただの雨ならば観覧席に建てられたテントで凌げるが、降り出した雨は横殴りに、強い風を伴う豪雨で、まるで南国特有のスコールのようであって、テントでどうにかなるようなものではなかった。
突然の雨に場は騒然とし、更に会場を脅かすように黒雲からは雷鳴が鳴り響く。
次々と起こる不可思議な出来事に収拾がつかなくなりつつあったが、実況席でマイクを手にした者の一声により、皆は落ち着きを取り戻す。
「体育祭は雷雨により一時中断とします。生徒の皆さんは各クラスの担任の指示に従い、体育館へと移動をお願いします」
落ち着いた声で指示を出したのは生徒会長である姫条玲緒奈であった。
彼女は教師よりも平静を保っており、素早く状況を判断して校長に進言し、了解を得てから指示を下す。
玲緒奈の呼びかけに応じて教師達は生徒の誘導を、生徒達は指示に従い体育館へと向かう。
倒れた亮平の元へは養護教諭であるルイーザが駆け寄り、颯太と海人を除いた他の走者は皆と共に避難した。
「ここは私と彼に任せて、アナタも早く避難しなさい」
「いや、でも……。俺も力に――――」
ルイーザはこの状況に心当たりがあるようで、海人に目配せをしながら人払いを試みるが、颯太だけは亮平の身を案じて傍を離れようとしなかった。
亮平の様子に異変を察知した海人もこの場に駆けつけており、ルイーザの合図を汲んで颯太を避難させようとする。
「伊井田。先生の言う通り、ここは俺に任せて――――」
海人が感じていた妙な気配は気のせいなどでは無く、確かなものへ。
彼は背後から発せられた異様な気を感じ取り、すぐさま振り向く。
そこに居るのは先程まで倒れていた亮平であったが、彼は彼ではなくなっていた。
「亮平……っ、お前……――――」
頭を抱えて苦しんでいた彼は苦痛から解放されようで、今では自力で起き上がっているものの、その立ち姿は普通のものではなかった。
地面に着くのは両足だけでなく両手もであって、前屈みで腰を上げて四つん這いに、まるで威嚇する獣のようである。
「な、何なんだよこれ?! どうしたんだ、亮平……っ!!」
目を光らせて低く唸るなど、獣じみた様子の亮平に対し、颯太は臆しながらも必死に呼び掛ける。
けれども彼の想いは伝わらないどころか、声すらも届かないようで、亮平は牙を剥き出すようにして敵意を向けており、本当の獣になってしまったようだ。
「亮へ――――」
「危ない……っ!!」
諦めず名を呼び続け、正気を取り戻そうとしていた颯太に対し、獣の姿の亮平は飛びかかり噛付こうとする。
一撃目は海人が颯太を押し倒した事で避けられたが、亮平は間を置かずに地を蹴り出して再び襲い掛かった。
「りゅ、竜堂……っ!?」
避け切ることが出来ないと判断した海人は右腕を犠牲に、噛付こうとする亮平に右腕を差し出すようにして身を庇う。
目論見通り、亮平は海人の右腕に噛付いたが、傷を負う事はなかった。
それは海人の腕が蒼色の篭手で守られているからである。
「竜堂……っ!? そ、その腕は……、一体……」
「ルイーザ先生! 伊井田の事を頼みます!」
「た、頼みますって言われても……。まぁ、仕方がないわね」
この状況では隠し通す事が出来ない。
驚き目を見開く颯太の前で、海人は躊躇わず魔導装具を全身に纏う。
こちらの世界の者に対して危害を加えられないルイーザは戦うことが出来ない為、彼女に颯太の事を任せ、海人は襲い掛かる獣に立ち向かった。
「さぁ、アナタは早くこっちに――――」
「いやでも……。亮平が……っ、竜堂もあんな格好で何を……」
「あぁ、もう! 良いから黙って従いなさい!」
気絶させてしまえば楽なのだが、今のルイーザは颯太に対しても手を出せない。
亮平の身を案じてこの場に留まろうとする颯太の腕を強引に引く事しか出来ずにいたが、彼女の元へ頼りになる援軍が現れた。
「ル、ルイーザ先生!」
「アナタは……、アイントールの……!」
手を拱いていたルイーザの元へと駆けつけたのは、アレイシヤであった。
突然の豪雨によって中断された体育祭。
生徒達は雨で濡れた髪や顔をタオルで拭いたり、体操着の端をねじって絞ったりしながら体育館へと移動していた。
