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坂本さんの部屋にシャチがいた日

 坂本さんのリモート会議画面は、いつも整っている。


 余計なものが映らない。


 背景は白い壁。


 机の上も、必要最低限。


 照明の角度も安定している。


 生活感がない。


 いや、人の部屋に生活感がないのはおかしいのだが、坂本さんの場合は納得してしまう。


 坂本さんなら、自宅の空気にも優先順位をつけていそうだからだ。


 そんな坂本さんの画面に。


 今日は、シャチがいた。


 俺は、最初それを認識できなかった。


 定例のリモート会議が始まり、各自が資料を開き、坂本さんがいつものように淡々と進行を始めた。


「では、先にリスク項目の確認から入る」


「はい」


「藤谷」


「はい」


「昨日修正したページを共有してくれ」


「分かりました」


 画面共有をしようとした、その瞬間だった。


 坂本さんの画面の右端に、白と黒の何かが見えた。


 俺は手を止めた。


 何だ。


 白と黒。


 丸い。


 いや、丸くはない。


 大きい。


 目がある。


 ヒレがある。


 シャチだ。


 坂本さんの部屋に、シャチがいた。


「……」


「藤谷?」


「あ、はい。すみません」


 俺は慌てて画面共有を始めた。


 だが、脳が資料に戻らない。


 リスク項目。


 前提条件。


 対応策。


 そういうものを読まなければいけないのに、視界の端にシャチがいる。


 しかも、結構大きい。


 抱き枕サイズだ。


 坂本さんの画面の端に、ぬいぐるみのシャチが、こちらを見ている。


 なぜ。


 誰が。


 どうして。


 坂本さんが?


 いや、違う。


 坂本さんが自分でシャチの抱き枕を買うとは思えない。


 思えない、はずだ。


 だが、もしかしてあり得るのか?


