1.どんよりとした教室
どんよりと曇った空から地上へと落ちる雨粒。
無数に降り注ぐそれは窓を打ち付け、外の景色を滲ませる。
月を跨いで六月に。梅雨入りが近いらしく、雨の日が増えてきた頃。
一日の授業が終わり、掃除も通常通りのHRも済ませた放課後。海人達のクラス全員は教室内に留まっていた。
皆が傘を忘れて雨が止むのを待っている訳ではない。
それぞれ席に着き、クラス委員の二人は教卓の前に立っており、教室内は重苦しい空気が流れている。
クラス委員が背にした黒板には運動競技名とクラスメイトの名が記されているが、空欄が目立つ様だ。
「おーい、お前ら。早く決めないと何時まで経っても帰れないぞ」
椅子に深く腰をかけて、他人事のように煽り立てるのは中年男性の担任教師であった。
今現在海人のクラスでは、二週間後に開催される体育祭の出場種目を決めている。
一人最低一つは選択しなければならないのだが、高校生ともなると体育祭などやってはいられないと、皆は楽をする方を選んでしまうのだろう。
楽そうな競技は希望者が多く、逆に体力的に辛そうな競技は希望者が現れない。
中々話が進まず、窓の外と同じようにどんよりとしていた空気が教室内に漂う中、猿渡は前に進み出て空欄に名前を埋めていった。
「取り敢えず、これで良いだろう」
猿渡が書き込んだことにより、空欄はかなり減ったようだが、彼は自分の名前を書いた訳ではなかった。
彼が書いたのは他の者の名であって、その名を見た真帆は手を挙げて抗議した。
「ちょっと猿渡君。貴方一体何を勝手にやって――――」
「いやいや、これで良いだろう? 去年もこんな感じだったし。なぁ、海人」
「……ん? 何がだ?」
「海人。貴方、またぼうっとして……」
心ここに在らずといったようで、海人は自分が話題にあがっているとも気が付かず、真帆に指摘されてようやく状況を理解したようだ。
「ほとんどの競技に貴方の名前が書かれているのよ。勝手な事されていて良いの?」
「あ、ああ。俺なら別に構わないよ」
「ほら、言った通りだろう? あとはもうくじ引きにでもして――――」
「ちょっと待ちなさい! ほら、こことここ、続けて出るのは無理に決まっているでしょう」
真帆は前に進み出て黒板を指さして指摘する。
クラス委員を押しのけて猿渡と真帆は口論を始め、ますますとややこしい事態に転がりつつあったが、そこでようやく担任教師が重い腰を上げた。
「あー……、お前達。確かに文化祭と違って体育祭はしんどいばかりで詰まらんかもしれんが、高校生活も後二年であって――――」
青春がどうたらと青臭い事を語る教師だが、普段から締まりのない表情でだらしがない中年男性に言われても全く心に響かない。
困った様子の担任はどうすればやる気になるかと問い掛けるが、生徒からの要望は単純であった。
「クラスで優勝したらラーメン奢りで!」
「えぇ!? ラーメンよりも焼肉だろう?」
「そんなガッツリしたものじゃなくてアイスでもいいよ~。但し31かハゲダツでね」
これまでのお通夜状態はどこへ行ったのか。生徒は口々に自分が食べたいものを挙げていく。
ご褒美があるなら積極的に参加するという実に現金な態度に担任は説教を始めるかと思いきや、深い溜息と共に現実を示した。
「残念ながらそういった行為はNGだ。職員会議でも話題に出たが、以前それをやったクラスがあって、他のクラスの親御さんからクレームが入った。一昔前なら普通にあったんだがなぁ……。いや~、俺としてもお前らの頑張りに応えたい所だが、今はクラスの垣根を越えて平等に扱わなくてはならんしなぁ~」
奢る気はあるというのが担任の本心かどうかはさておき、世知辛い世の中であるという事は皆が実感したらしく、盛り上がりを見せた教室はまたもやどん底に落ちる。
担任はこうなる事を見越していたのか、どんよりと暗くなった教室に嘆くことは無く、どこからかともなくノートを数冊取り出して皆に見せた。
それはこのクラスの誰かが提出した課題ではなく、やや年季が入った、よく使い込まれていてくたびれた感が出ている。
「おぉ! ここに在るのは昨年T大に合格した生徒が使っていた試験対策ノートじゃないか。ふむふむ。内容も今とあんまり変わらないようだな~」
手にしたノートをパラパラと捲り、担任は棒読みで中身を説明する。
T大といえば難関大学であって、そこへの道は限りなく狭い。
