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朝倉さんは全部知っている

翌日の昼休み、俺は高岡に言った。


「昨日、人類史が変わった」


「主語が大きいな」


 高岡はコンビニのサンドイッチを開けながら、まったく動じずに言った。


 こういうところが高岡である。


 同期でありながら、俺が世界の崩壊を報告しても、まず包装フィルムの開け口を探す男。


「坂本さんの目が細くなったんだぞ」


「いつもだろ」


「違う。昨日は、その目が効かなかった」


 高岡の手が止まった。


 よし。


 やっと事態の重大さが伝わった。


「……仁くんか」


「そう。美沙さんの弟さん」


 俺は声を潜めた。


 会社の休憩スペースだ。


 誰が聞いているか分からない。


 いや、聞かれて困るような話ではないのかもしれないが、坂本さん関連の情報は基本的に取り扱い注意物件である。


 下手に触ると、こちらの前提条件が詰められる。


「昨日、坂本さんに向かって言ったんだぞ。『その顔、中学のときから効かないんで』って」


「言ってたな」


「言ってたな、じゃない。事件だろ」


「事件ではある」


 高岡はようやく頷いた。


 だが頷き方が静かすぎる。


 俺の中では、すでに新聞の号外が出ている。


 坂本一志の細い目、無効化される。


 全社員震撼。


「だって、あの目だぞ。俺たちが見た瞬間に、自分の資料の誤字から人生の選択ミスまで思い出す、あの目だぞ」


「藤谷は範囲が広いな」


「広くなるだろ、あれは」


 坂本さんは怒鳴らない。


 怒鳴らないから余計に怖い。


 声を荒げず、論点を整理し、前提を確認し、逃げ道を一本ずつ閉じてくる。


 だから目が細くなった瞬間、俺たちは悟る。


 あ、終わった。


 それを、仁くんは。


 効かない。


 と言った。


「どういう育ち方をしたら、坂本さんの細い目に耐性がつくんだ」


「ワクチンみたいに言うな」


「実質ワクチンだろ。俺にも接種してほしい」


「副反応で坂本さんに噛みつくようになるかもしれないぞ」


「それは死ぬ」


 そのときだった。


「何の話?」


 背後から、明るい声がした。


 俺はサンドイッチを落としかけた。


 振り返ると、朝倉さんが紙コップのコーヒーを持って立っていた。


 坂本さんの同期、朝倉晴臣さん。


 声が大きくて、よく笑う。


 坂本さんの同期というだけで、まず生存能力が高い人だと思っている。


「あ、朝倉さん」


「坂本の話?」


 なぜ分かる。


 いや、分かるか。


 俺の声がたぶん震えていた。


「はい。昨日、美沙さんの弟さんが来られて」


「ああ、仁か。」


 軽い。


 あまりにも軽い。


 朝倉さんは、俺たちのテーブルに自然に入ってきて、向かいの椅子に座った。


「あいつ、来たんだ」


「ご存じなんですか」


「知ってるよ。昔から」


 昔から。


 また出た。


 坂本さん関連でいちばん怖い言葉。


 俺たちが知らない坂本さんを、当然のように知っている人が使う言葉。


「仁くんって、何者なんですか」


 俺は思い切って聞いた。


 高岡が隣でサンドイッチを置いた。


 これは聞く価値がある、と判断したらしい。


 朝倉さんは少し考えてから、こともなげに言った。


「美沙ちゃんの弟」


「それは知ってます」


「坂本の元教え子」


「え?」


「家庭教師してたんだよ、坂本が。大学の頃に。中学生だった仁の」


 俺の脳が止まった。


 家庭教師。


 坂本さんが。


 中学生に。


「生徒、生きてたんですか」


「昨日来ただろ」


 高岡が即答した。


 確かに。


 生きている。


 むしろ元気だった。


 元気すぎて坂本さんに噛みついていた。


