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坂本さんを怖がらない人が採用された日

 コンペ、という言葉には、どこか華やかな響きがある。


 複数の案が並び、自由な発想が競い合い、新しい可能性が見つかる。


 そんな、前向きで、明るくて、少しだけわくわくする言葉。


 少なくとも、俺はそう思っていた。


 坂本さんが、審査担当に入るまでは。


「評価基準は先に決める」


 会議室で、坂本さんが静かに言った。


「あとから好みを混ぜるな。見た目の印象だけで判断するな。目的、導線、情報設計、保守性。全部点数化する」


 華やかさが死んだ。


 コンペが、急に試験になった。


 いや、試験ならまだいい。


 坂本さんの前で点数化されるということは、つまり、逃げ道がないということだ。


「藤谷」


「はい」


「お前が作った評価表、項目が曖昧だ」


「はい」


「『見やすさ』とは何を指す?」


「えっと……視認性とか、情報の追いやすさとか……」


「分けろ」


「はい」


 逃げ道が、一本閉じた。


「『印象が良い』は?」


「……削ります」


「そうしろ」


 もう一本閉じた。


 隣で高岡が、淡々とメモを取っていた。


 お前も何か言ってくれ。


 いや、言わなくていい。


 巻き込まれるだけだ。


 今回の案件は、俺たちのチームが担当しているサービスサイトのリニューアルだった。


 社内案だけではなく、外部の若手デザイナーも対象にした小さなコンペを行うことになった。新しい視点を入れたい、というのが建前である。


 本音はたぶん、俺たちだけでは案が煮詰まりすぎたからだ。


 そして、その煮詰まった鍋を、坂本さんが無言でかき混ぜている。


 怖い。


「匿名審査にする」


 坂本さんが言った。


「名前で判断しない。実績でも判断しない。案だけを見る」


「はい」


「藤谷」


「はい」


「お前は特に、雰囲気に流されるな」


「俺、そんなに流されますか」


 坂本さんが俺を見た。


 目が、少し細くなった。


「流される」


「はい」


 即答した。


 命は大事だ。


 数日後、応募案が出そろった。


 社内外合わせて十数案。


 俺たちは会議室にこもり、ひとつずつ確認していった。


 派手な案もあった。


 おしゃれな案もあった。


 なんとなく今っぽい案もあった。


 そして、その中にひとつだけ、妙に引っかかる案があった。


 派手ではない。


 でも、情報が迷子にならない。


 必要なものが、必要な順番で出てくる。


 色も落ち着いていて、ボタンの位置も自然だった。


 なんというか、こちらが考える前に、先回りして整えられている感じがした。


「……これ、普通に強いな」


 高岡が言った。


「だよな」


 俺も頷いた。


 坂本さんは黙って画面を見ていた。


 しばらくして、静かに言った。


「悪くない」


 俺は背筋を伸ばした。


 坂本さんの「悪くない」は、普通の人間でいうところの「かなり良い」に近い。


 たぶん。


 いや、知らないけど。


「導線が整理されている。見た目で逃げていない」


「ですよね」


「ただし、下層ページの設計は詰めが甘い」


 出た。


 褒めたと思ったら、すぐ詰める。


「でも、全体としては一番目的に合っている」


 坂本さんは評価表に点数を書き込んだ。


 最終的に、その案が採用された。


 制作者名は、審査が終わってから開示されることになっていた。


 俺は少しだけ楽しみにしていた。


 どんな人なんだろう。


 落ち着いたデザインだから、わりと経験のある人かもしれない。


 でも若手対象だから、大学生とか、フリーで始めたばかりの人かもしれない。


 そんなことを考えながら、顔合わせの日を迎えた。


 会議室のドアがノックされた。


「失礼します」


 入ってきた青年を見た瞬間、俺の脳が止まった。


 知っている。


 いや、知っていると言っていいのか分からない。


 でも見たことがある。


 坂本さんの目を細めた顔を、まったく怖がらなかった人だ。


 ミサさんの弟。


 仁くん。


 なぜいる。


 いや、制作者だからいる。


 でも、なぜ制作者なんだ。


 俺の脳内で、非常ベルが鳴った。


 ウー。


 ウー。


 避難してください。


 坂本さんを怖がらない人間が、仕事として再登場しました。


「今回、採用していただいた案を制作しました。白石仁です。よろしくお願いします」


 仁くんは、きちんと頭を下げた。


 礼儀正しい。


 声も落ち着いている。


 前回の印象より、少し大人びて見えた。


 だが、俺は知っている。


