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藤谷梢も巻き込まれ体質

美波さんからの連絡は、昼休みの終わり際に来た。


 俺――藤谷直樹は、スマホの画面を見た瞬間、箸を置いた。


 差出人。


 朝倉美波さん。


 件名。


『ご相談です』


 ご相談。


 この四文字だけなら、普通だ。


 普通の社会人同士の、普通の連絡に見える。


 だが、差出人が朝倉美波さんである。


 朝倉さんの妹。


 上品な顔で場を勝手に動かす人。


 俺の逃げ道を設計し、再設計し、たまに塞ぐ人。


 つまり、普通ではない。


「藤谷」


 向かいに座っていた高岡が、弁当箱のふたを閉めながら言った。


「何」


「顔が、開封前に負けてる」


「差出人で分かるだろ」


「美波さん?」


「なぜ分かる」


「最近のお前の顔は、朝倉家でだいたい崩れる」


「否定できないのが悔しい」


 俺は深呼吸して、メッセージを開いた。


『藤谷さんへ。


 奏多が、藤谷梢さんの連絡先を知りたがっています。


 兄さんや白石さんに聞いても止められるので、藤谷さんに相談するようです。


 私は梢さんの連絡先を知っていますが、勝手には教えられません。


 どうしますか?


 朝倉美波』


 俺はスマホを伏せた。


 そして、高岡を見た。


「高岡」


「何」


「午後、休んでいい?」


「無理だな」


「俺の精神はもう休みに入った」


「戻せ」


「戻らない」


 高岡は、俺のスマホを一瞥した。


「奏多さん?」


「読むな」


「顔に出てた」


「俺の顔はメール本文じゃない」


「だいたい表示されてる」


「やめろ」


 朝倉奏多。


 朝倉さんの弟。


 白石仁くんとは犬猿の仲。


 小さいものが好き。


 そして、最近、俺の妹――梢に明らかに興味を示している。


 その男が。


 梢の連絡先を知りたい。


 俺は頭を抱えた。


「藤谷」


「何」


「本人に聞けばいい」


「誰に」


「梢さんに」


「妹に?」


「妹さんの連絡先だろ」


 正論だった。


 腹が立つほど正論だった。


 でも、兄とは正論だけでは動けない生き物である。


「いや、でも奏多くんだぞ」


「奏多さんだな」


「朝倉家だぞ」


「朝倉家だな」


「恋愛ヤンキーだぞ」


「分類が定着したな」


「高岡」


「何」


「俺は兄としてどうすればいい」


「勝手に決めない」


 高岡の声は、いつも通り淡々としていた。


 静かなのに、まっすぐ刺さる。


 坂本さんとは違う怖さがある。


 正しさの角度が鋭い。


「梢さんは二十四歳だ」


「知ってる」


「入社二年目の社会人だ」


「知ってる」


「本人が決められる」


「……知ってる」


 知っている。


 知っているのだ。


 梢は、もう子どもではない。


 俺の後ろに隠れていた妹ではない。


 少し人見知りで、自分から輪に入るのは苦手でも。


 ちゃんと会社で働いている。


 ちゃんと考えている。


 ちゃんと、自分の言葉を持っている。


 その時だった。


「何だ、藤谷。顔が兄だな」


 低い声が落ちてきた。


 朝倉さんだった。


 片手に缶コーヒー。


 ネクタイは少し緩んでいる。


 いつも通り、会社にいながら少しだけ会社員からはみ出している。


「朝倉さん」


「おう。何だ、また美波か」


「なぜ分かるんですか」


「お前の顔」


「俺の顔、共有設定が広がりすぎてません?」


 朝倉さんは笑いながら、俺たちのテーブルに勝手に座った。


 勝手に。


 この人は、椅子に座る時すら朝倉家である。


「で、何だ」