海人達の通う高校は進学校ではない為、T大を目指している人が多いわけではない。
それでもT大合格という名の付加価値は高く、中間や期末試験を楽にしたいと思う者にとっては魅力的の様だ。
「はいはいは~い! 先生。私達が頑張ればそのノートを貸してくれるんですか!?」
元気良く手を挙げて質問したのは、勉強とは無縁そうだと思われる桃子であった。
勉強よりも流行りものを追いかけたり、美容などの自分を磨くことに熱心である彼女が何故ノートを欲しがるのかというと、それは前回の中間試験に原因があった。
六日前に行われた中間試験。
今回は赤点を取ると部活動を禁止されるとあって、赤点常習者の海人は皆の助けを借りて死に物狂いで試験勉強に励んだ。
皆の助けがあったからか、海人自身の努力によってか。
海人は赤点ラインをギリギリ上回り、何とか補習を受けずに済み、部活動も禁止されずに済んだ。
真帆や雉岡のように高得点が当たり前な優秀組は当然として今回も学年上位に、猿渡と犬飼も何とか赤点を免れ、アレイシヤも平均以上を取るなど、皆の頑張りが結果として現れたかのようであった。
皆が予想以上の成績で喜ぶ中、たった一人、答案用紙を握りしめて顔を青ざめさせている者が居た。
「何で私だけこうなるのよーーーーっ!!!」
教室内で絶叫し、皆を驚かせたのは桃子であった。
彼女は自分の勉強よりも海人の勉強にかまけてばかりいたせいか、一教科だけだが赤点を取ってしまい、補習を受けさせられて部活動禁止となってしまった。
「普通、一緒に勉強していたらその分自分の身にもなると思うのだけれどね……」
「これは何かの陰謀よ! 私がこんな点数なワケ――――あ……っ」
赤点の理由は途中から回答欄がズレていたという凡ミスで、補習は一発合格であった。
けれどもたった一人だけ補習で、いつもなら口喧嘩で優位に立っている筈の桃子が真帆から憐れまれてしまうという事もあり、その時の屈辱が忘れられないのだろう。
次こそは失態を犯さないと、今度は海人に頼られる学力を手に入れようと桃子は躍起になっており、その姿を見ていた真帆は深い溜息を吐いていた。
「おお、中々の食いつきっぷりだな」
試験を楽にしたいという思いは皆同じようで、更にはT大とまではいかなくとも、良い大学を狙っている者も居て、更にはクラスのアイドル的存在である桃子が乗り気であるならと、教室内はなかなかの盛り上がりを見せている。
計画通りだと担任はニヤつくが、真帆は冷静に、水を差すよう問いかけた。
「食べ物を奢るのは駄目で、試験に有利な物を渡すのは良いのですか?」
「金銭が絡んでいなけりゃ問題ないと思うが、そうだな……。うっかりと落としてしまったのなら仕方がないよなぁ~」
「…………はぁ」
これで交渉は成立だと、クラスの方向性は一転した。
皆積極的に出場種目を選び出し、勝つための手段を取り始める。
体格、運動能力、ペアの相性など、皆が適任の種目を選ぶ中、やはり運動神経がずば抜けて優れている海人はどうしても欠かせない存在のようで、出来る限りの出場を望まれた。
クラスが一丸になった所を邪魔するのも悪いと感じたのか、真帆は前に出てきた桃子と入れ替わるように自分の席に戻り、海人へと声を掛けた。
「ちょっと、海人。本当に良いの?」
「大丈夫だって。あれくらいなら平気だよ」
「そうは言っても、もしもの時は――――」
何かを言い掛けた真帆はハッとして言葉を濁す。
彼女が何を言い掛けたのか海人は聞き返そうとするが、その瞬間、離れた席でどよめきが起きた。
何事かと視線を動かした先、そこには一人の男子生徒が居て、彼の席の前には桃子が腰に手を当てて立っている。
話を聞いていなかった海人は席が近い猿渡に状況を聞き出した。
「ほら、颯太って陸上部だろ? それが何でか陸上競技を避けているからさ、桃子嬢が直々にお願いをしたんだ。それなのにアイツ、断ったみたいだぞ」
海人のクラスメイトである伊井田颯太は陸上部所属で、彼は長距離走を得意としており、一年生の時から駅伝のメンバーに選ばれたり大学の推薦の話も来ているなど、陸上部のエースと呼ばれる程であった。
陸上部の部員が陸上競技に出場してはならないというルールはない。
だが颯太はどの陸上競技も自分から進んで選ぶこともなく、他薦されても断っていた。
「ねぇ、颯太君。どうしてもダメなのかな?」
