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坂本さんが残業した日

 坂本一志さんは、残業をしない。


 少なくとも、俺――藤谷直樹は見たことがなかった。


 誤解しないでほしい。

 坂本さんは、仕事を軽く見ている人ではない。


 むしろ逆だ。


 仕事を軽く見ていないからこそ、段取りが異常に正確で、前提確認が異常に細かく、優先順位の切り方が異常に早い。


 その結果、定時になるころには、だいたい全部終わっている。


「残業は、計画の失敗だ」


 以前、坂本さんはそう言った。


 言葉だけ聞けば、意識の高いビジネス書みたいだ。


 ただし坂本さんの場合、本当に定時で帰る。


 十八時になった瞬間、机の上を片づけ、パソコンを閉じ、無駄のない動きで立ち上がる。


「では、お先に」


 その背中には、勝者の風格があった。


 俺たちはそれを見送るたびに思う。


 定時退社って、能力者の技なんだな、と。


 ところが、その日は違った。


 翌日に、プロジェクトの中間報告会を控えていた。


 資料はほぼ完成しているはずだった。坂本さんの確認も一通り終わっている。あとは微修正だけ。


 平和だった。


 平和なはずだった。


「藤谷」


 十七時二十二分。


 坂本さんが俺の名前を呼んだ。


 俺は反射的に立ち上がった。


「はい」


 坂本さんは、画面を見ていた。


 目が、細かった。


 俺の心臓が、一拍止まった。


 あ、終わった。


「この売上予測の前提、誰が更新した」


「えっと……たしか、佐野さんが」


「更新日時は?」


「今日の、午前です」


「元データは?」


「共有フォルダの最新版を――」


「違う」


 静かだった。


 とても静かだった。


 でも、その一言で室温が二度下がった。


「先方から昨日届いた修正版が反映されていない。係数が古い」


 会議室が、沈黙した。


 誰も呼吸をしていなかったと思う。


 高岡が、隣で小さく息を吸った。


 俺は画面を見た。

 数字を見た。

 見なければよかった。


 ずれていた。


 かなり、ずれていた。


「明日の中間報告会で、この数字を出していたらどうなっていたか分かるか」


 坂本さんは怒鳴らなかった。


 怒鳴らない。


 だから怖い。


「……先方の条件変更を、こちらが見落としていることになります」


 佐野さんが青い顔で言った。


「そうだな」


 坂本さんはうなずいた。


「では、今から直す」


 今から。


 十七時二十七分。


 定時まで三十三分。


 無理だ。


 無理です。


 誰か言ってくれ。


 しかし、誰も言わなかった。


 坂本さんの目が細かったからだ。


「藤谷、全体の差し替え範囲を洗い出せ。高岡、グラフと表の影響箇所。佐野、元データの確認と係数の再取得。十五分後に一度集約する」


「はい」


「はい」


「はい……」


 全員が動いた。


 会社員とは、目が細くなった坂本さんの前では、よく訓練された兵士になる生き物である。


 十八時になった。


 坂本さんは帰らなかった。


 俺は時計を見た。


 十八時。


 坂本さんが、まだいる。


 異常事態だった。


 高岡が小声で言った。


「ナオ」


「何」


「坂本さんが残業してる」


「言うな。現実になる」


「もうなってる」


 やめろ。


 現実を言葉にするな。


 坂本さんは、ホワイトボードに修正箇所を書き出していた。


 その背中がいつもより怖かった。


 怒っているわけではない。

 けれど、ひとつも逃げ場がない。


「ここから先は、感情ではなく作業だ」


 坂本さんが言った。


「ミスの原因確認はあとでやる。今は明日の資料を成立させる」


 怖い。


 でも、正しい。


 正しいから、さらに怖い。


 十九時を過ぎたころ、俺たちはだいぶ疲れていた。


 腹も減っていた。


 だが、食べ物を買いに行く空気ではなかった。

 というか、誰かが立ち上がった瞬間、坂本さんに「その五分で何を終わらせる予定だった?」と聞かれそうだった。


 そのときだった。


 会議室のドアが、控えめにノックされた。


「失礼します」


 柔らかい女性の声がした。


 俺は顔を上げた。


 ドアのところに、ミサさんが立っていた。


 両手に、大きな紙袋を持っている。


「ミサ?」


 坂本さんの声が変わった。


 変わった。


 また変わった。


 さっきまで全員の逃げ道を閉じていた声が、急に、角を丸くした。


「どうしたんだ」


「カズくん、今日ごはん食べないでしょ」