「美波さんからです」


「内容は?」


 俺はスマホを見せた。


 朝倉さんが画面を見て、一瞬だけ黙った。


 珍しい。


 朝倉さんが、黙った。


「……奏多か」


 声が、少し低くなった。


「はい」


「連絡先」


「はい」


「LINEか?」


「たぶん、そういうことだと思います」


「だろうな」


 朝倉さんは缶コーヒーを置いた。


 いつもの軽さが、少し引いた。


「藤谷」


「はい」


「悪いな」


「え」


「うちの弟が面倒かけてる」


 俺は一瞬、返事に困った。


 朝倉さんが、ちゃんと兄の顔をしていたからだ。


 雑で、低くて、距離が近くて、情報量が多い人。


 でも、こういう時にちゃんと謝る人でもある。


「いや……まだ何かされたわけでは」


「連絡先欲しがってる時点で、まあまあしてる」


「自覚あるんですね」


「あるよ」


 朝倉さんは苦笑した。


「奏多は、欲しいものにまっすぐ行くからな」


「朝倉家ですね」


「否定できねえ」


 高岡が静かに言った。


「本人に確認するのが筋だと思います」


「だよな」


 朝倉さんは頷いた。


「美波もそこは分かってる。勝手に教えないって言ってるなら、まあちゃんとしてる」


「美波さんは少し奏多くんの味方なんですか」


 俺が聞くと、朝倉さんは少し考えた。


「味方っていうか、入口を全部塞ぐのは違うと思ってんだろ」


「入口」


「奏多がめんどくさいのは分かってる。でも、本人に聞く前から兄貴どもが全部止めるのは違う」


「兄貴ども」


「おまえと俺と、仁」


「仁くんも入ってる」


「入るだろ。あいつ、梢ちゃんのことになると必要な位置に出てくるから」


「それ、本人が言いそうですね」


「言う」


 朝倉さんは低く笑った。


 そして、その笑いが少しだけ消えた。


「まあ、奏多はな」


「はい」


「ずっと、そういうやつなんだよ」


 声が少し変わった。


 高岡も、俺も、黙った。


「欲しいものがあると、まっすぐ行く。認められたいと、余計に強く出る。押し方が下手で、言葉が強くなる」


「……はい」


「だから、止めるやつも必要なんだけどな」


 朝倉さんは缶コーヒーを指で軽く回した。


「でも、止めすぎると、あいつはまた“自分だけ違う”って顔をする」


 自分だけ違う。


 その言葉が、少し重く聞こえた。


 朝倉さんは、視線を少しだけ落とした。


「うち、三兄弟なんだけどな」


「はい」


「奏多だけ、母親が違う」


 空気が変わった。


 社員食堂のざわめきが、少し遠くなった気がした。


「母親が亡くなって、親父が再婚して、その相手との間にできた子だ」


「……そうだったんですか」


「あいつは、ずっとそれを気にしてる。こっちが思ってるより、たぶんな」


 朝倉さんは、いつものように重くしすぎない。


 でも、軽くもない。


 淡々としているのに、声の奥にちゃんと残っているものがあった。


「奏多は、自分が後継ぎにされたのも、気を遣われたからだと思ってる」


「気を遣われた」


「母親が違うから。家の中で浮かないように。かわいそうだから。そういう配慮で選ばれたんだろうってな」


「違うんですか」


 高岡が静かに聞いた。


 朝倉さんは、即答した。


「違う」


 短かった。


 けれど、はっきりしていた。


「あいつが優秀だからだ」


 俺は黙った。


「俺より向いてる。数字も見れる。人も見れる。何より、家に執着がある」


「執着」


「俺にはそこが薄い」


 朝倉さんは少し笑った。


「俺は、朝倉の家を背負うより、こっちで坂本の隣にいるほうを選んだ」


 坂本さんの隣。


 その言葉は、前にも聞いたことがある。


 恋愛ではない。


