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第6節 ― 白霧の底で聞こえる声

白霧陸峡の奥へ進むほど、霧は色を失っていった。


白い、というより、光そのものが薄く擦り切れている。

空と地面の境目が消え、遠近も、左右も、上と下も曖昧になっていく。雪を踏んでいるはずなのに、雲の上を歩いているようでもあり、水の底を進んでいるようでもあった。


エリスは何度も足を止めそうになった。


旧街道は、道というより記憶の跡だった。

石畳は途中で割れ、湿原に沈み、また雪の下から顔を出す。倒れた道標は、墓標のように斜めに突き立ち、刻まれた霜線だけが、かつて誰かがここを渡ったことを示している。


ルオはその霜線を読むたびに、進む方向をわずかに変えた。


エリスには、何を基準にしているのかわからない。

けれど、彼の歩みには迷いがない。


いや、迷いがないのではない。


迷うことに慣れているのだ。


迷いながら、それでも風の薄い返事を拾い続けている。


「この先が、風を返す場所ですか」


エリスが尋ねると、ルオは首を横に振った。


「まだ遠い」


「では、道標守はもっと奥へ?」


「たぶん」


「たぶん、ですか」


「霧が深い。息が割れている」


エリスは、その言葉を台帳に記したくなる衝動を抑えた。


息が割れている。


意味はわからない。

だが、いまの状況をこれほど端的に示す言葉もないように思えた。


霧の中では、すべてが割れている。


道標守の名。

商隊の契約。

書かれた記録。

風の道。

エリス自身の確信。


そのどれもが、ひとつの形を保てなくなっていた。


突然、ルオが立ち止まった。


エリスもすぐに足を止める。


「何か?」


ルオは答えない。


ただ、顔を横へ向けた。


霧の奥。

旧街道から少し外れた、凍った葦の茂みの方。


エリスは耳を澄ました。


最初は何も聞こえなかった。


風もない。

水音もない。

鳥の声もない。


けれど、しばらくして、細い音が聞こえた。


泣き声ではない。


それよりも小さく、途切れ途切れで、まるで壊れた笛が息だけを漏らしているような音。


「人ですか」


エリスが囁くと、ルオは頷いた。


「まだ、こっちにいる」


二人は道を外れた。


雪の下に湿った草が隠れている。踏むたびに、靴底が沈み、黒い水が染み出した。エリスは外套の裾を押さえながら、ルオの後に続く。


霧の中に、丸まった影があった。


少年だった。


荷運び用の短い外套を着て、泥と雪にまみれた鞄を抱え込んでいる。年は十五か、十六ほどだろう。頬は青白く、唇は紫に近い。まつげにも髪にも白い霜が降りていた。


彼は地面に座り込み、両腕で自分の身体を抱くようにして震えていた。


「ロイ?」


エリスは、商隊長から聞いた名を呼んだ。


少年がびくりと肩を跳ねさせる。


その目は、こちらを見ているようで、見ていなかった。

霧の奥、もっと遠い何かに怯えている。


ルオが低く言った。


「名で引くな」


エリスは息を呑んだ。


そうだ。

ここでは、名がただの呼びかけではない。


「すみません」


彼女は小さく言い、少年の前に膝をついた。


「記録院のエリスです。あなたを探しに来ました。動けますか」


少年は答えない。


唇が震えている。

何かを呟いているようだった。


エリスは耳を寄せた。


「……あわせる……息を……白く……戻す……」


言葉の断片。


祈りのようでもあり、誰かの教えを必死に思い出そうとしているようでもあった。


ルオが少年の前にしゃがんだ。


彼は骨笛を取り出さなかった。

代わりに、自分の息をゆっくり吐いた。


白い息が、少年の前に流れる。


「聞こえるか」


ルオは静かに言った。


少年の目が、わずかに動いた。


「風読み……?」


「ルオ=スノルだ」


「道標守は……」


少年は、言葉を詰まらせた。


その瞬間、霧が少年の背後で揺れた。

何か白いものが、奥へ引いていくように見えた。


エリスは身構えた。


だが、ルオは手を上げて制した。


「ゆっくり話せ。急ぐと、霧に取られる」


少年は何度も浅く息を吸った。

その呼吸は乱れていた。恐怖と寒さで、胸だけが小刻みに動いている。


エリスは鞄から保温布を取り出し、少年の肩に掛けた。


「大丈夫です。まず、息を整えて」


そう言ってから、エリスは自分の言葉に少し驚いた。


息を整えて。


記録院の尋問なら、まず氏名、所属、失踪時刻、同行者の確認から入る。

けれど今、彼女の口から出たのは、ルオに近い言葉だった。


少年は布を握りしめ、白い息を吐いた。


一度。

二度。

三度。


ルオがそれに合わせるように、静かに呼吸する。


