朝倉さんはジャイアンだった
会社の飲み会というものは、油断してはいけない。
仕事中には聞けない話が聞ける。
普段なら絶対に開かない引き出しが、酒と唐揚げと枝豆の力で、なぜか少しだけ開く。
だから俺は、その日、ほんの軽い気持ちで聞いただけだった。
「朝倉さんって、坂本さんとはいつからのお知り合いなんですか?」
隣で高岡が烏龍茶を飲んでいた。
向かいの席では、朝倉さんがビールのジョッキを片手に、焼き鳥の串を皿に置いていた。
ちなみに坂本さんは、まだ来ていない。
別件の電話が長引いているらしい。
つまり今この場は、比較的安全だった。
比較的、である。
朝倉さんは「あー」と、軽く天井を見上げた。
「小四」
「小四」
俺は復唱した。
思ったより古かった。
「小学校四年の春かな。あいつが転校してきたんだよ」
「へえ……」
坂本さんにも、小学生時代があった。
それは当然のことだ。
当然なのだが、いまいち想像ができない。
ランドセルを背負った坂本さん。
黄色い帽子をかぶった坂本さん。
給食袋を持った坂本さん。
駄目だ。
どれも、資料レビューで前提条件を詰めてきそうな顔をしている。
「当時の朝倉さんは、どんな子どもだったんですか?」
高岡が、静かに聞いた。
朝倉さんは、少しも迷わず答えた。
「ジャイアン」
場が止まった。
いや。
俺が止まった。
「……ジャイアン?」
「うん。ジャイアン的だった」
朝倉さんは、あまりにも軽く言った。
まるで「昔はサッカーやってた」くらいの温度だった。
違う。
情報量が違う。
俺は箸を持ったまま固まった。
朝倉さんがジャイアン。
誰だ。
いや、朝倉さんだ。
でも、ジャイアン。
「え、あの……それは、どういう方向の……」
「威張ってた」
「直球」
高岡が小さく言った。
朝倉さんは笑った。
「小学生男子ってさ、あるだろ。クラスの中心にいたいとか、転校生にはちょっと強く出たいとか」
「ありますけど」
「俺はそれが、やや強めだった」
「やや」
俺は思った。
たぶん、ややではない。
朝倉さんは、楽しそうに続けた。
「で、坂本が転校してきたわけ。無口で、姿勢がよくて、先生の話をちゃんと聞いてて、でも周りに媚びない。あの頃から、あいつはあいつだった」
そこだけ、少し声がやわらかくなった。
茶化しているようでいて、ちゃんと覚えている声だった。
「最初に話しかけたんですか?」
「まあな」
「普通に?」
「いや」
朝倉さんはビールを一口飲んだ。
「脅した」
俺は箸を落とした。
高岡が黙って拾ってくれた。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
高岡は落ち着いていた。
落ち着いているが、目は少しだけ笑っている。
「脅したって、何を言ったんですか……」
「ランドセル持てって」
「小学生男子の悪い部分が凝縮されてますね」
「だろ」
「褒めてません」
朝倉さんは悪びれなかった。
むしろ、懐かしそうだった。
「そしたら坂本が俺を見てさ」
朝倉さんは、少しだけ目を細めた。
俺は反射的に背筋を伸ばした。
やめてほしい。
坂本さんの目の細まり方を、幼馴染みが再現しないでほしい。
「『自分の荷物は自分で持つべきだと思うが』って」
「小四で?」
「小四で」
「坂本さんだ……」
思わず声が漏れた。
完全に坂本さんだった。
そこにいる。
ランドセルを背負った小四の坂本さんが、そこにいる。
しかも、ジャイアン朝倉少年の前で一ミリも引いていない。
「俺もさ、ムッとしたわけ。何だこいつって」
「まあ、朝倉さん側からするとそうでしょうね」
「だから次の日も絡んだ」
「やめてください」
「その次の日も」
「やめてください」
「一週間くらい」
「もうやめてください」
俺は本気で止めた。
過去の朝倉少年に届かないのは分かっている。
でも止めたかった。
「でも坂本、全部同じ温度なんだよ。怒らない。泣かない。先生にも言わない。ただ毎回、俺の言ってることの非合理性を説明してくる」
「嫌な小学生ですね」
高岡が静かに言った。
「どっちが?」
「両方です」
俺は頷いた。
その通りだと思った。
威張る朝倉少年も嫌だし、威張られた返答として非合理性を説明してくる坂本少年も、別方向に嫌だ。
「でも、俺はそこで気に入ったんだよな」
朝倉さんは笑った。
「こいつ、面白いなって」
