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藤谷直樹は巻き込まれ体質

お兄ちゃんは、昔から巻き込まれ体質だった。


 ――と、私が自覚したのは、会社の社員食堂で、同期の佐伯莉央ちゃんに言われた昼休みだった。


「梢のお兄さんってさ」


 莉央ちゃんは、唐揚げ定食の唐揚げをひとつ箸で割りながら、なんでもない顔で言った。


「巻き込まれ体質だよね」


 私は、味噌汁のお椀を持ったまま固まった。


「……お兄ちゃんが?」


「うん。藤谷さん」


 莉央ちゃんは受付担当だ。


 入社二年目なのに、もう来客対応も電話も社内の人の顔もだいたい把握している。華やかで、しっかりしていて、受付に立っていると、そこだけ会社の入口が少し明るく見える。


 入社研修のとき、隅の席に座っていた私に、最初に声をかけてくれたのも莉央ちゃんだった。


「梢って、話すと普通に面白いのに、なんでそんな端っこ行くの?」


 あのとき、私は返事に困った。


 端っこが落ち着くからです、とは言えなかった。


 でも莉央ちゃんは、困っている私を見て、笑ってくれた。


「じゃあ、私も端っこ行こ」


 そう言って、本当に隣に座った。


 その日から、莉央ちゃんは私の数少ない同期の友達になった。


「お兄ちゃん、そんなに巻き込まれてるかな」


「巻き込まれてるよ」


 即答だった。


「この前も受付で、朝倉さんに呼ばれてたし」


「あれは……朝倉さんが自由なだけで」


「奏多さんの件でも呼ばれてたし」


「あれは……奏多さんが自由なだけで」


「白石さんも来るし」


「あれは……白石さんが……」


 私は言葉に詰まった。


 白石さんは、自由というより、真剣だ。


 真剣すぎて、たまに目が据わる。


 それはそれで怖い。


「ほら」


 莉央ちゃんが笑った。


「全部、梢の説明が“相手が自由だから”になってる」


「……たしかに」


 お兄ちゃんは、昔からそうだったかもしれない。


 小学生の頃。


 私は、人の輪に入るのが苦手だった。


 休み時間になると、教室の隅で本を読んでいることが多かった。別にいじめられていたわけではない。ただ、どうやって入ればいいのか分からなかった。


 ある日、校庭で鬼ごっこをしていた子たちのボールが、花壇の奥に入ってしまった。


 誰も取りに行きたがらなかった。


 土がぬかるんでいて、靴が汚れるから。


 私は、ちょうど近くにいた。


 取ってあげたほうがいいのかな、と思った。


 でも、自分から言うのは怖かった。


 そのとき、後ろから声がした。


「梢、行かなくていい」


 お兄ちゃんだった。


 少し離れたところから、こちらへ歩いてきた。ランドセルを片方の肩にかけて、なんだか少し怒った顔をしていた。


「俺が取る」


「でも、お兄ちゃんの靴……」


「洗えばいい」


 お兄ちゃんは、当たり前みたいに言って、花壇の奥へ入っていった。


 そして、ぬかるみに足を取られた。


 見事に。


 ずるっと。


「あ」


 私は言った。


 お兄ちゃんは、片足を泥に埋めたまま、ボールを拾って振り返った。


「……梢」


「うん」


「これは、事故だ」


 事故ではなかったと思う。


 でも、お兄ちゃんは真面目な顔でそう言った。


 そのあと、ボールを受け取った子たちが「ありがとう」と言って、先生が来て、お兄ちゃんは靴下まで泥だらけになって、なぜかクラスの掃除当番を手伝うことになった。


 どうしてそうなったのかは、今でもよく分からない。


 ただ、お兄ちゃんは最後までやった。


「なんで俺が」


 と言いながら。


 ちゃんと、最後まで。


 中学生の頃もそうだった。


 部活の備品が足りないとか、文化祭の準備が終わらないとか、誰かが委員会の仕事を忘れたとか。


 お兄ちゃんは、だいたい最初に巻き込まれていた。


 文句は言う。


 すごく言う。


「いや、俺関係なくないか」


「なんで俺が代表みたいになってるんだ」


「俺はただ通りかかっただけだ」