エリスも、無意識に同じ間隔で息を吐いていた。


霧が、ほんの少しだけ薄くなった。


少年はようやく声を出した。


「オルグさんが……止まれって言ったんです」


エリスは、胸の奥が小さく鳴るのを感じた。


オルグ。


契約書に書かれていた名。


けれど少年の声に含まれたそれは、契約書の黒い文字とは違っていた。

もっと柔らかく、誰かを呼ぶための響きだった。


「道標守のことですね」


エリスは慎重に言った。


少年は頷く。


「僕たち、急いでて。隊長が、進めって。オルグさんは、風が割れてるからだめだって言った。でも隊長は、契約しただろって。名前を書いただろって」


少年の指が震えた。


「そうしたら、オルグさん、すごく苦しそうになって」


ルオの目が細くなる。


「そのとき、何かしたか」


「隊長が、契約書を出して……名前を指で押さえて……案内しろって」


少年は喉を鳴らした。


「オルグさん、顔が白くなって。息が……息が、出なくなったみたいで」


エリスは契約書の署名欄を思い出した。


《オルグ=フェン》。


紙に捕まった息。


あの名を指で押さえることが、この土地で何を意味するのか。

彼女にはまだ完全にはわからない。


けれど、少年の怯えた顔を見れば、それがただの契約確認ではなかったことだけはわかった。


「それから?」


「霧が来ました。急に。荷馬車の前も後ろも見えなくなって。馬が暴れて。荷守りのゲイルさんが、箱を押さえに行って……僕も手伝おうとして……」


少年は目を強く閉じた。


「声が聞こえたんです」


「誰の声ですか」


エリスが尋ねると、少年は首を振った。


「わからない。オルグさんみたいで、でも違って。もっと遠くて……霧の底から聞こえるみたいで」


ルオが低く言った。


「白霧の底か」


「白霧の底?」


エリスが問うと、ルオは短く答えた。


「道から落ちた息が沈む場所だ」


エリスはその言葉を書きたくなった。


だが、我慢した。


「少年は、その声に従ったのですか」


「違います」


少年は首を振った。


「怖くて、動けなくなって。でも、オルグさんが……僕の肩を掴んで、言ったんです」


彼の唇が震える。


けれど、その言葉だけは、はっきり覚えているようだった。


「道は、名前で歩くんじゃない。

 息を合わせて渡るんだ」


その瞬間、霧が止まった。


エリスは、胸を貫かれたような気がした。


道は、名前で歩くんじゃない。

息を合わせて渡るんだ。


それは、ルオが言っていたことと同じだった。


だが、少年の声で聞くと、違って響いた。


教えだった。

救いだった。

失踪の直前、道標守が少年に残した、最後の道しるべだった。


エリスの手は、自然に台帳へ伸びていた。


これは記録すべき言葉だ。


証言として重要だ。

道標守が逃げたのではなく、少年を救おうとしていた証拠になる。

商隊長の主張を覆す手がかりにもなる。


彼女は白紙台帳を開いた。


ペンを取る。


頁の空白に、言葉を書こうとする。


《道は、名前で歩くんじゃない。息を合わせて渡るんだ。》


ペン先が紙に触れる直前で、止まった。


書けなかった。


手が動かなかった。


なぜか。


この言葉をそのまま書けば、証言になる。

証言になれば、記録院で扱える。

扱えるものになれば、道標守を守れるかもしれない。


それなのに、ペン先は動かない。


エリスは、自分の指先を見つめた。


震えている。


寒さのせいではなかった。


この言葉を紙に置いた瞬間、何かが変わってしまう。

少年の中で、息として残っていたもの。

道標守が最後に手渡したもの。

霧の底へ落ちずに、かろうじて人の胸に留まっていたもの。


それを、彼女が南の文字にしてしまえば。


この言葉もまた、契約書の名と同じように、固定されてしまうのではないか。


道標守の息を、もう一度捕まえてしまうのではないか。


エリスは、ペンを持つ手を下ろせなかった。


ルオが彼女を見ている。


何も言わない。


止めもしない。

促しもしない。


決めるのは、お前だ。


そう言われている気がした。


エリスは少年を見た。


少年は、自分が何を語ったのか、それがどれほど重要なのか、完全にはわかっていない。ただ寒さに震えながら、道標守の言葉を胸に抱いている。


もし今それを書けば、彼の証言は守られる。


だが、彼が必死に持っていた息の形は、失われるかもしれない。


書くべきか。

書かないべきか。


いままでのエリスなら、迷わなかった。


重要証言は、即時記録。

言葉は変質する。記憶は歪む。だから、聞いたその場で書き残す。


それが正しい。


今でも、正しいと思う。


けれど、その正しさだけでは足りない場所に、自分はいま立っている。