 友情とも少し違う。


 腐れ縁で、相棒で、人生の位置。


 朝倉さんにとって、坂本さんの隣にいることは、たぶんかなり大きい。


「でも、それだけじゃないんですね」


 高岡が言った。


「会社の未来も考えた」


 朝倉さんは、高岡を見て少し笑った。


「お前、ほんとそういうとこ拾うな」


「事実だと思ったので」


「坂本みたいに言うな」


「先に言われた」


 俺は小さく突っ込んだ。


 朝倉さんは笑った。


「まあ、そうだよ。奏多のほうが向いてる。俺は外にいたほうがいい。親父もそれを分かってた」


「奏多くん本人は」


「納得してねえだろうな」


「なんでですか」


「自分の実力で選ばれたって、信じきれてねえから」


 胸のどこかが、少しだけ重くなった。


 奏多くんは、強い。


 言葉も強い。


 距離も近い。


 小さいものが好きで、恋愛ヤンキーで、会社の受付に突撃してくる。


 でも、その奥に、そういうものがある。


 認められたい。


 必要とされたい。


 気を遣われたのではなく、自分だから選ばれたのだと信じたい。


「でもまあ」


 朝倉さんが、急にいつもの顔に戻った。


「社長とか怠いしな」


「軽い!」


「怠いだろ、どう考えても」


「さっきまでいい話だったのに!」


「いい話で終わらせると俺じゃねえだろ」


「そこは終わらせてください」


「俺は坂本の近くで雑に生きてるほうが楽しいんだよ」


 雑に。


 生きる。


 さっきまでの重さを、朝倉さんはその一言で蹴った。


 でも、軽くなったわけではない。


 なぜか、そこにちゃんと朝倉さんの人生があった。


「重いのか軽いのか分からない……」


 俺が呟くと、高岡が静かに言った。


「朝倉さんだからな」


「便利に使うな」


 朝倉さんが笑った。


 その時だった。


「何の話ですか」


 声がした。


 俺は振り向いた。


 白石仁くんがいた。


 スーツ姿。


 出社日らしく、資料バッグを持っている。


 いつものように姿勢がよく、表情は落ち着いていた。


 ただし。


 目が、すでに少しだけ真剣だった。


 聞かれていた。


 たぶん、かなり。


「仁くん」


「藤谷さん」


「いつから」


「奏多さんが梢さんの連絡先を知りたがっている、あたりからです」


 最初からだった。


 ほぼ最初からだった。


 俺は心の中で頭を抱えた。


 白石仁、いつも必要な位置にいる。


「で」


 仁くんは静かに言った。


「どうするんですか」


 怖い。


 静かな仁くんは、防衛ラインそのものだ。


「いや、今その話を」


「梢さんのLINEを奏多さんに渡す必要はありません」


 即答だった。


 速い。


 判断が速い。


「仁」


 朝倉さんが言った。


「お前、保護者か」


「違います」


「否定が早いな」


「事実です」


 高岡が静かに言った。


「でも、防衛ラインではある」


「高岡さん」


「はい」


「その表現は否定しません」


「否定しないんだ」


 俺は思わず言った。


「奏多さんは、距離感に問題があります」


「あるな」


 朝倉さんがあっさり認めた。


「言葉も強いです」


「ある」


「梢さんが困る可能性があります」


「それはまあ、ある」


「では、渡す必要はありません」


「短絡的だな」


「安全側です」


「坂本みてえなこと言うな」


 朝倉さんが言った。


 仁くんは動じなかった。


 強い。


 坂本さんの細い目を怖がらない男は、朝倉さんの低い声にもあまり揺れない。


 俺の胃だけが揺れている。


「でも」


 高岡が言った。


「決めるのは梢さん本人では」