桃子は男を落とす時の必殺技、瞳を潤ませて上目遣いでお願いのポーズを取っているが、効き目はないようだ。
正確に言えば颯太の視線は一点に釘付けに、桃子が手を胸の前で組んだことにより出来上がった谷間に注がれていたが、どうしても譲れないようで何とか耐えていた。
皆がやる気を出し始めていた所で起きた思いもよらないつまずき。
表立って責める者は居ないが、教室内の空気が変わり始めたのに海人は気が付き、席を立った。
「伊井田。もしかして体調が良くないのか?」
「いや……、そういう訳じゃないけど……」
「そうか……。でも、陸上部のエースなら、怪我をする訳にはいかないよな?」
「そ、それは……」
将来を有望視される身であって、この先にも数々の大会が控えている。
大会で怪我をするならまだしも、こんな所で無茶はさせられないと、海人は颯太を擁護していると、それに乗っかるよう猿渡が言った。
「そういやこの間、他のクラスの陸上部の奴が体育の時間のサッカーで足を痛めたとか聞いたな」
「……」
猿渡の言葉に颯太は俯いて押し黙る。
身近なところで怪我をする者が現れた事によって、自分も怪我に対して不安になるのは当然だろう。
海人と猿渡の言葉で皆は納得しかけ、更には桃子も海人に同意する事によって、颯太は陸上競技の選手から外された。
紆余曲折あったが、黒板に書きだされていた出場種目の空欄がすべて埋まり、海人達は延長したHRから解放された。
外は相も変わらず悪天候。雨の勢いはやや大人しくなったものの、しとしとと降り続けている。
こうも天気が悪ければ野外活動が多い海人達の部活動も行えないようであるが、それ以前に海人は部活動を行う気は無い様だ。
彼は桃子からの放課後デートの誘いを断り、猿渡達が桃子を宥めている間に教室を出て家路を急ぐ。
帰宅して早々、海人は自室に戻り、机の上に置かれている手のひらサイズの装飾が施された水晶を手に取った。
「――――今日も連絡はなし、か」
それは魔導具の一種で、離れている者と連絡を取れる通信機のようなものであったが、海人が期待していた連絡は届いていないようであった。
譲司とマルリースがシュトラルヴェルトへと旅立って五日が過ぎた。
五日程度ならと普通は考えるだろうが、シュトラルヴェルトとこちらの世界では時の流れが違うようで、およそ10倍の差がある。
つまり譲司達が旅立ってから50日も経っており、その間に連絡はこの世界から離れる前の一度以来、入ってきていないのであった。
「カイトさん……」
海人を気遣って声を掛けたアレイシヤ。
彼女も不安であるだろうが、それを気取らせないよう押し込めており、それでも彼女は時折ぼうっとしていたり表情を曇らせていたりと、憂いを顔に出してしまっていた。
「まぁ、便りが無いのは元気な証拠っていう言葉もあるからな。きっとだいじょうぶだろう」
「そう……、ですね」
「第一、あのクソ親父がそう簡単にくたばる訳ないって」
アレイシヤを不安にさせたくはないと、海人は気持ちを切り替えて笑顔で答える。
その笑みもぎこちないものであったが、海人の気持ちは伝わったようで、アレイシヤも口元を綻ばせた。
「さてと、クソ親父が戻ってくるまでに俺はしっかりと力をつけておかないとな」
「え……。あ、えっと……、今日も、ですか?」
「ああ。何度だってやってやる」
「で、でも、今日は帰宅するのが遅かったですし、課題も多く出ていますし……」
「一回くらいなら大丈夫だろう」
「そう……かも、ですが……。あまり無茶はなさらないでくださいね」
「そこまで心配いらないさ。大丈夫だって」
制服を脱いだ海人は動きやすい服装、ジャージに着替える。
着替えが終わった所で向かう先は離れである道場で、そこには一人の男が目を瞑り正座をしていた。
その者は歳を重ねているが年相応に見えない逞しい身体つきに武骨な手であって、険しい顔つきは何人をも近づけないような威圧感を放っている。
「今日も稽古を頼めるか?」
「…………」
無言のまま立ち上がった男は海人の頼みを受け入れるようで、彼と程よい距離を取って構えを取った。
海人の前に立つ男。彼の名はガイラルド・ヴァルムヴェントという名で、シュトラルヴェルトの主要国、グランツドラッヘン王国の全ての騎士団を纏める立場である第一騎士団長であり、先の戦いにおいて海人達を窮地に追い込んだかつての敵であった。




