第五節 ― 白霧の底
契約地点から北へ十歩も進まないうちに、ルオは立ち止まった。
目の前には何もない。雪の起伏と、白く閉じた霧があるだけだった。道標守の霜紋は契約地点で途絶え、その先には足跡らしいものさえ残っていない。
それでもルオはしゃがみ込み、雪面へ手をかざした。
「何かありますか?」
「静かに」
エリスは口を閉じた。
ルオは目を伏せたまま、何度かゆっくり呼吸する。吐いた白い息が風へほどけ、その流れを追うように顔を上げた。首元の骨笛へ触れるが、まだ吹かない。
数歩先へ進み、また止まる。
「こっち」
「何を追ってるんです?」
「息」
「道標守の?」
「たぶん」
「たぶんなんですか」
ルオが振り返る。
「分からないって言ったら怒るだろ」
「怒りません。記録します」
「それが面倒なんだよ」
そう言いながらも、ルオは先へ進んだ。
契約地点にはマティスとダリオが残っていた。行程帳と契約書をさらに照合し、商隊が実際にどの方向へ進んだのかを記録側から洗い直すという。エリスも残るべきか迷ったが、現場を見なければ記録できないと判断してルオを追った。
その判断を、ルオは歓迎していないらしい。
「離れるな」
「分かってます」
「紙見る時も止まるな」
「歩きながら書けます」
「そういう意味じゃない」
エリスは聞き流し、白紙台帳を開いた。
《契約地点より北方へ捜索開始》。
問題なく書ける。
続けて気温。視界。風向き。現在確認できる人数。道標守、ゲイル、ロイの三名が未発見であること。
そこまで記してから顔を上げると、ルオが少し先で雪を睨んでいた。
「ありました?」
「来い」
駆け寄る。
指さされた先には、雪のへこみが一つあった。
靴跡――だと思う。
輪郭がほとんど崩れ、風に削られている。注意して見なければ自然な窪みと区別できない。
「人の足跡?」
「ああ」
「道標守ですか」
「違う」
「どうして分かるんです?」
「歩き方が違う」
「具体的には?」
ルオが黙った。
「そこ、大事です」
「踵が深い。歩幅も狭い。雪に慣れてない」
エリスはすぐに書き留める。
《人為足跡一名分を確認。踵部深。歩幅狭。北方歩行に不慣れな人物の可能性》。
「ロイかもしれませんね」
「決めるな」
「可能性と書いてます」
「同じだ」
「違います」
エリスは筆先で記述箇所を示した。
「断定ではありません。観測から導ける仮説です」
ルオは何か言いたげだったが、先に視線を雪へ戻した。
足跡は一つ。
少し先にもう一つ。
さらに三つ目。
霧の向こうへ、かすかに続いている。
「追えます」
エリスは胸が軽くなるのを感じた。
何もなかった場所から、初めて人の痕跡を拾えた。
彼女は足跡の位置を台帳へ記し、簡単な見取り図を添えた。契約地点を基準に、おおよその方角と歩数を書く。
「最初の足跡から十二歩北北西。二つ目――」
「待て」
ルオが言った。
エリスは筆を止めずに答える。
「すぐ終わります」
「違う。見ろ」
顔を上げた。
さっきまで見えていた最初の足跡が、薄くなっていた。
「風ですか?」
「吹いてない」
言われて気づく。
外套の裾はほとんど動いていない。
エリスは足跡へ近づいた。
確かに、輪郭が崩れている。ついさっきまで踵の形を判別できたはずなのに、今は浅い窪みしかない。
「雪が戻った?」
「触るな」
伸ばしかけた手をルオに止められる。
「でも、状態を確認しないと」
「先を追う」
「待ってください」
エリスは台帳へ戻った。
《第一痕跡、観測中に輪郭減衰》。
書く。
次に二つ目の位置。
大きさ。
深さ。
方向。
記してから顔を上げる。
二つ目も薄くなっていた。
エリスの指が止まった。
「……また」
ルオの表情が険しくなる。
「閉じろ」
「まだ原因が分かりません」
「閉じろ」
「だから、原因を確認するために記録を――」
「三つ目も消えてる」
エリスは顔を上げた。
さらに先にあった足跡が、白い雪へ溶けかけている。