 この人は、坂本さんの細い目を見ても引かない。


 生物としておかしい。


 坂本さんが、資料から顔を上げた。


「……仁」


 職場で。


 坂本さんが。


 下の名前で。


 俺はそっと高岡を見た。


 高岡もこっちを見た。


 目が合った。


 お互い、何も言わなかった。


 言葉にしたら終わる気がした。


「採用されたのは実力です」


 仁くんが先に言った。


「姉の恋人が関係者だから落とされるのも、通されるのも、不公平なので」


 強い。


 初手が強い。


 坂本さんの目が、少し細くなった。


 会議室の空気が、すっと冷えた。


 俺は心の中で祈った。


 やめろ。


 その顔はやめろ。


 仁くん、下がれ。


 そこは人間が踏み込んでいい場所じゃない。


 しかし仁くんは、まったく下がらなかった。


「その顔、中学の数学で見飽きてます」


 俺は終わった。


 高岡が小声で言った。


「藤谷、呼吸」


「してる。たぶん」


 坂本さんは数秒黙ったあと、資料をめくった。


「なら、仕事の話をする」


「はい」


 仁くんの声も、すっと変わった。


 さっきまで少し尖っていた雰囲気が、仕事用の顔になる。


 その切り替わりが、妙に速かった。


「トップページの構成だが」


「はい」


「ファーストビューで訴求を絞った理由は」


「ユーザーに最初から選ばせすぎると離脱するからです。今のサイトは、入口で全部見せようとして、逆に何を見ればいいか分からなくなってます」


 坂本さんの指が、資料の上で止まった。


「続けろ」


「はい。情報量自体は減らしてません。順番を変えました。知りたい人が自然に下へ進めるようにしてあります」


「この導線だと、既存顧客向けの情報が弱くならないか」


「そこは下層に専用ページを作ったほうがいいです。トップで全部拾おうとすると、新規にも既存にも中途半端になります」


 坂本さんが黙った。


 仁くんも黙った。


 無言と無言が向かい合っている。


 怖い。


 でも、会話の中身はまともだった。


 いや、まともどころか、かなり的確だった。


 高岡が小声で言った。


「普通に優秀だな」


「うん」


 俺は頷いた。


「ただ、怖がらない」


「そこなんだよな」


 会議が進むにつれ、仁くんの案がただの勢いで作られたものではないことが分かってきた。


 見た目だけじゃない。


 使う人のことを考えている。


 情報をどう渡せば迷わないか、どこで立ち止まるか、何を削れば伝わるか。


 かなり考えている。


 そして、言葉が鋭い。


「ここ、藤谷さんが作った原稿ですよね」


「えっ、はい」


「伝えたいことが多いのは分かるんですけど、ユーザーに全部背負わせてます」


「全部背負わせてる」


「はい。読ませる前提になってます。見て分かる形にしたほうがいいです」


 刺された。


 かなり真っすぐ刺された。


 俺は胸を押さえた。


 高岡が隣で言った。


「大丈夫か」


「今、導線で刺された」


「新しい刺され方だな」


 仁くんは真面目な顔で続けた。


「半分くらい削れます」


「半分」


「はい」


 坂本さんが資料を見た。


「妥当だな」


 増えた。


 敵が増えた。


 会議が一段落したところで、朝倉さんが会議室に顔を出した。


「お、やってるな」


 便利な人が来た。


 坂本さんに関することを、だいたい知っている人。


 そして、爆弾を軽く投げる人。


「朝倉さん」


 俺は思わず声をかけた。


「白石くんって、Webデザインやってたんですね」


「ああ。最近かなり本格的にやってるらしいぞ」


 朝倉さんは、当たり前みたいに言った。


「美沙ちゃん、昔ちょっと無理しすぎたからな」


「無理?」


 俺が聞くと、朝倉さんは少しだけ声を落とした。


「仁の学費とか、生活のこととか。あの人、自分のこと後回しにするところあるだろ。働きすぎて体壊して、今は休んでる」


 俺は、会議室の向こうを見た。


 仁くんは坂本さんと、下層ページの修正について話していた。


 さっきと同じように、遠慮なく意見を言っている。


 でも、その横顔が、少し違って見えた。


「だから、仁は姉さんにこれ以上無理させたくないんだろうな」


 朝倉さんはコーヒーを片手に言った。


「自分で稼げるようになりたくて、始めたんじゃないか。あいつ、頭いいし、覚えるの早いから」


「……そうなんですね」


「まあ、半分はシスコンだけど」


 朝倉さんがさらっと言った。


「半分は?」


「恩返し」


 その言葉は、思ったより静かに胸に残った。


 さっきまで、俺は仁くんのことを、坂本さんを怖がらない謎の生物だと思っていた。


 いや、それは今も思っている。


 でも、それだけじゃない。