エリスは、ゆっくり息を吐いた。


白い息が、台帳の頁の上を流れた。


ペン先はまだ紙に触れていない。


その余白に、霜のような細い線が一瞬だけ浮かび、すぐに消えた。


エリスは目を見開いた。


ルオも気づいたらしい。

わずかに表情を変える。


「……今のは」


エリスが呟くと、ルオは低く答えた。


「言葉が、まだ息のままでいたがっている」


エリスは、ペンを握る力を緩めた。


「では、書いてはいけないのですね」


「俺が決めることじゃない」


「でも」


「書くなら、書け。書かないなら、持て」


持て。


第5節でルオが言った言葉と同じだった。


紙ではなく、自分が持つ。


それは、記録官としてはあまりに危うい。

忘れるかもしれない。

言葉を違えるかもしれない。

後から誰かに証明できないかもしれない。


だが、証明するために壊してしまうものもある。


エリスは、初めてその事実を、理屈ではなく痛みとして理解した。


彼女はペンを紙から離した。


そして、言葉そのものは書かなかった。


代わりに、頁の端に小さく、ただ一行だけ記した。


《見習い商人、道標守の教えを記憶。詳細、未記。》


その下に、広い余白を残した。


白い頁。


そこには何も書かれていない。

けれど、エリスには、その余白の中に少年の震える声が残っているように感じられた。


道は、名前で歩くんじゃない。

息を合わせて渡るんだ。


彼女は、その言葉を心の中で繰り返した。


忘れないために。

書かないまま、記録するために。


すると、少年の呼吸が少し落ち着いた。


偶然かもしれない。


だが、エリスには、彼の胸に残っていた言葉が紙へ奪われずに済んだことで、少しだけ軽くなったように見えた。


ルオは少年の前に手を差し出した。


「立てるか」


少年は小さく頷いた。


「ゲイルさんは……?」


「これから探す」


「オルグさんは?」


ルオは答えなかった。


エリスが代わりに言う。


「探します。あなたを商隊へ戻したあとで」


少年はエリスを見た。


「オルグさんは、悪くありません」


その声は、弱いが、はっきりしていた。


「隊長は怒ってたけど、オルグさんは、僕たちを置いていったんじゃありません。僕を、押し戻してくれたんです。息を合わせろって言って……それで僕、ここまで戻って……でも、途中でわからなくなって……」


「わかりました」


エリスは頷いた。


「あなたのその言葉は、私が覚えます」


「書かないんですか」


少年が、不安そうに尋ねる。


エリスは一瞬、答えに迷った。


それから、正直に言った。


「今は、書きません」


少年の目が揺れる。


「どうして」


「この言葉は、たぶん、まだ紙に置くべきではないからです」


自分で言って、胸が震えた。


そんな説明で、記録官としてよいのか。

少年を安心させられるのか。


けれど、彼は不思議そうにエリスを見たあと、少しだけ頷いた。


「オルグさんも、そういう顔をしてました」


「そういう顔?」


「書けないけど、忘れないって顔」


エリスは、返事ができなかった。


胸の奥に、何かが静かに沈んだ。


ルオは少年を支え、立ち上がらせた。少年の足はふらついていたが、歩けないほどではない。


そのとき、霧の奥から、低い音が聞こえた。


人の声ではない。


荷車の軋みでもない。


氷の下で、大きな水が動いたような音。


ルオが鋭く顔を上げる。


「奥が開いた」


「奥?」


「白霧の底に続く道だ」


エリスは少年を支えながら、霧の向こうを見た。


そこには何も見えない。


ただ、白い壁の奥に、さらに深い白がある。

そこへ向かって、風ではない何かが、ゆっくり流れている。


失踪した荷守り。

道標守。

契約書に捕まった名。

そして、まだ返されていない息。


それらが、その奥にある。


エリスは台帳を閉じた。


書かなかった言葉が、胸の中に残っている。


それは重かった。

黒いインクで記したどんな記録よりも、ずっと重い。


けれど、不思議と恐ろしくはなかった。


彼女はようやく、少しだけわかり始めていた。


記録とは、すべてを紙に移すことではない。


ときには、紙に移さないまま、責任を持って抱えることでもある。


エリスは少年を支え、ルオに視線を向けた。


「まず、この子を戻しましょう」


「そのあと、奥へ行く」


「はい」


エリスは頷いた。


霧の底から、もう一度、低い音が響いた。


呼んでいる。


そう思った。


名ではなく。

声でもなく。

息の深いところで。


白霧陸峡は、彼女たちをさらに奥へ招いていた。

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