坂本さんのスマホが鳴った日
坂本さんのスマホは、基本的に鳴らない。
少なくとも、俺は鳴ったところを見たことがなかった。
会議中はもちろん、休憩中でも、資料レビュー中でも、坂本さんのスマホは机の端に静かに置かれているだけだ。
黒いケース。
画面は下向き。
通知音なし。
存在感なし。
持ち主に似ている。
いや、似ていると言ったらスマホに失礼かもしれない。
スマホは逃げ道を閉じてこない。
「藤谷」
「はい」
資料レビュー中の坂本さんは、今日も静かだった。
そして静かな分、怖かった。
「このページ、結論が先に来ていない」
「はい」
「読む側に何を判断してほしい資料なのか、三行目まで分からない」
「はい」
「つまり、誰に何を伝える資料だ」
「……中間報告会で、進捗とリスクを共有するための資料です」
「なら、最初にリスクを書くべきだ」
「はい」
逃げ道が一本、閉じた。
俺はペンを握り直した。
隣の高岡が、黙って自分の資料を見ている。
助ける気はないらしい。
まあ、助けられても一緒に沈むだけだ。
そのときだった。
机の上で、スマホが短く鳴った。
ぴこん。
軽い音だった。
軽すぎて、会議室の空気に合っていなかった。
俺は一瞬、誰のスマホか分からなかった。
高岡のものではない。
俺のものでもない。
坂本さんのスマホだった。
坂本さんのスマホが。
鳴った。
俺は固まった。
坂本さんも、一瞬だけ視線を落とした。
いつもは画面を下向きに置いているはずのスマホが、今日はたまたま上を向いていた。
なぜ。
神の悪戯か。
いや、悪魔の采配か。
画面が光っていた。
通知が出ていた。
俺は見てしまった。
見えてしまった。
そこに表示されていた名前を。
ミサちゃん
俺は息を止めた。
世界が止まった。
ミサ。
までは分かる。
いや、分からない。
でも、分かる努力はできる。
美沙さん。
坂本さんの恋人。
坂本さんの声帯を柔らかくする人。
坂本さんを微笑ませる人。
そこまでは、過去に観測済みだ。
問題は、その後ろだった。
ちゃん。
何。
誰が入れた。
誰の意思だ。
坂本さんか。
美沙さんか。
どちらにせよ、俺の脳は受け止めきれない。
通知本文まで見えてしまった。
『カズくん、帰りに牛乳お願いできる? あと卵もあると嬉しいです』
カズくん。
牛乳。
卵。
嬉しいです。
情報量が多い。
会議室にあるべき単語ではない。
俺が今見ていた資料には、「進捗」「リスク」「前提条件」「対応策」しか存在しなかったはずだ。
そこに急に、牛乳と卵が入ってきた。
しかも、ミサちゃんから。
「藤谷」
「はいっ」
声が裏返った。
坂本さんが俺を見た。
目が細い。
終わった。
「どこを見ている」
「資料です」
「本当に?」
「すみません」
「何を見た」
何を見た。
言えるわけがない。
俺は坂本さんのスマホに表示された「ミサちゃんを見ました。
そんな供述をした瞬間、この会議室から生きて出られる自信がない。
「……光りました」
「スマホがな」
「はい」
「それは見れば分かる」
逃げ道が一本、閉じた。
スマホでも閉じるのか。
坂本さんは短く息を吐いて、画面を見た。
そして。
ほんの少しだけ、表情をゆるめた。
やめてほしい。
それ以上、観測させないでほしい。
仕事中の坂本さんの顔面で、恋人宛ての柔らかい処理をしないでほしい。
人間の脳には限界がある。
坂本さんはスマホを手に取り、短く返信を打った。
見てはいけない。
そう思った。
だが、視界の端に入った。
『分かった。牛乳と卵。寒いから出るな。俺が買って帰る』
俺は死んだ。
静かに死んだ。
声は出さなかった。
社会人だから。
でも内側では完全に倒れた。
寒いから出るな。
俺が買って帰る。
誰。
誰なんだ。
この人は。
さっきまで俺の資料の結論位置を詰めていた人と同一人物なのか。
坂本さんはスマホを伏せた。
そして、何事もなかったように資料へ視線を戻した。
「続ける」
続けられるわけがない。
俺の中では、もう「ミサちゃん」が会議室の中央に鎮座している。
でも坂本さんは続ける。
逃げ道を閉じる人は、通知ごときでは止まらない。
「藤谷。このページは修正だ」
「はい」
「結論を先頭に置け」
「はい」
