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坂本さんが微笑んだ日

 坂本一志さんは、笑わない。


 少なくとも、俺――藤谷直樹は見たことがない。


 同じプロジェクトチームに入って三か月。俺は毎日のように坂本さんに資料を見られ、数字を詰められ、根拠を問われ、論理の甘い箇所を的確に刺され続けていた。


「藤谷。この比較、前提が揃ってない」


「はい」


「こっちの数値、先週の資料と違う。理由は?」


「えっと……」


「えっと、ではなく」


 声を荒げる人ではない。


 むしろ、いつも静かだ。静かなぶん、逃げ場がない。怒鳴られたほうがまだ、こちらにも反射的に謝る余地がある。


 坂本さんの場合は、すべての逃げ道を、静かに、丁寧に、一本ずつ閉じてくる。


 そして一番怖いのは、目が細くなるときだった。


 坂本さんは普段から切れ長の目をしているが、資料の中に「見逃してはいけない何か」を見つけると、その目がさらに少しだけ細くなる。


 その瞬間、チーム全員が悟る。


 あ、終わった、と。


 そんな坂本さんについて、以前、同期の朝倉さんが妙なことを言ったことがある。


「一志? あいつ、彼女には激甘だぞ」


 俺は思わず聞き返した。


「……彼女?」


「ああ」


「坂本さんに?」


「ああ」


「人類の女性ですか?」


「おまえ、失礼だな」


 朝倉さんは笑っていた。


 けれど俺には、どうしても信じられなかった。


 坂本さんに恋人。


 恋人というのは、休日に一緒にカフェへ行ったり、手をつないだり、くだらないことで笑い合ったりする相手のことだろう。


 坂本さんが。


 手をつないで。


 くだらないことで。


 笑う。


 その四つの単語が、どうしても同じ文章の中に収まらなかった。


 ところが、事件はある日のリモート会議中に起きた。


 その日は朝からプロジェクトの進捗確認があり、俺は案の定、坂本さんに詰められていた。


「藤谷。このスケジュール、バッファがない」


「はい、ただ、先方の希望納期が――」


「希望納期に合わせることと、破綻した計画を出すことは別だ」


「はい……」


 画面の中の坂本さんは、白いシャツに眼鏡姿で、いつも通り冷静だった。


 背景は自宅らしい。必要最低限の家具しかない、無駄のない部屋。さすが坂本さん、私生活まで余白が少ない。


 そう思った瞬間だった。


 ガシャンッ。


 画面の向こうで、大きな音がした。


 鍋か何かが落ちたような音だった。


 坂本さんの表情が、変わった。


「ミサ?」


 え。


 今、名前を呼んだ?