その言い方は、思ったよりずっと穏やかだった。
ジャイアンが、転校生を気に入った。
ただし相手は、泣かないし、逃げないし、屈しない。
朝倉少年の雑な力に対して、坂本少年は、たぶん、静かな理屈で立っていた。
「そこから仲良くなったんですか?」
「仲良くなった、というより」
朝倉さんは首を傾げた。
「俺が一方的に近くにいた」
「嫌な言い方ですね」
「坂本にも言われた」
でしょうね。
言っただろう。
坂本さんなら絶対に言う。
「中学も一緒だったんですか?」
「一緒。俺が同じとこ受けた」
「え」
「高校も」
「え」
「大学も」
「えっ」
「で、今」
俺は口を開けたまま、朝倉さんを見た。
高岡が烏龍茶のグラスを置く。
「朝倉さん」
「ん?」
「それ、ほぼ追跡では」
「違う違う。友情」
「友情の側から確認を取りたいです」
俺は言った。
すると朝倉さんは、少しだけ笑って肩をすくめた。
「坂本は嫌そうだったけどな」
「でしょうね」
高岡が即答した。
俺も心の中で深く頷いた。
嫌だっただろう。
小四でランドセルを持てと言ってきた元ジャイアンが、中学にも高校にも大学にもいる。
怖い。
坂本さんじゃなかったら、普通に怖い。
だが坂本さんは、たぶんその都度、静かに言ったのだ。
またお前か。
いや、言葉にはしないかもしれない。
でも目は言う。
確実に言う。
「でもさ」
朝倉さんは、ふっと声を落とした。
「坂本って、昔から変なやつでさ。人に合わせるのは上手くないんだけど、人を見捨てるのも下手なんだよ」
「見捨てるのが、下手」
「うん。俺が調子乗りすぎた時も、あいつだけは怒鳴らなかった。ただ、『それは相手にとって不利益が大きい』って言う」
「小学生が?」
「小学生が」
俺は頭を抱えた。
坂本さん。
あなたは本当に、いつから坂本さんなんですか。
「それで、朝倉さんは変わったんですか?」
高岡が聞いた。
朝倉さんは少し考えた。
「まあ、多少は」
「多少」
「人のランドセルは持たせなくなった」
「最低ラインを超えただけですね」
高岡のツッコミは今日も淡々としている。
朝倉さんは楽しそうだった。
「でも、坂本がいたからだと思うよ。俺、あいつにだけは、なんか負けた気がしてたから」
「負けた?」
「そう。ビビらせようとしてもビビらない。従わせようとしても従わない。こっちが雑に力で押すと、あいつは静かに正論で壁を作る」
あ。
それは、分かる。
俺たちは仕事で、日々その壁にぶつかっている。
ただしこちらは、ランドセルではなく資料である。
前提条件。
数字。
根拠。
逃げ道。
坂本さんは、静かに壁を作る。
そしてこちらは、静かに詰む。
「だから、すごく気に入った」
朝倉さんは言った。
「俺の世界って、当時は結構単純だったんだよ。強く言えば通る。大きい声出せば勝てる。そういう感じ」
でも、と朝倉さんは続けた。
「坂本には通らなかった」
その声には、笑いと、少しだけ尊敬が混じっていた。
俺はなんとなく、目の前の朝倉さんが、少しだけ小学生に見えた。
威張っていて、強がっていて、でも、自分の思い通りにならない転校生を見つけて、どうしようもなく気になってしまった男の子。
ジャイアンだった朝倉さん。
それに屈しなかった坂本さん。
なんだそれ。
ちょっといい話じゃないか。
そう思った、その時だった。
「何の話だ」
背後から声がした。
俺は、ほぼ反射で背筋を伸ばした。
高岡もグラスを置いた。
朝倉さんだけが、まったく動じずに手を上げた。
「お、坂本。お前の話」
「嫌な予感しかしない」
坂本さんが席に着いた。
いつもの黒いジャケット。
いつもの落ち着いた顔。
ただ、飲み会の空気に合わせて、少しだけ雰囲気はやわらかい。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
「朝倉さんが、昔ジャイアンだった話です」
俺は正直に言った。
坂本さんは、朝倉さんを見た。
朝倉さんは笑った。
「懐かしいだろ」
「懐かしくはない」
「小四の俺、元気だったよな」
「迷惑だった」
「そこまで言う?」
「事実だ」
出た。
事実。
坂本さんの「事実」は強い。
ナイフより切れる時がある。
「藤谷」
「はい」
急に呼ばれて、俺は箸を握りしめた。
「朝倉の話は、三割引いて聞け」
「三割でいいんですか?」