 でも、結局やる。


 しかも、最後には一番ちゃんとやる。


 昔からそうだった。


 誰かが困っていると、放っておけない。


 でも、自分が優しいとは絶対に言わない。


 それどころか、巻き込まれた顔をする。


 お兄ちゃんはずっと、そういう人だった。


「……昔からだったかも」


 私がそう言うと、莉央ちゃんは満足そうにうなずいた。


「やっぱり」


「でも、お兄ちゃんは優しいから」


「うん。見てると分かる」


 莉央ちゃんはさらっと言った。


 私は少しだけ嬉しくなった。


 会社でのお兄ちゃんは、私の知らない顔をしている。


 坂本さんに詰められて青ざめたり、高岡さんに淡々と揺らされたり、朝倉さんに雑に呼ばれたり。


 お兄ちゃんは、私の前では兄だけど。


 会社では、ちゃんとひとりの人として、いろんな人の中にいる。


 そのことが少し不思議で、少しだけ誇らしい。


「でもさ」


 莉央ちゃんが、ふいに箸を止めた。


「梢もじゃない?」


「え?」


「巻き込まれ体質」


 私は、今度こそ本当に固まった。


「私?」


「うん」


「私は、あんまり……」


「この前、受付でイケメン二人に詰められてたじゃん」


 唐揚げの味が、一瞬分からなくなった。


「……詰められてた?」


「詰められてた」


「違うよ。あれは、話しかけられてただけで」


「朝倉奏多さんと白石仁さんに?」


「……うん」


「それを世間では、イケメン二人に詰められてたって言うんだよ」


 世間。


 世間は思ったより雑だった。


 たしかに、受付前で奏多さんに呼び出された。


 そして、白石さんもいた。


 奏多さんは妙に距離が近くて、言葉がまっすぐだった。


 白石さんは丁寧なのに、目が真剣だった。


『藤谷梢さん』


『はい』


『仁と仲いいの?』


『奏多さん、その聞き方はやめてください』


『じゃあ、どう聞けばいいんだよ』


『まず、受付前で聞かないでください』


『場所の問題か?』


『かなり大きいです』


 そのとき私は、何を答えればいいのか分からず、ただ立っていた。


 受付の中から莉央ちゃんが、ものすごく仕事のできる顔で来客名簿を整えながら、全部見ていた。


 全部。


 見ていた。


「梢、顔真っ赤」


「……思い出しただけ」


「ね。巻き込まれてるでしょ」


「でも、白石さんは悪い人じゃないよ」


「うん、分かる。すごく真面目そう」


「奏多さんも……たぶん、悪い人ではないと思う」


「たぶん」


「たぶん」


 二人で少し笑った。


 笑ってから、私はふと視線を落とした。


 私はずっと、お兄ちゃんの後ろにいる側だと思っていた。


 人の輪に入るのが苦手で、誰かに声をかけてもらうのを待っていて。


 会社でも、最初は同じだった。


 でも、朝倉さんが声をかけてくれた。


「お前、藤谷の妹だろ」


 最初はびっくりした。


 いきなりだった。


 雑だった。


 でも、そのあと朝倉さんは、私を誰かの輪の中へぽんと置いてくれた。


「こいつ、藤谷妹。小動物みたいだけど、ちゃんと仕事するから雑に扱うなよ」


 紹介として正しいのかは分からなかった。


 でも、その日から少しだけ、部署で話しかけてくれる人が増えた。


 朝倉さんは、私にとって少し不思議な人だ。


 怖くはない。


 でも、近い。


 雑。


 なのに、嫌じゃない。


 私が自分から言えないことを、勝手に周りへつないでしまう。


 その強引さに、少し憧れている。


 ああいうふうに、誰かの居場所を雑に作れる人がいるんだ、と思った。


「梢?」


 莉央ちゃんの声で、私は顔を上げた。


「ごめん。ちょっと考えてた」


「朝倉さん?」


「えっ」


「分かりやすい」


「違……わなくは、ないけど」


 莉央ちゃんが、にやっと笑った。


「憧れてるんだ?」


「うん」


 思ったより素直に出た。


 自分でも少し驚いた。


「朝倉さんって、雑だけど、怖くないから」


「雑だけど怖くない」