 美沙さんに守られてきた人で。


 今度は、自分が守りたい人で。


 そのために、ちゃんと力をつけようとしている人なのだ。


 少し、見る目が変わった。


 その瞬間。


「藤谷さん、この文章も削れます」


 仁くんの声が飛んできた。


「今ですか」


「今です」


 見る目は変わった。


 でも刺さるものは刺さる。


 高岡が小さく言った。


「恩返しの刃だな」


「刃であることは否定しないんだな」


 夕方になり、打ち合わせはようやく終わった。


 仁くんの提案は厳しかったが、どれも筋が通っていた。


 俺の原稿はかなり削られた。


 だが、悔しいことに、分かりやすくなった。


 かなり。


 会議室を出る前、仁くんが坂本さんに向き直った。


「姉さんに、余計な心配かけないでくださいね」


 空気が止まった。


 仕事の会議室で、突然、私情が顔を出した。


 俺は身構えた。


 坂本さんは少しだけ目を細めた。


 けれど、その声は静かだった。


「それは俺に言うことじゃない」


 仁くんの眉が動いた。


 坂本さんは続けた。


「俺も同じ意見だ」


 仁くんが、一瞬だけ黙った。


 噛みつく言葉を探して、見つからなかったように見えた。


「……なら、いいです」


「よくはない。お前も無理をするな」


「俺は別に」


「ミサが心配する」


 仁くんが、完全に黙った。


 強い。


 坂本さん、強い。


 姉さんカードを切った。


 仁くんは視線を逸らした。


「……分かってます」


 その言い方が、年相応に見えた。


 さっきまで正面からドアを蹴破っていた人が、少しだけ弟の顔になった。


 そのとき、坂本さんのスマホが震えた。


 画面を見た坂本さんの表情が、ほんの少しだけ変わった。


 俺は見てしまった。


 通知名。


 ミサちゃん


 やめてほしい。


 心臓に悪い。


 坂本さんは電話には出ず、短く返信を打った。


 その指の動きが、仕事のときより明らかに柔らかい気がした。


 いや、指の柔らかさとは何だ。


 俺は疲れている。


 仁くんがそれを見て、顔をしかめた。


「姉さんにその感じ出すの、まだ慣れないんですけど」


 坂本さんはスマホを伏せた。


「慣れなくていい」


「慣れません」


「なら問題ない」


 会話が成立しているようで、していない。


 でも、不思議と険悪ではなかった。


 俺には、少し分かった気がした。


 この二人は、同じ人を大事にしている。


 だからぶつかる。


 だから噛みつく。


 でも、根っこは同じ方向を向いている。


 たぶん。


 たぶんだけど。


 帰り際、仁くんが俺のほうへ来た。


「藤谷さん」


「はい」


 身構えた。


 また原稿を削られるのかと思った。


「資料、情報量は多いですけど、ちゃんと伝えようとしてるのは分かりました」


「え」


「だから、整理すればもっと良くなると思います」


 不意打ちだった。


 褒められた。


 いや、褒められたのか?


 たぶん。


「……ありがとう」


「でも半分は削れます」


「戻ってきた」


 やっぱり刃だった。


 仁くんは少しだけ笑った。


 その顔は、美沙さんに少し似ていた。


 柔らかくて、でも芯が強い感じ。


 俺は、なんとなく納得した。


 ああ。


 この人も、美沙さんの家族なんだな。


 その日の帰り、高岡と並んで廊下を歩きながら、俺は言った。


「坂本さんを怖がらない人間って、存在するんだな」


「存在したな」


「しかも採用されたな」


「実力でな」


 俺は振り返った。


 会議室の中では、坂本さんと仁くんが、まだ修正方針について話していた。


 静かに逃げ道を閉じる男と。


 正面からドアを蹴る男。


 その二人が、同じ資料を見ている。


 怖い。


 かなり怖い。


 でも、少しだけ、悪くない光景だった。


 俺は静かに息を吐いた。


「高岡」


「何だ」


「俺、今日から二方向に気をつける」


「前と後ろか?」


「坂本さんと仁くん」


 高岡は少し考えてから、頷いた。


「妥当だな」


 やめろ。


 坂本さんみたいに言うな。


 その翌日。


 俺の修正した原稿を見た坂本さんは、いつも通り静かに言った。


「まだ削れる」


 そして、その横に赤字で仁くんのコメントが入っていた。


『ここも短くできます』


 俺は画面を見つめた。


 逃げ道を閉じる人が、増えた。


 しかも、外部から。


 コンペという言葉には、どこか華やかな響きがある。


 俺はもう、そう思えない。

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