「昔の話なら、五割でもいい」
「増えた」
高岡が小さく笑った。
朝倉さんは不満そうに言う。
「いやいや、だいたい合ってるだろ。俺がジャイアンで、お前が転校生で」
「分類が雑だ」
「でも俺、お前のこと気に入って、中学も高校も大学も一緒に行ったし」
「その言い方だと、俺が被害者に見える」
「違うのか?」
「半分はな」
「半分あるんだ」
俺は思わず言ってしまった。
坂本さんがこちらを見た。
終わった。
と思った。
しかし坂本さんは、特に詰めてこなかった。
ただ、少しだけ息を吐いた。
「……朝倉は昔、距離の詰め方が雑だった」
「今もでは?」
高岡が言った。
坂本さんは即答した。
「今もだ」
「おい」
朝倉さんが笑いながら抗議する。
坂本さんは淡々と続けた。
「ただ、昔よりは言語化が増えた」
「成長の方向性、そこなんですね」
俺は小さく言った。
坂本さんは聞こえていたらしい。
「それでも成長は成長だ」
「すみません」
褒めているのか。
褒めているのだろう。
たぶん。
朝倉さんは、ビールのグラスを持ち上げた。
「まあ、いいだろ。元ジャイアンが、静かな転校生に負けて、結果的に二十年以上つるんでるんだから」
「美談にするな」
「美談だろ」
「違う」
「友情だろ」
「お前が勝手に続けた執着だ」
「言い方」
俺はまた箸を落としかけた。
高岡が、今度は事前に皿をずらしてくれた。
できる同期である。
朝倉さんは笑っていた。
坂本さんも、表情はほとんど変わらない。
けれど。
ほんの少しだけ、目元がゆるんでいる気がした。
美沙さんの前で見せるあの柔らかさとは違う。
もっと古くて、少し呆れていて、それでも切り捨てない顔。
長く一緒にいた相手にだけ向ける、雑だけど確かな温度。
俺は、それを見てしまった。
まただ。
また坂本さんの未知の面を見てしまった。
この人は怖い。
資料レビューでは本当に怖い。
前提が甘いと、静かに逃げ道を閉じてくる。
けれど、その怖さの奥には、仕事への責任感があって。
美沙さんの前では、信じられないほど声がやわらかくなって。
仁くんには、昔から面倒を見てきた相手みたいに少し雑で。
そして朝倉さんには、二十年以上分の呆れと信頼を、当然のように向けている。
情報が多い。
坂本さん情報が、多い。
俺の処理能力を超えている。
「藤谷」
「はい!」
坂本さんに呼ばれて、今度こそ背筋が伸びた。
「明日の会議資料、確認したか」
来た。
現実が来た。
「はい。一通り確認しました」
「一通り、では足りない。前提条件の表記が二箇所曖昧だった」
「すみません、戻ったら修正します」
「飲み会の後に作業する必要はない。明日の朝でいい。ただし、九時半までに直せ」
「はい」
怖い。
やっぱり怖い。
飲み会でも怖い。
でも、少しだけ違う。
さっきまで小四の坂本さんの話を聞いていたせいで、俺の頭の中には、ランドセルを背負った坂本少年がいる。
その少年は、ジャイアン朝倉に向かって言ったのだ。
自分の荷物は自分で持つべきだと思うが。
強い。
小四の時点で、もう強い。
朝倉さんは坂本さんの肩に軽く手を置こうとして、坂本さんに無言で避けられていた。
「避けるなよ」
「近い」
「小四からの仲だろ」
「小四からだから許されることと、許されないことがある」
「手厳しい」
朝倉さんは笑っている。
坂本さんは呆れている。
高岡は静かに烏龍茶を飲んでいる。
俺は思った。
朝倉さんは、たぶん本当にジャイアンだった。
でも、坂本さんの前では、昔から勝てなかった。
そして坂本さんは、昔から坂本さんだった。
怖くて、正しくて、静かで。
でも、一度懐に入れた相手を、案外ずっと見捨てない人。
その事実に、少しだけ胸があたたかくなった。
その直後、坂本さんがこちらを見た。
「藤谷」
「はい」
「ちなみに、明日の資料の二箇所は、どこか分かっているな」
分かっていなかった。
俺は静かにグラスを置いた。
世界が、閉じた。
隣で高岡が小さく言った。
「戻ってきたな」
何が、とは聞かなかった。
坂本さんは、今日も坂本さんだった。
朝倉さんは、昔ジャイアンだった。
そして俺は、明日の朝九時半までに、前提条件の曖昧な二箇所を探さなければならない。
友情とは。
人生とは。
飲み会とは。
俺は唐揚げを一つ食べた。
冷めていた。
でも、ちょっとだけおいしかった。