 カズくん。


 会議室内の数名が、一瞬だけ固まった。


 俺はもう知っている。


 前回、受付で白昼夢を見た男だからだ。


 だが、知っていても効く。


 坂本さんがカズくんになる瞬間は、何度見ても脳に悪い。


「みなさんの分も、少し持ってきました」


 ミサさんはそう言って、紙袋を持ち上げた。


 少し、ではなかった。


 どう見ても、かなりあった。


「多いだろ」


 坂本さんが言った。


「足りないよりいいでしょ?」


 ミサさんは笑った。


 坂本さんが、ほんの少しだけ黙った。


 そして、小さく息を吐いた。


「……ありがとう」


 優しい声だった。


 会議室の中にいた全員が、聞いてはいけないものを聞いた顔をした。


 坂本さんは紙袋を受け取り、テーブルの端に置いた。


「十五分休憩にする。先に食べろ」


 え。


 休憩。


 坂本さんが。


 休憩を。


「食べながら作業するな。ミスが増える」


 あ、怖い。

 でも正論。


 紙袋の中には、おにぎりとサンドイッチ、それから小さなカップのスープが入っていた。


 食べやすい。

 重すぎない。

 手が汚れにくい。

 残業中の人間への理解が深い。


 ミサさん、ただ者ではない。


「藤谷さん、ですよね?」


 急にミサさんに声をかけられ、俺はおにぎりを落としかけた。


「は、はい」


「この前はありがとうございました。鍵のとき」


「いえ、とんでもないです」


「今日、大変そうですね」


「はい。大変です」


 正直に答えてしまった。


 横で高岡が少し笑った。


 俺は慌てて付け足した。


「あ、でも、坂本さんが全部整理してくださってるので」


「うん」


 ミサさんは、坂本さんのほうを見た。


「カズくん、そういうところは頼りになるから」


 そういうところ。


 俺は反射的に坂本さんを見た。


 坂本さんは、何も言わなかった。


 ただ、ほんの少しだけ目元が柔らかくなっていた。


 誰だ。


 いや、坂本さんだ。


 でも誰だ。


 俺はスープを持ったまま、静かに処理落ちした。


 その後、ミサさんは長居せずに帰っていった。


「邪魔したら悪いから」と言って。


 坂本さんはエレベーターホールまで送っていった。


 戻ってきたときには、いつもの坂本さんだった。


「再開する」


 はい。


 現実。


 しかし、不思議なことに、会議室の空気は少し変わっていた。


 怖さはある。


 目は細い。


 指摘も鋭い。


 けれど、さっきまでのような圧迫感だけではなかった。


 この人は、ただ怒っているわけではない。

 明日の報告会を成立させるために、今ここで踏ん張っている。


 そのことが、少しだけ分かった。


 いや、分かった気になった。


「藤谷」


「はい」


「そこ、参照先が一行ずれている」


「すみません!」


 やっぱり怖かった。


 結局、資料が完成したのは二十一時を少し過ぎたころだった。


「今日はここまで。明日の朝、最終確認をする」


 坂本さんが言った。


 全員が、魂の抜けた返事をした。


 帰り際、高岡が俺の横に並んだ。


「ナオ」


「何」


「今日の坂本さん、怖かったな」


「怖かった」


「でも、少し分かった気もする」


「何が」


「怖いだけじゃないんだなって」


 俺は少し考えた。


 確かに、そうかもしれない。


 坂本さんは怖い。


 目が細くなると、本当に怖い。


 けれど今日、ミサさんが持ってきたおにぎりを食べながら、俺たちは少しだけ見たのだ。


 坂本さんが、ちゃんと誰かに心配される人であること。

 そして、誰かに心配されたとき、ほんの少しだけ柔らかくなる人であること。


 翌日。


 中間報告会は、無事に終わった。


 修正した資料は問題なく通り、先方からの指摘も最小限だった。


 俺は少しだけ達成感を覚えていた。


 その午後、坂本さんに呼ばれるまでは。


「藤谷」


「はい」


「昨日の修正対応について、再発防止をまとめる」


「はい」


「まず、なぜ最新版の条件を確認するフローが抜けたのか」


 坂本さんの目が、細くなった。


 俺は思った。


 昨日、少しだけ人間味を見た。

 ミサさんの前で柔らかくなる坂本さんも見た。

 おにぎりを前に、チームを休ませる坂本さんも見た。


 でも。


 それとこれは、別だった。


「藤谷」


「はい」


「感想ではなく、原因を」


「はい……」


 坂本さんは、やっぱり普通に怖かった。

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