 坂本さんとシャチ。


 結びつかない。


 でもいる。


 画面にいる。


「藤谷」


「はいっ」


 声が裏返った。


 坂本さんが画面越しに俺を見た。


 目が細い。


 リモートでも怖い。


 通信環境を越えて怖い。


「三ページ目だ」


「はい」


「今、二ページ目を説明している」


「はい」


「なぜ三ページ目を開いている」


「……すみません」


 逃げ道が一本、閉じた。


 画面共有中でも閉じる。


 リモートに逃げ場はなかった。


 隣の小窓に映る高岡が、無表情のままチャットを送ってきた。


『見たか』


 俺は手元のチャット欄を見た。


 見たか。


 それは何を指している。


 いや、ひとつしかない。


 俺は、会議用チャットではなく個別チャットで返信した。


『見た』


 高岡から返ってきた。


『シャチだな』


 俺はキーボードを打つ手が震えた。


『やっぱりシャチだよな』


『シャチだ』


『坂本さんの部屋に?』


『坂本さんの部屋に』


『なぜ?』


『知らん』


 知らん。


 高岡が知らない。


 つまり世界の秩序はまだ回復していない。


「藤谷、説明を続けてくれ」


「はい」


 俺はなんとか資料に戻った。


「ええと、三ページ目のリスク項目についてですが、現在、進行遅延の可能性が……」


 言いながら、視界の端にシャチがいる。


 こちらを見ている。


 いや、ぬいぐるみだから見ているわけではない。


 でも見ているように見える。


 坂本さんの背後から、会議を見守るシャチ。


 何だこの状況。


「そのリスクの発生条件は?」


「えっと、前提として外部ベンダーからの回答が遅れた場合です」


「具体的には何営業日以上の遅延を想定している」


「三営業日以上です」


「なら、資料にそう書け」


「はい」


「『遅れた場合』では幅が広い」


「はい」


「判断基準を曖昧にするな」


「はい」


 詰められている。


 普通に詰められている。


 でも背後にシャチがいる。


 情報が渋滞している。


 怖い坂本さん。


 正しい指摘。


 白い壁。


 黒と白のシャチ。


 俺の脳は、どれを優先して処理すればいいのか分からなくなっていた。


 そのとき、会議用チャットに高岡からメッセージが入った。


『すみません、藤谷の資料、該当箇所こちらでも確認します』


 仕事のできる同期。


 ありがとう。


 俺は心の中で拝んだ。


 そして同時に、個別チャットも来た。


『シャチを見るな』


 無理だ。


 見るなと言われても、そこにいる。


 そこにいるものを見るなというのは、人間には難しい。


 しかも坂本さんの部屋にシャチだ。


 見ないほうが不自然だ。


 会議は続いた。


 坂本さんはいつも通りだった。


 淡々と資料を確認し、問題点を整理し、必要な修正を割り振っていく。


 その背後で、シャチはずっといた。


 途中、朝倉さんが画面に入ってきた。


「すみません、遅れました」


「朝倉、五分遅刻だ」


「ごめん。前の会議が押した」


「次から事前に連絡を入れろ」


「はいはい」


 朝倉さんは軽く頭を下げたあと、画面を見た。


 そして一瞬、止まった。


 気づいた。


 朝倉さんが、シャチに気づいた。


 俺は息を呑んだ。


 朝倉さんは、何も言わなかった。


 ただ、ほんの少しだけ口元をゆるめた。


 知っている顔だった。


 まただ。


 この人はまた、何かを知っている。


 坂本さん界隈の古参観測者。


 こちらが世界の崩壊として受け止めるものを、過去の知識で処理している。


 ずるい。


 俺にもその情報を分けてほしい。


 いや、分けられたら分けられたで、また処理落ちするのだが。


「朝倉」


「何?」


「資料を見ろ」


「見てる」


「画面の端を見るな」


「見てない」


「見ている」


 坂本さんが言った。


 見ている。


 つまり。


 坂本さんは気づいている。


 背後にシャチがいることを、気づいている。


 気づいていて、そのまま会議をしている。


 なぜ。


 なぜ退かさない。


 なぜそのままにしている。


 朝倉さんが、すごく楽しそうな顔をした。


「いや、懐かしいなと思って」


「会議中だ」


「はいはい」


 懐かしい。


 懐かしい?


 シャチが?


 坂本さんの部屋のシャチに、歴史がある?