 全員が黙った。


 正論。


 また正論。


 高岡祥、今日も静かに正しい。


 俺は高岡を見た。


「妹を呼ぶのか」


「本人の連絡先だろ」


「分かってるけど!」


「分かってるなら呼べばいい」


「呼ぶ理由が重いんだよ!」


 朝倉さんが立ち上がった。


「じゃ、呼んでくるか」


「軽い!」


「食堂にいるんだろ?」


「たぶん」


「藤谷妹ーって呼べば来るだろ」


「呼び方!」


 仁くんが静かに立った。


「僕も行きます」


「白石、お前は」


「行きます」


「まだ何も言ってねえ」


「必要な位置に」


 出た。


 必要な位置。


 高岡が弁当箱を片づけながら、淡々と言った。


「再発対応チームだな」


「チーム名をつけるな」


 俺も立ち上がった。


 行くしかない。


 俺の妹が当事者だ。


 しかも話題は、連絡先。


 奏多くん。


 仁くん。


 朝倉さん。


 高岡。


 情報量が多すぎる。


 俺はそろそろ、普通の午後を迎えたい。


 ◇


 社員食堂の隅の席に、梢はいた。


 佐伯莉央さんと一緒だった。


 梢は味噌汁のお椀を持っていて、莉央さんは唐揚げ定食を前にしている。


 平和な昼休みだった。


 俺たちが近づくまでは。


「藤谷妹ー」


 朝倉さんの低くてよく通る声が、社員食堂に響いた。


 梢が顔を上げる。


 その顔に、少しだけ驚きが浮かんだ。


 そして、その後ろにいる俺を見た。


 ものすごく嫌な予感がする顔をしていたと思う。


 俺の顔が。


「梢、逃げろ」


「お兄ちゃん?」


「いや、違う。逃げなくていい。でも、できれば巻き込まれないでほしい」


「もう遅いだろ」


 朝倉さんが言った。


 俺は振り返った。


「朝倉さん、妹を巻き込む前提で話を進めないでください」


「巻き込むんじゃない。参加だ」


「言い方を変えても同じです」


 高岡が静かに頷いた。


「学習してるな」


「坂本さんみたいに言うな」


 梢が少し笑った。


 莉央さんが隣で肩を震わせている。


 やめてほしい。


 受付担当として、今後この件を受付ネットワークに流さないでほしい。


 たぶん流れる。


「藤谷妹、午後ちょっと時間あるか」


 朝倉さんが言った。


「午後は、三時から打ち合わせがあります」


「じゃあ二時半まで」


「内容を聞いてからでもいいですか」


「仁と奏多がまた妙な空気になってる」


 梢は、そっと目を閉じた。


 莉央さんが耐えきれずに小さく笑った。


「梢」


「莉央ちゃん」


「行ってらっしゃい」


「……うん」


「やっぱり梢も巻き込まれ体質だね」


「今言わないで」


 梢はそう言いながら、トレーを片づけた。


 その動作は少し緊張していた。


 でも、逃げる感じではなかった。


 俺はそれを見て、少しだけ胸が変な感じになった。


 妹が、自分で立ち上がっている。


 兄としては止めたい。


 でも、止める場面ではない。


 たぶん。


 ◇


 空いている小さな会議室に移動した。


 メンバー。


 俺。


 高岡。


 朝倉さん。


 仁くん。


 梢。


 濃い。


 なぜ妹の連絡先ひとつで、こんなメンバーになるのか。


 会社の会議室でやる話なのか。


 俺は議事録を取りたくない。


「で」


 朝倉さんが口火を切った。


「奏多が、お前の連絡先を知りたがってる」


 直球。


 急にストレート。


 朝倉家の血は、カーブを知らない。


 梢は一瞬だけ目を丸くした。


「私の、ですか」


「そう」


「奏多さんが」


「そう」


「……なぜでしょう」


 俺は思った。


 梢。


 そこから?


