1.子どもの頃の思い出
今より目線が低く、見上げるばかりであった子どもの頃。
テレビの中のヒーローに憧れて、自分も誰かを救いたいと、幼い身体で駆けまわっていた海人。
毎日泥にまみれて帰るのはその年頃の少年達と同じようであったが、陽が沈んで自宅に帰り、玄関に足を踏み入れるのは毎度のことながら緊張するのだろう。
海人が何度か引き手へと手を伸ばし、何度も引っ込め躊躇っていた所で戸が音を立てて開かれた。
「カイトったら……。またこんなに汚しちゃって……」
「…………ごめんなさい」
出迎えた海人の母親、マルリースは深い溜息を吐いている。
小さい身でも罪悪感はあるようで、海人は母親と目を合わせないまま俯いて謝っていた。
マルリースはまた服を汚してしまった事を怒っているのか、それとも何度言い聞かせても言う事を聞かないで悲しんでいるのか。
いずれにせよ海人は目を合わせるのが怖く感じており、じっと下を、土塗れになった靴を見つめている事しか出来ないでいた。
「おいおい、マリー。お説教はそのくらいにしたらどうだ?」
「ジョージ……!」
二人の間に割って入ったのは海人の父、譲司で、彼はへらへらと笑いながら海人の肩を持つ。
譲司は男の子ならばこれが普通なのだと、反省もしているようだから許してあげようと言い、この場を丸く収めようとしている。
彼にここまで言われては仕方がないと思ったのか、マルリースは肩を落として溜息を吐くと海人の目線に合わせるようしゃがみ込む。
「怪我は……、無いようね」
「……うん」
「お母さんが怒っているのは何故だか分かる?」
「……いっぱい、服を……汚したから?」
「まぁそれもあるけどね。服は洗えば何とかなるのよ。だけど――――」
マルリースは海人の服に付いていた泥や草を叩き落とし、そっと優しく包み込むように抱きしめる。
「だけどカイトの身体は傷ついても直ぐには治せないでしょう? ……ううん。それどころか取り返しのつかないことだってあるかもしれない……。それがお母さんにとって一番心配な事で、だから言いつけを守らないカイトに怒っているの」
「……ご、ごめん……なさい」
年上が相手であっても、大きく凶暴そうな犬が相手でも、決して怯むことなく立ち向かっていた海人だが、母親の想いを受け止めれば抑えきれなくなったのだろう。
海人は母の胸元で声を震わせて、年相応の子どもらしく泣き出した。
「さぁ、夕飯はもうすぐだから、それまでにお風呂を済ませなきゃね」
「う……、ぐすっ……、うん……っ」
これで海人はマルリースの言いつけを守るように……とはならないのだが、一先ずは落ち着いたようで、海人はマルリースに手を引かれながら敷居を跨ぐ。
二人の様子を見守っていた譲司はやれやれと肩を竦めさせると、二人の後に続いて家の中に入ろうとする。
けれども何故だか戸は彼の鼻先でピシャリと閉ざされ、更にはガチャリと鍵を閉められてしまい、彼は閉め出された形となった。
「ん? どうしたんだ、マリー。海人もちゃんと反省しているようだし、何も問題は――――」
「そうね。カイトは反省しているようだけど、アナタはどうなのかしら?」
「んー……。話が見えてこないが、俺が何かしたのか?」
扉越しでも怒りのオーラは感じ取れるのか、暢気に答えていた譲司はピシッと姿勢を正して頭を下げる。
何かしらやらかしてしまったと自覚はあるようだが、思い当たる節は数多く、何を謝ってよいやら分からないでいるのだろう。
だがその取り敢えず謝っておけば良いという考えは相手の神経を逆なでするだけであった。
「今日ね、電話があったの」
「だ、誰からでしょうか……?」
「女の人からよ」
「えっと、ご用件は……?」
「この間は美味しいご飯を御馳走様でした。また会いたいから連絡を待っているわ。……ですって」
「あー……、それは仕事の関係であって決してやましい間柄では――――」
「そう? 私がアナタの妻だと言ったらとても驚いていらっしゃったようですけど?」
「……」
無言を肯定と捉えたのか、キッチリと反省を済ませるまで敷居は跨がせないとマルリースは言い、彼女は海人の手を引いて玄関から離れて行く。
戸を挟んだ向こう側で譲司は反省の言葉を並べているようだが、マルリースに届く気配はない。
海人はこのまま譲司を放置してよいものかと不安に思い、立ち止まって振り返った。
「か、母さん……、父さんは……」
「カイトは気にしなくて良いのよ。それから、カイトはあんな女性関係にだらしない男になっちゃ駄目よ」
「う……、うん……」
その時マルリースは微笑んでいたが、それは底知れない怒りを含めたものであって、海人は幼いながらも母親には逆らわないように、父のようにはなるまいと誓ったのであった。
幼い頃の、懐かしい夢を見て目覚めた海人。