「リスクの優先順位も曖昧だ」
「はい」
「あと」
「はい」
「いま見たものは忘れろ」
俺はペンを落とした。
高岡が横で肩を震わせた。
笑うな。
いや、笑っているのか。
震えているだけか。
どちらでも許さない。
「……はい」
「本当に忘れられるか」
「努力します」
「努力目標では困る」
「無理です」
言ってしまった。
会議室が静かになった。
高岡がとうとう下を向いた。
坂本さんは、俺を見た。
目が細くなった。
終わった。
だが、なぜか坂本さんは怒らなかった。
怒鳴らないのはいつものことだが、詰めてもこなかった。
ただ、淡々と言った。
「なら、業務に関係ない情報として処理しろ」
無理だ。
業務に関係ない情報ほど、脳に残る。
「はい」
俺はそう答えるしかなかった。
レビューが終わったあと、俺は休憩スペースで高岡に詰め寄った。
「見たか」
「見た」
「見たよな」
「見た」
「ミサちゃん」
「声に出すな」
高岡は紙コップのコーヒーを持ったまま、冷静に言った。
冷静なふりだ。
耳が少し赤い。
「俺、見間違いかと思った」
「残念ながら、俺も見た」
「ちゃん、だったよな」
「ちゃん、だった」
「坂本さんのスマホに」
「坂本さんのスマホに」
「ミサちゃん」
「だから声に出すな」
俺は頭を抱えた。
「どっちだと思う」
「何が」
「坂本さんが自分で登録したのか、美沙さんが勝手に変えたのか」
高岡は少し考えた。
「後者じゃないか」
「だよな」
「でも直してない」
「そこなんだよ」
そこなのだ。
美沙さんが勝手に変えた。
それならまだ分かる。
いや、分かるというか、可愛い。
問題は、坂本さんが直していないことだ。
あの坂本さんが。
資料の誤字を見逃さない坂本さんが。
前提条件のズレを許さない坂本さんが。
スマホの登録名にある、ちゃん、を放置している。
いや、放置ではない。
あれはたぶん。
許可だ。
「坂本さん、もしかして気に入ってるのか」
俺が言うと、高岡が深く頷いた。
「その可能性はある」
「やめろ」
「自分で言ったんだろ」
「言ったけど、認めたくない」
そのとき、また背後から声がした。
「何を?」
俺はもう驚かなかった。
人は慣れる。
振り返ると、朝倉さんがいた。
紙コップのコーヒー。
穏やかな顔。
爆弾を投げる準備が整っている人間の装備だった。
「あ、朝倉さん」
「坂本の話?」
「なぜ分かるんですか」
「藤谷がその顔してるとき、大体坂本の話だから」
俺は自分の顔を触った。
そんなに出ているのか。
怖い。
「で、何?」
朝倉さんは楽しそうに椅子へ座った。
高岡が俺を見た。
俺は頷いた。
これは確認すべき案件だ。
「あの、坂本さんのスマホの登録名なんですけど」
「登録名?」
「美沙さんの」
「ああ」
朝倉さんは、すでに知っている顔をした。
俺は察した。
この人、知っている。
まただ。
朝倉さんは全部知っている。
「もしかして、ミサちゃん?」
俺は机に額をぶつけそうになった。
「知ってるんですか!」
「前に見た」
「普通に言わないでください」
「普通だったけど」
「普通じゃないです」
高岡が静かに頷いた。
「それ、ミサさんが勝手に変えたんですか」
「たぶんね。前に美沙ちゃんが坂本のスマホ借りて、何かしてたから」
「何か」
「そのあと坂本が画面見て、眉を少し動かしてた」
見える。
見えてしまう。
坂本さんがスマホを見て、そこに「ミサちゃん」を発見する瞬間。
眉が一ミリ動く。
美沙さんがにこにこしている。
坂本さんが静かに言う。
『何をしてる』
美沙さんが言う。
『こっちのほうが分かりやすいでしょ?』
坂本さんが言う。
『分かりやすさの問題ではない』
そして直さない。
やめてほしい。
想像だけで処理落ちする。
「坂本さん、なんで直さないんですか」
俺が聞くと、朝倉さんはあっさり答えた。
「気に入ってるんじゃない?」
休憩スペースの空気が止まった。
高岡が目を閉じた。
俺は紙コップを握り潰しかけた。
「朝倉さん」
「何?」
「そういう情報は、もう少し緩衝材に包んでください」
「でも見たままだろ」
「見たままを投げないでください」
朝倉さんは笑った。
「いや、本人に聞いたことあるんだよ。直さないのかって」