「うん。雑だけど、ちゃんと見てくれてる気がする」


 言ってから、少し恥ずかしくなった。


 でも莉央ちゃんは茶化さなかった。


「それ、いいね」


「うん」


「梢、そういう人に弱そう」


「弱い?」


「うん。自分では輪に入れないところを、勝手に椅子引いてくれる人」


 私は黙った。


 たしかに、そうかもしれない。


 朝倉さんも。


 莉央ちゃんも。


 お兄ちゃんも。


 私の周りには、そういう人が少しずつ増えている。


 そして、その人たちはだいたい、私の都合を全部確認してから動いてはくれない。


 気づいたら、巻き込まれている。


「……私も、巻き込まれ体質なのかな」


「だと思う」


 莉央ちゃんはきっぱり言った。


 そのときだった。


「藤谷妹ー」


 社員食堂の入口から、低くてよく通る声がした。


 私は、反射的に顔を上げた。


 朝倉さんがいた。


 片手を上げている。


 その後ろに、お兄ちゃんがいた。


 ものすごく嫌な予感がする顔をしていた。


 さらにその横に、高岡さんがいた。


 落ち着いていた。


 落ち着きすぎていた。


 お兄ちゃんが私を見るなり言った。


「梢、逃げろ」


「お兄ちゃん?」


「いや、違う。逃げなくていい。でも、できれば巻き込まれないでほしい」


「もう遅いだろ」


 朝倉さんが言った。


 お兄ちゃんが振り返る。


「朝倉さん、妹を巻き込む前提で話を進めないでください」


「巻き込むんじゃない。参加だ」


「言い方を変えても同じです」


 高岡さんが静かに頷いた。


「学習してるな」


「坂本さんみたいに言うな」


 お兄ちゃんが即座に言った。


 私は少し笑ってしまった。


 このやり取りを、私は前より自然に見ている。


 怖いというより、ああ、また始まった、と思う。


 莉央ちゃんが隣で小さく吹き出した。


「ほら」


「……うん」


 巻き込まれている。


 たぶん、かなり。


 朝倉さんがこちらへ歩いてきた。


「藤谷妹、午後ちょっと時間あるか」


「午後は、三時から打ち合わせがあります」


「じゃあ二時半まで」


「内容を聞いてからでもいいですか」


「仁と奏多がまた妙な空気になってる」


 私はそっと目を閉じた。


 莉央ちゃんが、隣で肩を震わせている。


 お兄ちゃんが頭を抱えた。


「なんで梢に言うんですか」


「お前に言うと処理落ちするから」


「もうしてます」


「知ってる」


 高岡さんが淡々と言った。


「でも、悪くない」


「高岡、ほんとに坂本さんみたいに言うのやめろ」


 お兄ちゃんの声が、社員食堂に少しだけ響いた。


 私はその光景を見ながら、思った。


 お兄ちゃんは、昔から巻き込まれ体質だった。


 でも。


 もしかすると、私はずっと、お兄ちゃんの後ろに隠れていただけで。


 本当は私も、似ているのかもしれない。


 困っている人を見たら、立ち止まってしまう。


 怖くても、放っておけない。


 声をかけられると、逃げられない。


 そしてたぶん。


 少しだけ、嬉しい。


「梢」


 莉央ちゃんが、楽しそうに言った。


「行ってらっしゃい」


「……うん」


 私は立ち上がった。


 朝倉さんが、当然みたいに笑った。


「よし。行くぞ、藤谷妹」


「はい」


「梢、本当に無理しなくていいからな」


 お兄ちゃんが、兄の顔で言った。


 私は小さく笑った。


「大丈夫。お兄ちゃんほどじゃないから」


「何が?」


「巻き込まれ方」


 お兄ちゃんが固まった。


 高岡さんが、少しだけ目を細めた。


「妹さん、学習してるな」


「だから坂本さんみたいに言うな!」


 お兄ちゃんの声を背中に聞きながら、私は朝倉さんの隣を歩いた。


 巻き込まれている。


 でも、悪くない。


 そう思ってしまった時点で、たぶん私はもう、こちら側にいる。

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