四つ目はまだ見える。
五つ目も。
急がなければならない。
そう分かっているのに、エリスは逆に筆を速めた。
「痕跡が消えるなら、なおさら残さないと」
「エリス」
初めて名前だけで呼ばれた。
反応するより早く、ルオが台帳へ手を伸ばす。
エリスは反射的に胸元へ引いた。
「何するんですか!」
「書くな!」
霧の中に声が響いた。
エリスも負けずに睨み返す。
「記録しなければ何も証明できません!」
「今、証明が必要か?」
「必要です! 三人がどこで消えたのか、何が起きたのか、残しておかないと――」
「まだ消えたって決まってない!」
「だから探してるんでしょう!」
「なら探せ!」
ルオは足跡を指した。
「お前が一行書くたびに、追えるものが減ってる!」
「それが私の記録のせいだって証拠はないでしょう!」
「ない!」
即答だった。
「でも今は、疑うには十分だ」
「十分じゃありません。偶然かもしれない。風かもしれない。私たちが見落としてるだけかもしれない。だから条件を残して、あとで照合するんです!」
「あとで、あとでって」
ルオの声に苛立ちが混じる。
「今ここにいるやつはどうする」
「だから今も探してます!」
「お前が見てるのは足跡じゃない。あとで誰が間違えたか書くための材料だ」
胸の奥を刺された。
「違います」
「違わない」
「違います!」
「契約した商隊。名前を書いた書記。進ませた隊商長。お前はずっと、誰が何をしたか書いてる」
「必要だからです!」
「戻す前から、あとで裁く準備をするな!」
その一言で、何かが切れた。
「戻ったあと、誰も覚えてなかったらどうするんですか!」
自分の声が、思った以上に大きかった。
霧の向こうへ飛び、白い空間に吸われていく。
ルオが黙った。
エリス自身も、言ってから息を止めていた。
「……記録しなかったら」
手にした台帳の端へ、力が入る。
「誰がここにいたのか。誰が探したのか。誰が戻ってきたのか。何があったのか――みんなの記憶が食い違ったら、どうするんですか」
うまく言葉を選べない。
それが悔しくて、エリスは視線を落とした。
「人は忘れます。勘違いもします。死んだら、その人が覚えていたこともなくなる。だから残すんです」
白紙台帳が、手の中でかすかに軋む。
「記録がなかったら、最初からいなかったみたいになることだってあるでしょう」
口にした瞬間、胸の奥がひどく冷えた。
何に対してそう感じたのか、自分でも整理できない。
ただ、空欄が嫌いだった。
名前のない欄。
途中で切れた道。
何かがあったはずなのに、何も残っていない頁。
そういうものを見るたび、そこにいた何かまで失われる気がする。
ルオはすぐには答えなかった。
さっきまでの怒りが消えたわけではない。ただ、エリスを見る目が少し変わっている。
「……だから全部書くのか」
ようやく言った。
「全部じゃありません」
「だいたい全部だろ」
「必要なことです」
「必要だから、足跡が消えても?」
エリスは答えられなかった。
視線を雪へ向ける。
最初に見つけた足跡はもうほとんど残っていない。
五つ目も薄くなり始めていた。
事実だ。
自分が書くほど消えているように見える。
でも、書かなければ何も残らない。
どちらかを選べと言われても、選べない。
ふと、白紙台帳を渡された時のセヴランの言葉を思い出した。
必要なものを書け。
書いてはならないものは、余白へ置け。
あの時は、何を言っているのか分からなかった。
今も分かったとは言えない。
けれど。
「……書き方を変えます」
「は?」
エリスは雪の上へしゃがみ込んだ。
台帳の新しい頁を開く。
ルオが警戒したように近づく。
「書くなって言っただろ」
「名前も、原因も書きません」
「何を書く」
「今、私が確実に言えることだけです」
筆を置く。
まず一行。
《現時点観測》
少し間を空ける。
その下へ、
《位置未確定》
と記した。
ルオが眉を寄せる。