瞼を開いて真っ先に視界に入ったのは見知った天井で、自分が自室で寝ていた事がすぐに理解できた。
「――――いつの間にウチに……」
目を擦りつつこれまでに何があったのかを思い起こしていたが、そこで鮮明に脳裏に映し出されたのは絶望的な光景である。
突如現れた敵達によってなす術もなく倒れた仲間達。
常に海人達を助けてきたレヂディーノ達も、強敵に対しては全く歯が立たなかった。
「み……、みんなは……っ」
勢いよく起き上がったつもりだが、身体は思うように動かない。
魔導装具の鎧の力を保てなくなる程に消耗したからであって、こうなるのも当然なのだが、このまま暢気に寝ていられる筈もなかった。
這いつくばるようになりながらも身体を起こそうとする海人だが、起き上がりかけたその身は強制的に元の場所へと戻されてしまった。
「駄目よ。まだ寝てなきゃ……」
「な……っ! 何でここに……っ」
海人が身を横たえていた傍に座っていたのは、銀髪を後ろで束ねた蒼い瞳の女性である。
彼女は海人にとってよく知る人物であって、けれどもこんな場所に居る筈がないと疑う様な者であって、海人は目を見開いて呆けていた。
「久しぶりに会えたっていうのに、言う事はそれだけなの?」
「え、いや、ちょっと待ってくれ。何が何だか……、意味が分からないんだ……」
自分が何故ここに居るのかもわからぬうちに更なる驚きに遭遇し、混乱をしている海人。
そんな様子を見ていた銀髪の女性はクスクスと笑い、そして大きく手を広げて思い切り海人の身体を抱きしめた。
「ただいま。カイト」
「お、お帰り……。母さん……」
「んー……。暫く見ないうちに大きくなっちゃって……!」
「……って言っても、正月には帰って来ていただろう? そんなに変わらないよ」
「そうでもないわよ。一段と逞しくなって……、若い頃のジョージを思い出すわ~」
「頼むからそれだけは勘弁してくれ……」
熱烈な抱擁から何とか逃れた海人。
久方ぶりに母親、マルリースとの再会であるにも拘らず、彼は苦虫を噛み潰したかのような表情をしていた。
それは母親を苦手としている訳ではなく、どうやら彼女から告げられた名に思う所があるからのようだ。
「……母さんが戻って来ているって事は、あの人も一緒なのか?」
「こーらっ! 自分のお父さんをあの人呼ばわりするなんて駄目よ」
「あー……、はいはい、……ごめんなさい」
「ハイは一回でよろしい」
「……はい。それで結局の所、母さん一人なのか?」
「そんな訳ないでしょう」
「…………ハァ」
眉間に深い皺を寄せて深い溜息を吐く海人。
息子の気持ちを察してか、マルリースはこれ以上海人の父親に対しての態度を叱りつける事はなかった。
「親父の事は分かったけど、それより今は――――」
マルリースから聞かされた状況に頭を痛める所であるが、海人はこのままここに居て母との再会を喜んでいる訳にもいかない。
皆の無事を確認しようと気怠い身体を無理やり起こして立ち上がろうとした海人だが、またもやマルリースによって止められてしまった。
「だから、まだ休んでいなきゃ駄目だって言ったでしょう」
「いやでも、皆が……っ!!」
「皆っていうのはマホちゃん達の事?」
「あ、ああ。どうなったのか知っているのか?」
「ええ、知っているわ。マホちゃんや他の人達も全員無事よ」
「そうか……! 良かった……」
安堵してホッと一息つく海人の横で、マルリースは一番消耗していたのは海人なのだからと言い、大人しく休んでいなさいとも言った。
皆の無事が確認できたのならばと納得もしかけた海人だが、そこでふと疑問に思い、マルリースへと問い掛ける。
「……皆の無事は分かったんだけど、どうして母さんがそれを知っているんだ?」
「ああ、それはね――――」
マルリースが説明しようと口を開きかけた瞬間、彼女の後ろの襖が勢いよく開かれた。
突如として海人の部屋を訪れたその男は、黒い髪をオールバックに整えた中年男性で、顎には無精髭が生えており、締まりのない表情をしているが身体は逞しく、背は鴨居に届きそうなくらい高かった。
武骨な男は腕を組んで仁王立ちをし、見た目に似合わぬ満面の笑みを向ける。
一方で海人は心底嫌そうな顔をして、来訪者と目を合わせないようにそっぽを向いた。
「呼ばれた気がしたから来てやったぞ」
「……呼んでない」
「何を言う、我が息子よ! 半年ぶりの再会だぞ。もっと喜んでいいんだぞ! それとも思春期的なアレでツンがデレって奴か?」
「思春期なんかじゃない! ツンデレでも無い!! 誰がクソ親父との再会なんか喜ぶかっ!!!」
「わぁ~怖い怖い。どうしよう、マリ―。息子が反抗期真っ盛りだぞ。ちょっとばかし留守にしている間にグレてしまった!」