 仁くんが静かに言った。


「好意があるからだと思います」


「白石!」


 俺は思わず叫んだ。


 梢の肩がびくっとした。


 仁くんは俺を見る。


「遠回しに言ったほうがよかったですか」


「そういう問題じゃない!」


「でも、事実です」


「事実をそのまま出すな!」


 高岡が淡々と言った。


「柏木みたいだな」


「やめろ!」


 梢は、少し頬を赤くしていた。


 そりゃそうだ。


 会社の会議室で、自分に好意があるらしい人の話を、兄と兄の同期と朝倉さんと仁くんに囲まれて聞いている。


 地獄か。


 いや、善意だけでできた地獄だ。


「梢」


 俺はなるべく兄の声で言った。


「無理しなくていいからな」


「うん」


「嫌なら嫌でいい」


「うん」


「LINEなんて教えなくていい」


「藤谷さん」


 仁くんが静かに頷いた。


「それは同意します」


「お前が同意すると、俺の兄成分が薄まる」


「意味が分かりません」


「俺も分からない」


 朝倉さんが笑った。


「藤谷、落ち着け。お前が一番圧かけてるぞ」


「俺がですか!?」


「兄圧」


「兄圧」


 高岡が拾った。


「拾うな」


 梢が少しだけ笑った。


 その笑いで、会議室の空気が少しゆるんだ。


 朝倉さんが、梢のほうを見る。


「美波は、お前の連絡先を知ってる。でも勝手には教えないって言ってる」


「はい」


「俺も、勝手に渡す気はない」


「はい」


「奏多は面倒くさい」


「朝倉さん」


 俺が言うと、朝倉さんは手を上げた。


「でも、悪いやつではない」


「……はい」


 梢は、小さく頷いた。


「前にも思いました。言葉は少し強いですけど、悪い方ではなさそうだなって」


 仁くんの眉が少し動いた。


 俺の兄センサーも動いた。


 朝倉さんは少し笑った。


「そこを拾われると、奏多は弱い」


「弱い?」


「あいつ、強く出るくせに、ちゃんと見られると弱いんだよ」


 梢は黙って聞いていた。


 その顔は、怖がっているというより、ちゃんと考えている顔だった。


 朝倉さんは続けた。


「ただ、LINEは近い」


「……はい」


「個人の距離だからな」


 朝倉さんがそんなことを言うのは、少し意外だった。


 でも、たぶんこの人は分かっている。


 雑に踏み込むけれど、踏み込んではいけない線も見ている。


 だからこそ、梢は朝倉さんに憧れているのかもしれない。


「梢さん」


 高岡が静かに言った。


「どうしたいですか」


 全員が黙った。


 俺も黙った。


 仁くんも、朝倉さんも、何も言わなかった。


 梢は少しだけ視線を落とした。


 それから、ゆっくり顔を上げた。


「LINEは……少し困ります」


 俺は心の中でガッツポーズをした。


 兄として。


 全力で。


 だが、顔には出さない。


 出したら高岡に読まれる。


「でも」


 梢が続けた。


 俺の心のガッツポーズが止まった。


「連絡が必要なら、会社のメールなら」


「会社のメール」


 朝倉さんが言った。


「はい。個人的な連絡先ではなくて、会社で使っているメールなら、少し距離があるので」


 梢は、少し緊張しながらも言葉を選んでいた。


「それなら、私も確認してから返事ができますし。困った時は、周りにも相談できます」


 俺は黙った。


 仁くんも黙った。


 高岡は静かに頷いた。


「いいと思います」


「高岡」


「何」


「お前が言うと、本当に正解みたいになる」


「正解かどうかは梢さんが決める」


「また正しい」


 朝倉さんが低く笑った。


「ちゃんとしてんなあ、藤谷妹」


 梢の顔が、少しだけ明るくなった。


「あ、ありがとうございます」


「朝倉家に巻き込まれてるのに、自分の線引けるのは強いぞ」


 梢は、少し照れたように笑った。


 俺はその顔を見て、胸がまた変な感じになった。


 梢は、守られるだけの妹ではない。


 自分で困ると言える。


 でも、完全に閉じるだけではなく、会社のメールならと言える。


 境界線を引く。


 それは、たぶん大人の判断だった。


 兄としては寂しい。


 でも、誇らしい。


 非常に複雑。


「……それなら、まあ」


 仁くんが低く言った。


「まあ?」


 朝倉さんがにやっとした。


「納得したのか」