「それだけ?」
「まだです」
「まだ書くのか」
「観測できた範囲だけ」
エリスは続けた。
《人為痕跡を確認》。
誰の足跡とは書かない。
《北方へ連続する可能性あり》。
道とも書かない。
《痕跡変化あり。原因未確定》。
筆を止める。
さっきまでなら、もっと書いた。
歩幅。
靴の形。
北方歩行に不慣れ。
ロイである可能性。
契約後の迷走との関連。
考えられることは山ほどある。
けれど、それらを頁へ固定するのをやめた。
「これなら?」
ルオは答えず、足元を見る。
エリスも視線を追った。
「あ……」
消えかけていた五つ目の足跡が、少しだけ見える。
輪郭が戻った、というほど劇的ではない。
白く埋もれかけていた踵の影が、もう一度雪面に浮かんだように見えた。
さらに先。
六つ目。
さっきは見つけられなかった窪みがある。
「戻った?」
エリスが立ち上がる。
「触るな」
「分かってます」
今度は素直に手を引いた。
ルオが周囲を見渡す。
風がわずかに動いた。
白い霧が雪面を撫で、消えかけていた痕跡の間を抜けていく。
「何をした」
「断定するのをやめただけです」
「記録なのに?」
「記録だからです」
言いながら、自分でもまだ整理しきれていない。
記録とは、確定した事実を書くものだと思っていた。
ならば、確定していないものは、確定していないと書けばいい。
分からないのに名前を与えない。
分からないのに位置を決めない。
ただ、今見えたものがあったことだけを残す。
「……これなら、少なくとも嘘にはなりません」
ルオが台帳を覗き込む。
「《現時点観測》」
「はい」
「《位置未確定》」
「はい」
「それ、正式な書き方か?」
「今作りました」
ルオが顔を上げた。
「勝手に?」
「必要なので」
数秒、見つめ合う。
何か文句を言われると思った。
ところがルオの口元が、ふっと崩れた。
声を上げるほどではない。
ほんの一瞬、笑った。
「何ですか」
「別に」
「今、笑いましたよね」
「笑ってない」
「絶対笑いました」
「記録しとけば?」
言われて、エリスは筆を持ち上げた。
「書きますよ」
「やめろ」
「《ルオ=スノル、初めて笑う》」
「消すぞ」
「やっぱり笑ったんじゃないですか」
ルオは露骨に嫌そうな顔をして歩き出した。
けれど、さっきまでより少しだけ足取りが軽い。
エリスも台帳を閉じた。
完全にはしまわない。
必要ならすぐ取り出せるようにしながら、今度は足元を見る。
六つ目の足跡。
七つ目。
その先で、二つに分かれている。
「二人?」
思わず口にすると、ルオがしゃがみ込んだ。
「まだ決めるな」
「分かってます。《複数痕跡の可能性》です」
「それも書くのか」
「頭の中に」
ルオがこちらを見る。
「覚えるんじゃなかったのかって言ったの、あなたでしょう」
「都合いいな、お前」
「記録官は使える情報を使います」
「南のやつ、だいたいそれ言うのか?」
「少なくとも私は言います」
二人は痕跡を追った。
今度のエリスは、足跡一つごとに立ち止まらなかった。
目で見る。
形を覚える。
確実に言えることだけ、必要な時に短く記す。
すると不思議なことに、先ほどより痕跡を見失わなくなった。
それが本当に記録方法の違いによるものなのか、単にルオが正しい方向を選んでいるからなのか、エリスには分からない。
だから、それも決めなかった。
白霧は深くなっていた。
遠くも近くも白い。
自分たちの吐息さえ、少し離れれば霧と区別できなくなる。
ルオが急に立ち止まった。
片手が上がる。
エリスも足を止めた。
「何です?」
「静かに」
耳を澄ます。
風。
自分の呼吸。
服が擦れる音。
それだけ。
違う。
何か聞こえた。
「……今の」
小さな音だった。
白霧の奥から。
こほっ、と。
咳。
高い。
大人ではない。
もう一度。
苦しそうな、子供の咳。
ルオと目が合った。
次の瞬間、二人は同時に走り出していた。




