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坂本さんを怖がらない人が来た日

坂本さんの目が細くなった。


 終わった。


 俺はそう思った。


 いや、正確には、俺だけではない。会議室にいた全員が、資料の該当ページを見たまま、心の中で一斉に正座した。


 坂本さんは怒鳴らない。


 机も叩かない。


 ただ、資料の上に視線を落とし、ほんの少しだけ目を細める。


 それだけで、人は自分の人生を振り返る。


「藤谷」


「はい」


 声が出た。


 俺、えらい。


「この売上予測の前提、どこから持ってきた?」


「前回の共有資料からです」


「前回の共有資料は、暫定値だったはずだ」


「……はい」


「暫定値を、確定値として使った理由は?」


 逃げ道が一本、閉じた。


「えっと、そこは……確認が不足していました」


「不足していたのは確認だけか?」


 二本目が閉じた。


 やめてください。


 俺の中の非常ベルが、もう手動ではなく自動で鳴っている。


 隣の高岡が、資料を見たまま小声で言った。


「生きろ、藤谷」


「言葉だけじゃなくて手を貸してくれ」


「今、俺も自分のページを守るので精一杯だ」


 同期、薄情。


 そのときだった。


 会議室のドアが、控えめにノックされた。


「坂本さん、お客様です」


 総務の人が、顔だけ出してそう言った。


 坂本さんが一瞬だけ眉を動かした。


「客?」


「はい。あの……ミサさんの弟さん、とおっしゃっています」


 ミサさん。


 その名前が出た瞬間、会議室の空気が変わった。


 俺と高岡は、同時に顔を上げた。


 ミサさん。


 あの、坂本さんを微笑ませる人。


 あの、坂本さんの声帯を別人仕様に変える人。


 つまり、その弟。


 何それ。


 世界観が増えた。


「通してください」


 坂本さんは短く言った。


 声は仕事用だった。


 まだ硬い。


 まだ怖い。


 ドアが開いた。


 入ってきたのは、大学生くらいの青年だった。


 すらっとしている。整った顔立ちではあるが、穏やかというより、目の奥に妙な勢いがある。


 たとえるなら、成績優秀な猛獣。


 いや、猛獣は言いすぎか。


 でも初対面で「この人、口論になったら絶対引かないな」と分かる雰囲気があった。


 青年は会議室の中をざっと見回して、それから坂本さんを見た。


「一志さん」


 えっ。


 いま、坂本さんを。


 一志さんって。


 呼んだ?


 俺は高岡を見た。


 高岡も俺を見ていた。


 ふたりとも、目で会話した。


 誰だ。


 いや、弟さんだ。


 でも誰だ。


「仁」


 坂本さんが言った。


「大学は?」


「今日は午後休講です。姉さんに頼まれたので来ました」


「ミサが?」


「はい。これ」


 仁くんと呼ばれた青年は、紙袋を差し出した。


「折りたたみ傘と、胃にやさしいお菓子と、あと姉さんからのメモです。『カズくん、昨日遅くまで起きてたから、コーヒー飲みすぎないでね』だそうです」


 会議室が、死んだ。


 カズくん。


 出た。


 職場に出してはいけない名前が出た。


 俺は反射的に資料へ視線を落とした。


 見てはいけない。


 聞いてもいけない。


 だが耳は塞げない。


 人類の仕様ミスだと思う。


 坂本さんは紙袋を受け取った。


 そして。


 ほんの少しだけ、表情をゆるめた。


「……そうか。悪いな」


 声。


 声が。


 やわらかい。


 さっきまで俺の資料から逃げ道を一本ずつ撤去していた声帯が、いま、羽毛布団みたいになった。


 俺の脳が理解を拒否した。


 高岡が隣で小さく息を吐いた。


「また発生したな」


「何が」


「坂本さんの未知領域」


「観測したくなかった」


 仁くんは、そんな俺たちの混乱などまったく気にせず、坂本さんを見上げた。


「姉さん、ちょっと心配してましたよ。最近忙しいんじゃないかって」


「問題ない」


「一志さんの『問題ない』は、問題を問題として認識した上で潰せるという意味であって、体調がいいという意味じゃないので信用してません」


 強い。


 言葉が強い。


 俺は思わず顔を上げた。


 坂本さんの目が、細くなった。


 終わった。


 青年、終わった。


 そう思った。


 なのに。


 仁くんは、一ミリも怯まなかった。


「その顔、中学のときから効かないんで」


 会議室の空気が、音を立てて落ちた。


 俺は椅子から立ち上がりそうになった。


 高岡が俺の袖を掴んだ。


「座れ、藤谷」


「人類史が変わったぞ」


「座って見届けろ」


 坂本さんの、あの細い目。


 チーム全員が「あ、終わった」と悟る、あの細い目。


 それを。


 効かない。


 と。


 言った。


 坂本さんは仁くんを見たまま、数秒黙った。


 俺は心臓が止まるかと思った。


 だが坂本さんは、ため息をついただけだった。


「昔から口は減らないな」


「昔から教え方は怖かったですよ」


「怖がっていなかっただろう」


「怖いとは思ってました。従う気がなかっただけです」


 何それ。


 新種?


