暗い雲
───せ、と頭の中で誰かが言った気がした。
空には月がかかっている。
夜の黒を彩っているのは満天の星々。
町は死んだように静かで、月の光はくすんで、風は冷たいはずなのにどこか生ぬるさを含んでいる気がした。
地面には液体が染み込んで土をぬかるませていた。
どこかおかしな夜だった。
小さな町の人気のない路地、彼は夜色の空を仰いで今日は何時なのだろう、と思った。
ついこの間までは煩わしく思えた太陽の暑さは既に見る影もない。
残暑が終われば本格的に秋めくと思っていたのに、寒さは季節を先取りするかのようにやってきていた。
駆け足をするように季節が過ぎ去っていくようだった。
秋が終われば冬がやってくる。
それが自然の理というものだ。
最近は何だかぼんやりとしている事が多くなった気がするな、と彼は思った。
ふっと気がついたら見知らぬ場所にいた、なんて事がここの所よくあった。
ちょくちょく記憶が飛んでいるのだ。
記憶がないのとはちょっと違う。
記憶は確かにある。
それなのに過程がすっかり抜け落ちているというか、過去と現在の境界が曖昧というのだろうか、つまり記憶から記憶へ至る途中が飛ばされているというか。
やはり記憶が飛んでいるとしか言いようがないような状態だった。
記憶は確かにあるのだ。だがそこに意思はない。
己が何をして、どんなふうに行動したか思い出そうとすれば思い出せる。
ただ、どうして自分がそんな事をしたのかがわからなかった。
頭は霞がかかっているような、何だか上手に働かない。
「まいったな。まだそんな歳じゃあないはずなんだがな」
と、彼は一人呟いた。
それに応える人間は誰もいない。
頭の中で何かが暴れているかのように頭痛がする。
ガンガンと、割れるように痛い。
反面、常になく身体の調子だけはよかった。
いくら歩いても疲れないし、走っても跳んでも息切れ一つしなかった。
体力が何処かから無尽蔵に湧いてくるような錯覚さえした。
ふと物音がして、彼は空を見上げていた視線を水平に戻す。
視線の先、細く人気のない路地に少女が立っていた。
可愛らしいと素直に口に出来る、少女だった。雪のように白く、絹のようにすべらかな肌をしていて、成長すればきっと大層な美人になるだろうと予感させられる。
彼は建物の影となる暗いところに、少女は月明かりさす明るい場所に。
少女はまじまじと彼のことを見据えて、足が止まっていた。
彼は少女の方へと足を一歩進めた。
地面にたまった液体は踏みつけると、微かな水音が響いて夜の静寂をおかす。
それに、少女は何かに怯えたように一歩後ずさった。
彼は首をかしげる。
何を怯えているのだろうか。
地面はぬかるんでいて、とても歩きにくい。それにそこらに邪魔な何かがいくつも転がっている。暗くて正体はハッキリとしない。
雨も降っていないと言うのに。
何故、地面は濡れているのだろうか。
どうでもいい事だ。
彼が影から進むと、空からの月明かりが闇に纏われていたその姿をさらした。
その姿は、白い少女とは対照的に闇のように黒かった。
それは闇そのものを纏っているかのような漆黒。
そして黒く染まった返り血の色だった。
その何処までも暗く濁った瞳が、ギョロリと少女に向けられた。
ひ、と少女は喉の奥で小さな悲鳴を上げる。
彼の足に転がっていた何かが触れる。
それは何処ででも見られそうなモノだった。
細長く先端に五つの突起があるそれは、腕だった。
人間の切断された腕、左腕なのか右腕なのか。
薄暗い路地にはばらばらになった人間の死体。
少女が彼に背を向けて、来た道を引き返そうとする。
彼はそれを見て。───ろせ、と頭の中で声が言った気がした。
サッ、と路上の影が蠢いて、それで少女の動きが止まった。
と、少女の膝から下が、ずるり、と斜めにずれる。
遅れて支えを失った少女の膝から上が、走っていた勢いのまま前にと放り出された。
特別急がずに、ゆっくりと彼は歩く。
ぁ、と少女が吐息をもらした。
人形のように端整だった顔が今は恐怖と混乱と苦痛の入り混じった。
いたい、いたいとうわ言のように繰り返しながら、這ってでも先に行こうと懸命にもがいている。
雪のように白かった身体は土と自らの赤で穢れてしまった。
「やめて……」
か細い声で少女が懇願する。
彼は首をかしげた。
止めるとは、何を止めるのだろうか。
いや、いや。と少女は必死に地を這っている。
そんな光景を他所に、そう言えば此処はどこだったろうか、と場違いな事を彼は思った。
記憶が曖昧すぎて、此処が何処かもわからない。
帰りたかった。
生まれたのは小さな農村。
母親は毎日家族の世話をして、父親は厳しいが立派だった。
それから頼りない弟がいて、可愛い妹がいて幼馴染がいて。
彼にとっては平凡で窮屈すぎる場所だった。
ああ、それがどうしてこうなってしまったんだろうか。
───コロセ、と誰かが彼に囁いた。
少女の悲鳴が死んだ町を生き返らせる。
彼は闇にすら混じらない闇色の影を引き連れ、行く当てもなく歩き続ける。
本当は故郷に帰りたかっただけなのに。
もう、何処に帰っていいのかがわからない。
彼はゆるゆると空を見上げる。
月がかかっているはずなのに、空は雲のせいで見えなくなっていた。
だから彼には帰り道がわからない。