「いやでも、坂本さんが家庭教師って……」


 俺は想像した。


 大学生の坂本さん。


 机。


 参考書。


 中学生の仁くん。


 そして、静かに細くなる目。


 無理だ。


 中学生の俺なら泣く。


「怖くなかったんですか、仁くん」


「怖かったと思うよ」


「怖かったんですか」


「うん。でも仁は、怖いからって黙るタイプじゃなかった」


 朝倉さんはコーヒーを一口飲んだ。


「分からない問題があると、坂本が静かに詰めるだろ。『どこまで分かっている』『なぜそこでその式を使った』『その前提はどこから来た』って」


「仕事と同じじゃないですか」


「同じだな」


 中学生相手にも同じ。


 坂本さん、ぶれない。


 ぶれなさすぎる。


「で、仁くんは?」


「『分かってたら聞いてません』って言い返してた」


 強い。


 中学生の時点で、もう強い。


「坂本さん、怒らなかったんですか」


「怒鳴りはしなかったよ」


「それは今もです」


「ただ、目は細くなってた」


「でしょうね」


「でも仁は、『その顔しても分かんないものは分かんないです』って言ってた」


 完成されている。


 昨日のあれは、突然変異ではなかった。


 積み重ねだ。


 中学生の頃から、坂本さんの細い目に毎週さらされ続けた結果、仁くんは耐性を獲得したのだ。


 やはりワクチンでは。


「坂本さん、よく家庭教師続けましたね」


 高岡が言った。


 朝倉さんは少し笑った。


「仁は、頭はいいからね。口は悪いけど、理解は早い。坂本も、そこは面白かったんだと思う」


「面白い」


 俺は復唱した。


 坂本さんにも、面白いと思う感情がある。


 いや、あるのは分かっている。


 分かっているけど、資料レビューのときには観測できない。


「それに、美沙ちゃんがいたから」


 朝倉さんが何気なく言った。


 俺と高岡は、同時に顔を上げた。


 出た。


 美沙さん。


 職場の坂本さんを別人にする人。


「もしかして、美沙さんと坂本さんの出会い?」


「うん。家庭教師を頼んだのは美沙ちゃんだ。」


 朝倉さんは、少しだけ声を落とした。


 でも重くはしなかった。


 昔話を、昼休みのテーブルに置くくらいの軽さだった。


「美沙ちゃんと仁って、ちょっと独特なんだよ。姉弟なんだけど、ただの姉弟っていうより、二人でやってきた感じがある」


 二人でやってきた。


 その言葉が、妙に引っかかった。


「仁は、ずっと美沙ちゃんに守られてきたんだと思う。だから今は、自分が守りたいんだろうな」


「それで、坂本さんに噛みつくんですか」


「そう」


 朝倉さんはあっさり頷いた。


「あれ、坂本が嫌いなんじゃないよ」


「違うんですか」


「違うと思う。実力は認めてるし、美沙ちゃんを大事にしてるのも分かってる。でも、それとこれとは別なんだろ」


「別」


「姉さんを任せるのは納得できない。でも坂本以上に任せられる相手もたぶんいない。だから腹が立つ」


 面倒くさい。


 でも、分かる気もした。


 仁くんは昨日、坂本さんに噛みついていた。


 けれど最後に、俺たちに言った。


 根は悪い人じゃないので。


 姉さんが選んだ人なので。


 そこは、まあ、信用してます。


 あれはたぶん、仁くんなりの最大限の譲歩だったのだ。


「つまり、仁くんは……」


 俺は慎重に言った。


「番犬ですか」


「言い方」


 高岡がすぐ突っ込んだ。


 朝倉さんは笑った。


「まあ、噛みつき型の番犬ではある」


「やっぱり番犬じゃないですか」


「しかも坂本に吠えるタイプのな」


 坂本さんに吠える番犬。


 強い。


 強すぎる。


 配置する場所を間違えたら、社内のパワーバランスが崩れる。


「でも坂本さん、仁くんには少し違いましたよね」