 しかも声が、違った。


 坂本さんは、画面のこちらを見ることも忘れたように、すぐ席を立った。


「すみません、少し外します」


 そう言って画面から消える。


 残された俺たちは、無言になった。


 数秒後、少し遠くから女性の声が聞こえた。


「ごめーん、棚のお鍋取ろうとして、落としちゃった」


 柔らかい声だった。


 続いて、坂本さんの声。


「気をつけないと。足、当たってない?」


 俺は固まった。


 誰だ。


 今のは誰だ。


 声は坂本さんのはずだった。けれど、俺の知っている坂本さんではない。


 資料の前提条件を刺してくる坂本さんではない。納期と現実を分けて考えろと言う坂本さんではない。目を細めると会議室の温度を二度下げる坂本さんではない。


 その声は、明らかに心配していた。


 しかも、甘かった。


 俺は画面の端に映る自分の顔を見た。


 完全に、見てはいけないものを見た顔をしていた。


 数分後、坂本さんは戻ってきた。


「失礼しました。続けましょう」


 何事もなかったような顔だった。


 いつもの坂本さんだった。


 俺は、そのことが逆に怖かった。


 続きの会議で何を話したのか、正直あまり覚えていない。


 そして数日後。


 その謎は、さらに深まることになる。


 昼過ぎ、俺は受付近くのエレベーターホールにいた。外出先から戻ってくるメンバーを待っていたのだ。


 すると受付に、一人の女性が立っていた。


 上品で柔らかい雰囲気の人だった。きょろきょろと周囲を見回している様子から、社内の人ではないらしい。


「あの」


 俺は声をかけた。


「どなたかお探しですか?」


 女性は振り向いて、ほっとしたように笑った。


「あ、すみません。坂本一志さんに届け物をしたくて」


 坂本さん。


 俺の背筋に、うっすら冷たいものが走った。


「自分、坂本さんの後輩で藤谷と言います。お預かりしましょうか?」


「ありがとうございます。助かります」


 女性が差し出したのは、小さなキーケースだった。


「カズくん、うちに鍵を忘れて行っちゃって」


 カズくん。


 俺の頭の中で、非常ベルが鳴った。


 坂本さんを、カズくん。


 この人が、噂の。


 朝倉さんが言っていた、彼女。


 俺は平静を装って受け取ろうとした。


 そのときだった。


「ミサ!」


 聞き慣れた声がした。


 振り向くと、坂本さんが外出先から戻ってきたところだった。


 俺は反射的に姿勢を正した。


 坂本さんはこちらに歩いてくる。いつもの無駄のない足取り。いつもの眼鏡。いつもの白シャツ。いつもの、絶対に笑わない坂本さん。


 だったはずなのに。


「どうしたんだ?」


 声が柔らかい。


 女性――ミサさんは、少し頬をふくらませた。


「もう、カズくんったら、ウチに鍵忘れて行ったよ」


「あ、そうか。ありがとうな」


 坂本さんが、微笑んだ。


 本当に、微笑んだ。


 ほんの少し口角が上がって、目元が柔らかくなった。


 俺はその瞬間、心の中で叫んだ。


 誰だ。


 いや、坂本さんだ。


 でも誰だ。


 これは坂本さんなのか。


 坂本一志という人物は、こんな顔ができたのか。


 業務用ではない。社交辞令でもない。資料の不備を見つけたときの細い目でもない。


 目が、丸い。


 坂本さんの目が、丸い。


 俺は背筋がぞーっとした。


 怖い。


 笑っているのに怖い。


 いや、違う。怖いのではない。見慣れなさすぎて、脳が処理できないのだ。


「藤谷」


 急に坂本さんがこちらを見た。


「はいっ」


 声が裏返った。


「対応、ありがとう」


「いえ! 失礼します!」


 俺は逃げた。


 社会人としてどうかと思う速度で、その場を離れた。


 廊下の角を曲がったところで、同期の高岡祥と出くわした。


「どうした、ナオ。顔色悪いけど」


「ショウ」


「うん」


「俺、たぶん今、白昼夢を見た」


「会社で?」


「会社で」


 高岡は真面目な顔で俺を見た。


「寝不足?」


「違う。坂本さんが」


「坂本さんが?」


「微笑んだ」


 高岡は一瞬、黙った。


 それから、俺の肩に手を置いた。


「藤谷。今日はもう帰ったほうがいいかもしれない」


「俺もそう思う」


「かなり疲れてる」


「違うんだ、本当に見たんだ」


「坂本さんが?」


「ミサさんに」


「ああ」


 高岡は急に納得した顔をした。


「それならあり得るんじゃない?」


「おまえ、受け入れ早すぎない?」


「朝倉さんが言ってたじゃん。彼女には激甘だって」


「聞いてたけど、信じてなかった」


「信じなよ」


「無理だよ。あれは情報として知っていても、実物を見たら別物だよ」


 俺は壁にもたれた。


 遠くの受付のほうから、かすかにミサさんの笑い声が聞こえた気がした。


 その声に混じって、坂本さんの低い声も聞こえる。


 いつもより、ずっと柔らかい声だった。


 高岡がぽつりと言った。


「でもさ」


「何」


「坂本さんも人間だったんだな」


 俺は深くうなずいた。


 そうだ。


 坂本さんは人間だった。


 そして、人間には、仕事中の顔と、恋人に見せる顔がある。


 その当たり前の事実を、俺は今日、心底思い知った。


 ただし翌日、俺が出した資料の前提条件が一か所ずれていたため、坂本さんの目はいつも通り細くなった。


「藤谷」


「はい」


「昨日の件とこれは別だ」


「はい……」


 坂本さんは、やっぱり坂本さんだった。


 けれど俺は知っている。


 この人は、ミサさんの前では微笑む。


 その事実は、なぜか少しだけ、坂本さんを怖くなくした。


 ほんの少しだけ。


 いや、訂正する。


 資料レビューのときは、やっぱり普通に怖かった。

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