全校生徒が一か所に向かっているせいか、人の流れはゆっくりである。
言葉通りに、盛り上がっていた所に水を差され、皆の空気はどんよりとしたものに。足取りも重いようであったが、打ち付ける雨の勢いを見ていれば仕方がないと諦めざるを得ないようであった。
生徒達は愚痴を溢しつつも教師の指示に従い、流れに沿って歩いていたが、その中で止まる者達が。
真帆と桃子と犬飼は人波に流されず、脇に逸れて集まり状況確認をしていた。
「ちょっとちょっと! これってどういうことなのよ!? 海人君はどうなったの!」
海人の事を心配している桃子は取り乱しながら問い掛ける。
大声を上げて周りに気付かれ、大事になってはならないと思った真帆は桃子の口を手で塞いで言い聞かせた。
「海人の所にはアーシャちゃんが向かったわ」
「だ、だったら私も――――」
「皆で行ったら怪しまれるでしょう! ここはアーシャちゃんに任せた方が――――」
真帆が危惧した通りに。
端の方でコソコソと話していた筈だが、真帆達は担任に見つかり注意をされてしまう。
まだ納得がいかないといった風に、人の流れに逆らおうとする桃子の肩をがっしりと掴んだ真帆は列に戻ろうとするも、担任に呼び止められてしまった。
「おい占部。竜堂と転校生はどうした?」
「海人とアーシャ……、アレイシヤさんは伊井田君と一緒に……。赤星君に付き添って保健室に向かったみたいです」
「ああ、あの倒れた生徒か。まぁ、心配な気持ちはわかるが、お前達は体育館に行くように」
「はい。分かりました」
真帆がどうにか誤魔化して対応している間に桃子は何やら企んでいるようで、犬飼に耳打ちをしている。
担任から解放されたところで三人は列に戻るのかと思われたが、犬飼と桃子は声を上げて立ち止まった。
「い、犬飼君……っ。大丈夫!?」
腹の辺りを抑えてしゃがみ込む犬飼。そしてそんな彼を気遣う桃子。
一見すると犬飼が体調を崩したように見えるが、桃子の声は上ずったもので、演技だというのが丸分かりだ。
何をやっているのかと真帆は呆れるが、担任はすっかりと騙されているようで、犬飼の身を案じた。
「お、おい。大丈夫か?」
「せ、先生! 多分犬飼君も猿渡君達と同じものを食べていたから体調が悪くなったようです! だから私達、彼を保健室に連れて行きますね」
犬飼は桃子特製の殺人サンドウィッチを口にはしていない。
けれども担任はその事を知らず、猿渡と雉岡の病状を知っている為、桃子の説明を信じ切ってしまった。
「よし。それなら自分が付き添おう」
「え!?」
「犬飼くらいのガタイだと、お前達が支えるのは無理があるだろう?」
「そ、そんな事はないよね! 真帆ちゃん」
「え、あー……」
大きな目をバチバチとしばたたかせて合図を送る桃子。
ここは彼女に合わせておかなければ後々面倒だと真帆は判断し、担任に断りを入れた。
「先生。先生は体育館で点呼を取らなければならないですよね。それに、その後も先生方で集まって今後どうするのかを話し合うでしょうし……」
「そ、そうだな……。分かった。犬飼の事は任せたぞ。それからついでに、猿渡と雉岡の体調が良さそうだったら、一緒に体育館へ来るように」
「分かりました」
教師達からの信頼が厚い真帆の言う事であって、担任教師も特に疑問を抱かず納得し、許可を出した。
桃子と真帆は犬飼を両脇から支えるようにして列から離れ、保健室に向かう。
病人に付き添うという形なので真っ直ぐな廊下はゆっくりと歩き、曲がり角を曲がった途端に演技は終わる。
担任や他の生徒の目が届かない場所で、真帆は大きな溜息を吐いて桃子を咎めた。
「桃子。貴女一体何を考えて――」
「決まっているでしょう! 海人君を助けなきゃ!」
「……。犬飼君も、ハイハイ従っていないで何とか言いなさいよ」
「お、俺も。心配だから……」
「真帆ちゃんは海人君がどうなっても良いの?」
「何よそれ。私だって心配していない訳じゃないのよ。ただ今は――」
「だったら! 助けに行かないと!」
こうと決めた桃子が素直に忠告を受け入れるような人物でない事は百も承知であって。