 やめてほしい。


 これ以上、背景を増やさないでほしい。


 ただのぬいぐるみであってくれ。


 いや、坂本さんの部屋にいる時点で、ただのぬいぐるみではない。


 会議の後半、坂本さんが資料の細部を確認していたときだった。


 画面の外から、柔らかい声がした。


「カズくん」


 会議室、いや、リモート会議全体が止まった。


 ミサさんの声だった。


 俺は、イヤホン越しに背筋を伸ばした。


 なぜか。


 知らない。


 声だけで姿勢が正された。


 坂本さんの表情が、一瞬で変わった。


 ほんの少しだけ、目元が柔らかくなる。


 声も変わる。


「どうした」


 やわらかい。


 仕事用の坂本さんではない。


 いつもの現象だ。


 何度見ても慣れない。


「シャチ、そこ映ってるよ」


 言った。


 ついに言った。


 ミサさんが、言った。


 シャチが映っていることを。


 俺はペンを握りしめた。


 高岡が画面上で一瞬だけ下を向いた。


 笑いを堪えている。


 坂本さんは、ゆっくり背後を振り返った。


 そこにシャチがいた。


 知っていたはずなのに、改めて確認する坂本さん。


 それだけでおかしい。


「……置いたのは君だろう」


「だって、干したあと、そこに置いたらちょうどよかったんだもん」


 だもん。


 だもん、とは。


 ミサさんの「だもん」に、坂本さんの部屋のシャチ。


 会議資料が完全に負けている。


「会議中だ」


「うん。だから言いに来たの。映ってるよって」


「後で動かす」


「今のほうがよくない?」


「今は会議中だ」


「じゃあ、シャチも会議に参加してるね」


 俺は死んだ。


 笑ってはいけない。


 絶対に笑ってはいけない。


 会議中だ。


 坂本さんの資料レビュー中だ。


 笑ったら終わる。


 だが、「シャチも会議に参加してるね」はずるい。


 高岡の小窓が静かに揺れた。


 朝倉さんは完全に口元を押さえている。


 坂本さんは数秒黙った。


 そして。


 ほんの少しだけ。


 本当に少しだけ、口元をゆるめた。


「議事録には残さない」


 言った。


 坂本さんが。


 シャチの会議参加に対して。


 議事録には残さない、と。


 俺は机の下で拳を握った。


 耐えろ。


 耐えるんだ、藤谷直樹。


 ここで笑ったら終わりだ。


 ミサさんが画面の外で笑った。


 小さく、楽しそうに。


「うん。シャチには内緒にしておくね」


「頼む」


 頼む。


 頼むって言った。


 坂本さんが。


 シャチに内緒にする件について。


 頼むって。


 もう無理だった。


 俺はマイクを切っていたことを確認してから、静かに机に伏せた。


 社会人としての最低限の防衛だった。


「藤谷」


 坂本さんの声がした。


 仕事用に戻っている。


 早い。


 切り替えが早すぎる。


「はい」


 俺は顔を上げた。


「聞こえているか」


「聞こえています」


「なら続ける」


「はい」


 続けるのか。


 この状態で。


 シャチはまだいる。


 ミサさんの笑い声の余韻もある。


 坂本さんの「議事録には残さない」もある。


 なのに続ける。


 坂本さんは強い。


 いろいろな意味で。


 その後の会議で、俺は何度か資料の説明を間違えた。


 当然、坂本さんに詰められた。


「藤谷」


「はい」


「今の説明は、前提と結論が逆だ」


「はい」


「なぜそうなった」


「……シャチが」


 言った瞬間、高岡が目を閉じた。


 朝倉さんが肩を震わせた。


 坂本さんは、画面越しに俺を見た。


 目が細くなった。


 終わった。


「シャチは、君の資料構成に関与していない」


「はい」


「原因を外部要因にするな」


「はい」


「修正」


「はい」


 逃げ道が一本、閉じた。


 シャチのせいにはできなかった。


 会議が終わったあと、俺は高岡に通話をかけた。


 高岡は出るなり言った。


「シャチだったな」


「シャチだった」


「思ったより大きかったな」


「そこじゃない」


「いや、そこも重要だろ」


「重要だけど、問題はそこじゃない」


 俺は深呼吸した。


「坂本さんが、シャチ相手に議事録の話をした」


「正確には、ミサさんの発言に返した」


「もっと悪い」


「悪くはない」


「恋人同士って、くだらないことで笑い合うものなんだな」


 言ってから、自分で固まった。


 前にも、そんなことを思った気がする。


 くだらないこと。


 日常の小さなこと。


 牛乳とか、卵とか。


 スマホの登録名とか。


 シャチが会議に参加しているとか。


 そういうことで笑い合うのが、恋人同士なのかもしれない。


 分かる。


 分かるのだが。


「坂本さんが?」


 俺は声に出した。


 高岡が静かに言った。


「そこに戻るのか」


「戻るだろ。坂本さんが、シャチの件で笑ったんだぞ」


「少しだけな」


「少しでもだよ。業務に関係ない笑いだぞ」


「恋人同士なんだから、業務に関係なくて当然だろ」


「その当然が坂本さんに適用されるのが怖いんだよ」


 高岡はしばらく黙った。


 そして、ぽつりと言った。


「でも、ちょっとよかったな」


「何が」


「坂本さんにも、ああいう時間があるって分かるのは」


 俺は黙った。


 そうなのだ。


 怖かった。


 おかしかった。


 処理落ちした。


 でも、少しだけよかった。


 坂本さんが、ミサさんとくだらないことで笑う。


 シャチが会議に映っているというだけのことで、ほんの少し口元をゆるめる。


 その事実は、俺が知っている坂本さんを、少しだけ人間に近づけた。


 いや、元から人間なのだが。


 資料レビュー中は忘れがちになる。


「まあ」


 高岡が言った。


「明日のレビューは普通に怖いと思うけど」


「分かってる」


 翌日。


 普通に怖かった。


 坂本さんは俺の修正資料を見て、静かに言った。


「藤谷」


「はい」


「昨日指摘した箇所の修正が浅い」


「はい」


「シャチは関係ない」


「まだ何も言ってません」


「言いそうな顔をしていた」


 読まれている。


 怖い。


 坂本さんは資料に視線を戻した。


「結論から直せ」


「はい」


「議事録には残さないが、昨日の会議で君が混乱していたことは覚えている」


 やめてほしい。


 そこは議事録に残さないなら、記憶にも残さないでほしい。


「……はい」


 俺はペンを握った。


 坂本さんの部屋には、シャチがいる。


 ミサさんはそれを笑う。


 坂本さんは、少しだけ笑う。


 でも俺の資料レビューに、シャチは関与していない。 


 世界は、今日も公平ではなかった。

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