 高岡が言った。


「藤谷に詰めるときとは違った」


「比較対象に俺を使うな」


「分かりやすいから」


 分かりやすいのは認める。


 昨日の坂本さんは、仁くんに対して少し雑だった。


 駅まで送らなくていいのか、とか。


 方向感覚は伸びていない、とか。


 仕事中の坂本さんなら言わないようなことを、普通に言っていた。


「あれは、昔から見てるからじゃないかな」


 朝倉さんが言った。


「仁が中学生の頃から知ってるし、美沙ちゃんがどれだけ仁くんを大事にしてるかも見てる。だから坂本も、仁に対しては後輩相手とは違うんだと思う」


「なるほど……」


 俺は思わず頷いた。


 坂本さんの知らない顔が、また増えた。


 怖い上司。


 美沙さんの前で柔らかくなる恋人。


 仁くんに少し雑になる元家庭教師。


 情報量が多い。


 ひとりの人間に、そんなに面があると知ってはいたが、坂本さんの場合、一面ごとの温度差が激しすぎる。


 寒暖差で風邪をひく。


「まあ、坂本も昔から美沙ちゃんには弱いしな」


 朝倉さんが、追加で爆弾を落とした。


 俺は固まった。


 高岡も、わずかに目を細めた。


「昔から?」


「うん」


「昔から、とは」


「昔から」


「朝倉さん」


「何?」


「こちらは初心者なので、情報を小分けにしてください」


 朝倉さんはきょとんとした顔をした。


 本当に悪気がない。


 怖い。


 爆弾を爆弾だと思っていない人が、一番怖い。


「え、でも見たんだろ? 坂本が美沙ちゃんに甘いところ」


「見ましたけど」


「じゃあ分かるじゃん」


「分かりません」


 俺は即答した。


「見たことと理解できることは別です」


「真理だな」


 高岡が頷いた。


 朝倉さんは楽しそうに笑った。


「坂本って、仕事だとあんな感じだろ」


「あんな感じです」


「逃げ道を閉じる人です」


 俺と高岡が同時に答えた。


「でも、美沙ちゃん相手だと、逃げ道を作るんだよ」


 俺は黙った。


 高岡も黙った。


 朝倉さんは、何でもないことみたいに続けた。


「無理に言わせない。急かさない。美沙ちゃんが『大丈夫』って言ったら、たぶん一回引く。でもちゃんと見てる。そういう感じ」


 昨日、仁くんが言っていた。


 姉さんが『大丈夫』って言ったら一回引くでしょう。


 坂本さんは、黙っていた。


 あれは、図星だったのだ。


「仁はそこが心配なんだろうな。美沙ちゃんが平気なふりをするのを、ずっと近くで見てきたから」


 休憩スペースのざわめきが、少し遠くなった。


 ただのシスコン。


 そう言えば、簡単に笑える。


 実際、仁くんはかなり面倒くさい。


 おそらく過保護だし、坂本さんに対しては必要以上に噛みつく。


 でもその根っこにあるのは、ちゃんと感謝で、心配で、守りたい気持ちなのだ。


 それは少しだけ、笑えないくらい真っ直ぐだった。


「なんか……いい話ですね」


 俺が小さく言うと、朝倉さんは頷いた。


「いい話だよ」


 そして、すぐに付け足した。


「守り方がだいぶ噛みつき型なだけで」


「台無しです」


「事実だから」


 あたたかさが、ちょうどよくコメディに戻された。


 助かる。


 あまり深くしみじみすると、昼休みのサンドイッチが進まなくなる。


 そのとき、休憩スペースの入口に、人影が立った。


 坂本さんだった。


 俺の背筋が伸びた。


 反射である。


 条件反射ともいう。


「朝倉」


 坂本さんが言った。


「おう」


「ここにいたのか」


「いた」


「午後の打ち合わせ、五分前だ」


「分かってる」


 朝倉さんはまったく急がずにコーヒーを飲み干した。


 強い。


 同期というのは、こういう生き物なのか。


 坂本さんの視線が、俺たちに移った。