結局の所、真帆は海人を助けるんだと意気込む桃子の後を追いかけるしか選択肢が無かった。
危機的状況に駆けつけたアレイシヤは小柄であって、見た目はか弱い少女で。
とても頼りには出来なさそうであったが、彼女は状況を素早く把握して、杖型の魔導装具を手にする。
彼女が手にした杖は眠りに誘う魔法を行使できるものであって、それにより颯太は深い眠りへと落ちて抵抗を止めた。
「先生。後はお願いします」
「分かったわ。でも、アナタはどうするつもりなの?」
「わ、私も……、戦います……!」
別の魔導装具に持ち替えたアレイシヤ。
彼女は海人と共に戦うと告げたが、目の前で繰り広げられている戦いに易々と割り入る事は出来ないでいた。
「カイトさん……っ!」
「……っ! アーシャ、下がっていてくれ!」
亮平と、と言うよりも、四足歩行の獣の対峙している海人。
これまで彼が戦ってきた相手が人ばかりであったせいか、獣相手では立ち回りにくいようで、後手に回っている。
亮平は完全に正気を失っているようだが、その原因が分からないのも手が出しにくい理由だろう。
身のこなしは獣のようであるが、耐久力は推し量れず、どれだけの力を加えればよいのか分からない海人は攻撃を受けるしかなかった。
「……あの姿。この気配……。やはり……」
亮平の様子を見てひとつの結論に至ったアレイシヤは、意識を集中させてあるモノの場所を探る。
素早く動く対象に翻弄され、絶えず打ち付ける雨に阻まれながらも注力するが、そんな彼女を嘲笑うかのようにして邪魔が入った。
「アーシャ……っ!!」
「……っ!?」
獣の本能で弱いものを見極めて仕留めようとしているのか、アレイシヤが棒立ちで格好の獲物に見えたのか。
繰り返し海人に飛びかかっていた亮平は急に攻撃対象を変え、アレイシヤに危害を加えようとする。
獣の瞬発力は凄まじいもので、ある程度距離を取っていたにもかかわらず、あっという間に距離を詰められてしまう。
アレイシヤは咄嗟に障壁魔法を展開させようとしたが、間に合わせられなかった。
「カ、カイトさん……!?」
「ハァ……。危なかったな……」
安堵の溜息を漏らす海人。
彼は今、アレイシヤの小柄な身体を抱えて高く飛んでいる。
亮平は獣のような身体能力を発揮しており、競技中に見せた走りよりも素早さが高くなっているようだが、魔導装具の鎧を纏った海人の素早さが上回っているようだ。
「怪我はないか、アーシャ」
「は、はい……。ありがとうございます」
「ここは危険だ。後は俺に任せて――――」
「待って下さい……っ!」
海人はアレイシヤを抱えたまま、敵を引きつけては飛び退くのを繰り返している。
それは獣が他の場所へ行かないようにする為なのだが、何時までもこのままという訳にはいかない。
雨が止めば生徒達が戻ってくる可能性もあるが、海人の力も無限ではなく有限であって、どうにか亮平の正気を取り戻す方法を見つけ出して実行しなければならなかった。
「アーシャ。あいつは誰かに操られているのか?」
「いいえ、違います。彼の意識が乗っ取られているというのには違いないですが、操る者は居ません」
「それじゃ、どうすれば……」
「もう少し時間を……っ、それか、もっと傍に行けたら……」
「近くに行けば分かるのか!?」
「は、はい……っ!」
辺りを見回した海人は安全な場所を見定めた後、敵を引きつけながら向かう。
彼が行き着いた先は部活棟で、屋根の上なら獣も飛びかかれないようで、唸りながら壁を引っ掻いている。
「カイトさん……っ。どうするつもりですか?」
「あいつを取り押さえる。そうすればアーシャ、後は頼めるよな?」
「ま、任せて下さい……!」
グッと手を握って頷いたアレイシヤ。
どもっている辺り、まだ不安要素があるように見える。
彼女を不安にさせまいと思った海人は深く頷き返し、親指を立てて心配ないと合図して屋根から飛び降りた。
「頼むから、大人しくしてくれよ」
言葉の通じぬ獣に対し、無駄だと分かっていながら海人は語り掛ける。
そして彼は逃げ回るのを止め、地を蹴り出して向かって行った。