「完全にはしていません」


「だろうな」


「でも、梢さんがそう決めたなら」


 仁くんは梢を見た。


 声が少しだけ柔らかくなる。


「会社のメールなら、いいと思います」


「ありがとうございます、白石さん」


 梢が小さく頭を下げた。


 仁くんが少しだけ固まった。


 まただ。


 白石仁が、俺の妹の「ありがとうございます」で止まる。


 坂本さんの細い目にも耐える男が。


 奏多くんには正面から言い返す男が。


 俺の妹の丁寧なお礼で、止まる。


 高岡が小さく言った。


「藤谷」


「何」


「白石くんも巻き込まれてるな」


「言うな」


「でも、悪くない」


「坂本さんみたいに言うな」


 朝倉さんが楽しそうに笑った。


「じゃあ、美波に返信しとく。梢ちゃんは会社メールなら可、LINEは不可」


「不可って言い方やめてください」


「じゃあ、LINEはまだ早い」


「それもやめてください!」


 梢が少し笑った。


 笑えているなら、少し安心した。


 ◇


 その後、朝倉さんが美波さんに連絡し、美波さん経由で奏多くんに会社メールのアドレスが渡った。


 早かった。


 引くほど早かった。


 会議室を出る前に、梢のスマホが震えた。


 梢は画面を見て、固まった。


「来ました」


「早い!」


 俺は思わず声を上げた。


「奏多か」


 朝倉さんが言う。


「はい」


 梢が画面を見せる。


 差出人。


 朝倉奏多。


 件名。


『ご連絡ありがとうございます』


 本文。


『藤谷梢さん


 会社メールを教えてくださり、ありがとうございます。


 LINEではなくメールという判断、理解しました。


 まずはここからお願いします。


 朝倉奏多』


 俺は黙った。


 思ったより、ちゃんとしていた。


 めちゃくちゃちゃんとしていた。


「……まともだ」


「お兄ちゃん」


「いや、ごめん」


 仁くんも画面を見ていた。


「文面は普通ですね」


「白石、お前、失礼だな」


 朝倉さんが笑った。


「奏多はメールだとちゃんとするぞ」


「会うと距離が近いのが問題です」


「そこは否定しねえ」


 高岡が静かに言った。


「会社メールで正解だったな」


「そうだな」


 俺は頷いた。


 梢も、少し安心したように息を吐いた。


「返事、あとで考えます」


「今じゃなくていいぞ」


 俺が言うと、梢は笑った。


「うん。そうする」


 その顔は、さっきより落ち着いていた。


 ちゃんと自分で決めた顔だった。


 俺は思った。


 藤谷梢も巻き込まれ体質。


 たぶん、それは本当だ。


 でも、梢はただ流されているわけではない。


 巻き込まれながら、自分の足で立っている。


 俺よりずっと、ちゃんとしているかもしれない。


「藤谷」


 高岡が言った。


「何」


「顔が、兄」


「もうそれ禁止にしない?」


「無理だな」


「何で」


「出てるから」


 朝倉さんが低く笑った。


「藤谷兄妹、分かりやすいな」


「兄妹でまとめないでください」


 梢が隣で小さく笑う。


 その笑い方が、少しだけ大人になって見えた。


 仁くんがその顔を見て、ほんの少し目を伏せた。


 奏多くんからは、もう一通メールが来た。


 件名。


『追伸』


 本文。


『白石仁にはこの件を必要以上に説明しなくて大丈夫です。


 たぶん邪魔されるので。』


 会議室の温度が下がった。


 仁くんの目が、静かに据わる。


 朝倉さんが吹き出した。


「奏多、だいぶ浮かれてんな」


「どこがですか」


 仁くんの声が低い。


「白石、落ち着け」


「落ち着いています」


「落ち着いている人の声じゃねえな」


 俺は頭を抱えた。


 高岡が淡々と言った。


「再発対応チーム、継続だな」


「チーム名を定着させるな!」


 梢が、困ったように。


 でも少しだけ楽しそうに、笑った。


 ああ。


 これはもう、完全に巻き込まれている。


 俺も。


 梢も。


 たぶん仁くんも。


 そして奏多くんも。


 人生は、どこでどうつながるか分からない。


 分からないが。


 ひとつだけ言える。


 藤谷家の平和な昼休みは、しばらく戻ってこない。

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