 坂本さんの怖さを認識した上で、従う気がない個体?


 研究機関に報告したほうがいいのでは。


 仁くんは、ふと机の上に広がっている資料を見た。


 そして、首を傾げた。


「これ、前年比じゃなくて、前四半期比で見るべきでは?」


 俺の背中に冷たいものが走った。


 坂本さんがゆっくり俺を見た。


 やめろ。


 民間人の発見で処刑台に戻すな。


「藤谷」


「はい」


「今の指摘、どう思う」


 やっぱり戻った。


 処刑台に。


「……その通りだと思います」


「なぜ、仁が見て三秒で気づいた?」


「俺にも分かりません」


「分からないで済ませるな」


 三本目が閉じた。


 仁くんが「あ」と声を出した。


「すみません。余計なこと言いました?」


 余計だよ。


 すごく余計だよ。


 でも正しいから困るんだよ。


 坂本さんは静かに言った。


「いや、助かった」


「ならいいです」


 いいんだ。


 この人、坂本さんに「ならいいです」って言えるんだ。


 俺はもう、仁くんを見る目が変わっていた。


 勇者。


 いや、勇者というより、昔から魔王の城に出入りしていた近所の子。


 怖さの距離感が、根本的に違う。


「ところで」


 仁くんが急に真顔になった。


「姉さん、最近ちゃんと休めてますか」


 坂本さんの表情が、少しだけ変わった。


 仕事の顔ではなくなった。


 けれど、ミサさんの前で見せる柔らかさとも違う。


 落ち着いていて、少しだけ真剣で、逃げずに向き合う顔だった。


「休めている。昨日は早めに寝ていた」


「本当に?」


「本当だ」


「一志さん、姉さんが無理してても気づかないときありますから」


「気づく」


「気づいても、姉さんが『大丈夫』って言ったら一回引くでしょう」


 坂本さんは黙った。


 あ。


 これは図星だ。


 俺でも分かる。


 仁くんは、紙袋の取っ手を指で軽く弾いた。


「姉さん、平気そうにするの上手いんで。そこ、ちゃんと見てください」


 会議室の空気が、少しだけ変わった。


 さっきまでの処理落ちとは違う。


 仁くんの言い方は尖っている。


 でも、その奥にあるのは、姉を取られたくない子どもっぽさだけではなかった。


 ちゃんと、大切にしている。


 大切すぎて、少し面倒くさい方向に全力で走っている。


 坂本さんは、ゆっくり頷いた。


「分かっている」


「分かってるだけじゃなくて、やってください」


「ああ」


 短い返事だった。


 でも、やわらかかった。


 仁くんはそれを確認すると、少しだけ満足したように息を吐いた。


「じゃあ、帰ります。姉さんに、ちゃんと渡したって連絡しておきます」


「送らなくていいのか」


「大学生です」


「駅まで迷ったことがあるだろう」


「あれは中一のときです」


「方向感覚は伸びていない」


「成績は伸びました」


「方向感覚の話をしている」


 何を見せられているんだ。


 坂本さんが、普通に人の過去をいじっている。


 しかも少し雑だ。


 職場の坂本さんではない。


 ミサさんの恋人としての坂本さんでもない。


 昔、家庭教師をしていた相手を見る坂本さんだ。


 俺の知らない坂本さんが、また一人増えた。


 もう増えないでほしい。


 脳の容量が足りない。


 仁くんが会議室を出ていく直前、こちらを振り返った。


「えっと、皆さん」


「はいっ」


 俺はなぜか返事をした。


「一志さん、怖いと思いますけど」


 思います。


 とても。


「根は悪い人じゃないので」


 会議室が静かになった。


 仁くんは少しだけ照れくさそうに視線を外した。


「姉さんが選んだ人なので。そこは、まあ、信用してます」


 そう言って、出ていった。


 ドアが閉まった。


 しばらく、誰も喋らなかった。


 やがて高岡が、ぽつりと言った。


「強かったな」


「強かった」


「坂本さんの細い目、効かなかったな」


「効かなかった」


「耐性持ちだな」


「遺伝じゃないのが残念だ」


 俺たちは、静かに現実を受け入れようとしていた。


 坂本さんは紙袋を机の端に置き、メモを一度だけ見た。


 その表情が、ほんの少しだけゆるんだ。


 そして、すぐに資料へ視線を戻した。


「では、続ける」


 終わった。


 俺は分かっていた。


 やさしい空気は、終わった。


 坂本さんの指が、俺の資料の該当箇所を押さえた。


「藤谷。前年比と前四半期比の使い分けについて、説明してくれ」


 目が細くなった。


 俺は思った。


 仁くん。


 君はすごい。


 君はたぶん、坂本さんを怖がらない希少な人類だ。


 でも、その耐性を俺たちに分ける方法を、ぜひ大学で研究してほしい。


 できれば、卒論で。


 至急で。


「……確認不足でした」


「それは先ほど聞いた」


 逃げ道が、また一本閉じた。


 坂本さんはミサさんの前では微笑む。


 仁くんの前では、少し雑になる。


 そして俺の前では。


 普通に怖い。


 世界は、今日も公平ではなかった。

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