「……アナタがふざけた態度を取るからでしょう」
厳つい見た目に反して態度は軽薄。
彼こそが海人の父親であって、海人がこの世で一番苦手とする相手でもある男、竜堂譲司であった。
譲司はマルリースに窘められても反省する様子はなく、悪ノリを続けてその上海人を挑発する。
「まったく。そんな反抗的な態度を続けていいと思っているのか?」
「誰がこうさせているか本気で分からないのか!? 馬鹿親父が!!」
「やれやれ。俺は恩着せがましくありたいと思わないが、流石にここまで言われるとなぁ……」
「恩だと……? 言っとくが、俺はアンタに育てて貰った覚えはない」
「ああ、そっちじゃねぇよ。……お前、今どうして無事でいるのか覚えてないのか?」
「は……? それはあの時、銀色の鎧を纏った奴が――――」
そこまで言い掛けて、海人は意識を手放す直前に聞いた声を思い出した。
「何を隠そう、俺こそが息子の危機的状況に駆けつけ、救い出した――――」
眩い光が放たれたかと思えば、譲司の姿は銀の全身鎧に包まれていた。
それはあの時たった一人で敵を蹴散らし海人達を助けた者と同じ姿であって、海人が最後に聞いた声は聞き間違いなどでは無かったようだ。
「…………最悪だ」
格好良く決めポーズを取る譲司の傍で、海人は項垂れ絶望しきっていた。
海人が目を覚まし、驚愕の事実に直面してから数時間後。
陽はとっぷりと暮れて、空に浮かぶ月の姿が雲間から覗く頃。
父親の事で頭を痛めていた海人だが、彼の眉間に寄せられていた皺はなくなっている。
どうやら暫く時間を置いて少しは気持ちが落ち着いたようだ。
消耗していた体力も普通に歩けるくらいには回復した彼は、夕食を取りに大広間へと向かう。
いつもならば居間で食事をとるのだが、今日に限っては人数も多いことから居間では入りきらないようで、夕食は大広間となった。
食卓を囲む人数が増えたのは譲司とマルリースが居るからというだけではない。
「よう海人。元気なようで何よりだぜ」
「猿渡……。雉岡と犬飼も……」
襖を開けてすぐに目が合ったのは、すでに夕食に手を付けていた猿渡達三人組であった。
彼らが無事な様子を自身の目で確認でき、心の底から喜んでいた海人だが、歓喜に浸ったままではいられないようだ。
大きな机を挟んだ向こう側では、海人が頭を痛める原因の人物がへらへらと笑みを浮かべながら女子達に絡んでいた。
「おおー!! 真帆ちゃんか。暫く見ないうちに一段と綺麗になって。若い頃の君のお母さんにそっくりだな」
「おじ様、お世辞は結構ですよ」
「その知的な眼差しとつれない態度も似ているなぁ……。お! キミは桃子ちゃんだっけか。こんなに可愛くてスタイルが良い子が海人と同級生だなんて、オジさん羨まし過ぎるぞ」
「えぇ~、やだ~。そんな事ないですよ~、義父さま」
「そんな事あるある~。キミみたいな子は朴念仁の海人には勿体ないぜ。……それから、キミがアーシャちゃんか。今でも十分可愛いが、将来がとても楽しみだな……!」
「は、はぁ……」
アレイシヤの小さな手を取り囁く譲司。
彼の背後へと足音を立てて近づいた海人は後頭部目がけて拳を振るったが、アッサリと避けられてしまった。
「やれやれ。親を殴りつけようとするなんて、なんて親不孝な子に育ってしまったんだ……」
「誰のせいだと思っている……っ!!」
「まぁまぁ、そうカッカするなっての。こんなにキレやすくて暴力的だと、アーシャちゃんも苦労しただろう?」
「い、いえ……! 決してそんな事は――――」
何時まで経ってもアレイシヤの手を掴んだままの譲司に、海人は怒りを覚えて無理やりに剝がそうとする。
息子が優しくないと嘘泣きをする中年男は真帆や桃子に泣きつこうとするが、それも海人が阻止しようと間に入った。
「いい加減にしろ! クソ親父が……っ!!」
「カ、カイトさん! 暴力は駄目です……っ!」
海人と譲司の諍いに割って入ったのはアレイシヤであった。
普段は真帆と桃子が喧嘩をしていても強くは出ずにオロオロしているアレイシヤだが、今日の彼女は何故だか前に出て、しかも譲司に背を向けて彼を庇っている。
「ジョージ様は御父上なのでしょう? だったら尚更暴力で訴えるのは――――」
「そんな奴、父親と思いたくはない……っ」
「カイトさん……っ! その言葉は良くありません……!!」
「……アーシャ。どうしてそいつを庇うんだ……!?」
「そ、それは――――」
口ごもるアレイシヤに代わり、口を開いたのは譲司であった。
「そりゃあそうだ。アーシャちゃんは俺がどんな人物かよく分かっているからな」
「はぁ……?! 何を言って――――」
「だって俺は、アーシャちゃんが元居た世界を救った英雄、だからな」
「は……?」
その日海人は二度目の衝撃を受けたのであった。