「藤谷、高岡」


「はい」


「午後、昨日の修正分を確認する」


 来た。


 現実。


 昼休みの余韻を一瞬で業務に戻す男。


「藤谷」


「はい」


「前四半期比の差し替えは終わっているか」


「はい。午前中に修正しました」


「根拠資料は?」


「添付しています」


「確認した数字は?」


「元データと集計表と、前回資料の三点です」


 坂本さんは、少しだけ目を細めた。


 俺の心臓が縮んだ。


 だが、次の言葉は意外なものだった。


「ならいい」


 ならいい。


 褒められたわけではない。


 だが、処刑もされなかった。


 俺は生還した。


「お、藤谷くん、成長してるじゃん」


 朝倉さんが軽く言った。


「やめてください。今、油断すると死にます」


「戦場?」


「資料レビューです」


「似たようなものか」


 似ていないと言いたい。


 でも少し似ている。


 坂本さんが朝倉さんを見た。


「余計なことを話していないだろうな」


「昔話ならした」


「それを余計なことと言う」


「別にいいだろ。仁の話くらい」


 坂本さんの目が、また細くなった。


 俺は思った。


 終わった。


 朝倉さん、終わった。


 だが朝倉さんは、まったく怯まなかった。


「その顔、俺にも昔から効かないぞ」


 いた。


 ここにもいた。


 耐性持ちが。


 俺は高岡の袖を掴んだ。


「高岡」


「何だ」


「耐性持ち、複数確認」


「落ち着け」


「生態系が違う」


「落ち着け」


 坂本さんは小さくため息をついた。


「会議に行くぞ」


「はいはい」


 朝倉さんが立ち上がる。


 そして、去り際に俺たちのほうを振り返った。


「まあ、あれだよ」


「はい」


「仁も坂本も、美沙ちゃんが大事なんだよ。方向が違うだけで」


 そう言って、朝倉さんは坂本さんの後を追った。


 坂本さんは何も言わなかった。


 ただ一瞬だけ、視線を横に流した。


 たぶん、否定はしなかった。


 休憩スペースに、俺と高岡だけが残された。


「情報量が多かったな」


 高岡が言った。


「多かった」


「坂本さんにも過去があるんだな」


「当たり前だろ」


 俺はそう言ってから、少し黙った。


 当たり前だ。


 坂本さんにも学生時代があり、家庭教師をしていた頃があり、仁くんに噛みつかれていた時間があり、美沙さんと出会った頃がある。


 そして今も、仕事では怖い。


 恋人には甘い。


 元教え子には少し雑で。


 同期には細い目が効かない。


 世界は複雑だ。


「でもさ」


 俺は言った。


「仁くんが坂本さんを怖がらない理由、少し分かった気がする」


「うん」


「美沙さんを守りたいんだな」


「そうだな」


「まあ、守り方は噛みつき型だけど」


「そこは一致してるな」


 俺たちは同時に頷いた。


 少しだけ、仁くんのことが分かった気がした。


 そして少しだけ、坂本さんのことも。


 怖いだけではない。


 冷たいだけでもない。


 ただ、仕事中は普通に怖い。


 午後の会議室で、俺はそれを再確認した。


 坂本さんは俺の修正資料をめくり、静かに言った。


「藤谷」


「はい」


「ここ、前提は直っている」


「はい」


「だが、説明文が曖昧だ」


「はい」


「なぜ曖昧なまま残した?」


 逃げ道が一本、閉じた。


 俺は思った。


 朝倉さんは全部知っている。


 仁くんは坂本さんを怖がらない。


 美沙さんは坂本さんを柔らかくする。


 でも俺は。


 今日も普通に詰められている。


 世界は、やっぱり公平ではなかった。

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