「聞いたんですか」
「聞いた」
「勇者ですか」
「同期だから」
同期。
便利な言葉だ。
坂本さんの細い目に耐性がある人たちの総称なのかもしれない。
「で、坂本さんは何て?」
高岡が聞いた。
朝倉さんは、坂本さんの声真似をするでもなく、さらっと言った。
「直す理由がない、って」
直す理由がない。
俺は天井を見た。
ああ。
それだ。
いかにも坂本さんだ。
気に入っているとは言わない。
許しているとも言わない。
嬉しいとも言わない。
ただ、直す理由がない。
つまり、直さなくていい理由はある。
「それ、気に入ってますよね」
「うん」
朝倉さんが即答した。
「気に入ってると思う」
「朝倉さん」
「何?」
「追撃しないでください」
「でも事実だし」
この人は本当に恐ろしい。
爆弾を爆弾と思っていない。
坂本さんとは別方向で怖い。
そのとき、休憩スペースの入口に坂本さんが現れた。
俺と高岡は同時に姿勢を正した。
朝倉さんだけが普通だった。
「朝倉」
「おう」
「また余計なことを話しているな」
「スマホの話」
「余計なことだ」
坂本さんの目が細くなった。
俺は反射的に視線を落とした。
だが朝倉さんは笑っている。
「いいじゃん。藤谷たち、知っちゃったんだし」
「忘れさせろ」
「無理だろ。ミサちゃんは強い」
言った。
本人の前で言った。
俺はもう、朝倉さんを人間として見られなくなってきた。
耐性持ちとかいうレベルではない。
古代種だ。
坂本さんは、深く息を吐いた。
「朝倉」
「何?」
「午後の会議資料、確認したか」
「した」
「三ページ目の数字が違う」
「え、嘘」
「嘘を言う理由がない」
朝倉さんの顔から笑みが消えた。
坂本さんは静かに続けた。
「去年の同月比ではなく、前月比になっている」
「あー……」
「修正は」
「今やる」
「十五分で」
「はいはい」
朝倉さんが紙コップを置いて立ち上がった。
強者にも、資料ミスは効くらしい。
少し安心した。
坂本さんの視線が、こちらに向いた。
「藤谷」
「はい」
「君の修正分も見る」
「はい」
「あと」
「はい」
「スマホの件は業務に関係ない」
「はい」
「ただし」
坂本さんは一拍置いた。
「ミサが勝手に変えたものだ」
俺は固まった。
坂本さんが自分から説明した。
説明しなくていいのに。
いや、説明してくれてありがたい。
ありがたいが、情報量が増える。
「……そうなんですね」
「そうだ」
「直さないんですか」
聞いてしまった。
俺の口は、たまに命知らずだ。
高岡が横でわずかに息を呑んだ。
坂本さんは俺を見た。
目は細くない。
ただ静かだった。
「直す理由がない」
朝倉さんの証言通りだった。
俺は思った。
あ、これは。
気に入っている。
絶対に気に入っている。
だが、それを言ったら終わる。
俺は大人しく頷いた。
「承知しました」
「承知しなくていい」
「はい」
「忘れろ」
「努力します」
「また努力目標か」
「業務外情報なので」
坂本さんの目が細くなった。
終わった。
俺はすぐに姿勢を正した。
「忘れます」
「よろしい」
よろしい。
許された。
いや、たぶん許されてはいない。
午後のレビューで返ってくる可能性がある。
そして実際、返ってきた。
会議室で、坂本さんは俺の資料をめくりながら言った。
「藤谷」
「はい」
「この表現は曖昧だ」
「はい」
「読み手に判断を委ねるな」
「はい」
「君の資料には、結論を曖昧にする理由がない」
理由がない。
俺の脳内に、別の言葉が浮かんだ。
直す理由がない。
だめだ。
忘れられない。
ミサちゃん。
あの登録名は、坂本さんのスマホの中に今日も存在している。
美沙さんが勝手に変えた。
坂本さんは直していない。
理由は、ない。
いや、ある。
でも言わない。
それが坂本さんなのだ。
「藤谷」
「はい」
「聞いているか」
「聞いています」
「では、この曖昧な表現をどう直す」
逃げ道が一本、閉じた。
俺はペンを握った。
坂本さんのスマホには、ミサちゃん。がいる。
坂本さんの返信は、少しだけやさしい。
でも、俺の資料レビューには。
ミサちゃん、は存在しない。
世界は、今日も公平ではなかった。




