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朝倉奏多が恋愛ヤンキーだった日

 クリスマス会の数日後。


 俺は、ようやく平和が戻ってきたと思っていた。


 思っていた。


 なぜ人は、学習しても油断するのか。


「藤谷」


 高岡が隣の席から声をかけてきた。


「何だ」


「顔が死んでる」


「朝から会議三本だぞ。生きてるほうが不自然だろ」


「でも、悪くない」


「坂本さんみたいに言うな」


 いつものやり取り。


 いつもの部署。


 いつもの仕事量。


 そして、いつものように、なぜか朝倉さんがいた。


 しかも、自分の部署でもないのに、うちの打ち合わせスペースでコーヒーを飲んでいる。


「朝倉さん」


「何だ」


「仕事は」


「してる」


「ここで?」


「心の中で」


「帰ってください」


 朝倉さんは低く笑った。


 帰る気はないらしい。


 その近くには、仁くんもいた。


 こちらはちゃんと理由がある。

 デザイン関係の確認で来ている。

 内定者なのに、もう普通に戦力みたいな顔をしている。


 いや、実際かなり戦力だ。


 坂本さんも普通に資料を渡している。


 怖い。


 白石仁、会社への馴染み方が早い。


 その時、俺のスマホが震えた。


 梢からだった。


『受付から連絡があって、朝倉奏多さんから呼び出された』


 俺は固まった。


 続きが来た。


『朝倉さんはいつも通り見当たらないし、お兄ちゃんも一緒に来て』


 いつも通り見当たらない。


 妹よ。


 その認識は正しい。


 だが今、その朝倉さんは俺の斜め前でコーヒーを飲んでいる。


「……朝倉さん」


「何だ」


「奏多くん、来てます」


 朝倉さんの顔から、笑いが消えた。


「は?」


 低い。


 声が低い。


「どこに」


「受付です。梢を呼び出してるみたいで」


「……あいつ」


 朝倉さんが立ち上がった。


 立ち上がり方に、兄の圧があった。


 すると、仁くんも無言で立った。


「白石?」


「行きます」


「お前は関係ねぇだろ」


「あります」


「どこに」


「必要な位置に」


 出た。


 必要な位置。


 クリスマス会から継続している防衛ワード。


 高岡が小さく言った。


「再発対応チームだな」


「チーム名をつけるな」


 俺も立ち上がった。


 行くしかない。


 俺の妹が呼ばれている。


 しかも相手は、朝倉奏多。


 恋愛ヤンキー。


 小さいもの好き。


 猫用ベッド三つ。


 情報が不穏すぎる。


 受付フロアへ向かう途中、朝倉さんは珍しく無言だった。


 仁くんも無言だった。


 俺は二人の間で、胃が痛かった。


 到着すると、梢が受付近くで困ったように立っていた。


 その前に、スーツ姿の奏多くんがいた。


 忙しいはずの人間の立ち姿ではない。


 きちんとしている。

 整っている。

 だけど、明らかに目的が仕事ではない。


「梢さん」


 声が甘い。


 低くて、まっすぐで、距離が近い。


「急にお呼びしてすみません」


「あ、いえ……でも、どういったご用件でしょうか」


「顔を見に来ました」


 俺は足を止めた。


 来るな。


 会社に、顔を見に来るな。


「奏多」


 朝倉さんの声が飛んだ。


 奏多くんが振り向いた。


 一瞬だけ、ちゃんとした弟の顔になる。


「兄さん」


「何してんだ」


「挨拶です」


「会社の受付で?」


「はい」


「帰れ」


 早い。


 兄の判断が早い。


 奏多くんは少し眉を寄せた。


「兄さん、まだ話が」


「帰れ」


「梢さんに迷惑は」


「かけてる」


 即答。


 朝倉晴臣、身内に厳しい。


 いや、これは正しい。


 かなり正しい。


 その時、奏多くんの視線が仁くんに移った。


 空気が変わった。


「……は?」


 出た。


「なんで白石がいるんだよ。お前、ここの社員じゃないだろう?」


 治安。


 治安が一瞬で悪くなった。


 仁くんは静かに返した。


「請け負った業務の範囲内です」


「受付に?」


「必要な確認です」


「何の」


「梢さんの安全確認です」


「おい」


「はい」


「お前、何様だよ」


「白石です」


「名前聞いてねぇよ」


 わちゃわちゃしてきた。


 非常にわちゃわちゃしてきた。


 梢が俺の後ろに少し下がった。


 怖がっているというより、困っている。


 それがまた、奏多くんの視線を刺激している気がする。


「梢さん」


「はい」


「困らせるつもりはありません」


「はい……」


「ただ、クリスマス会のあと、もう一度きちんと話したくて」


「会社に来るな」


 俺は兄として言った。


 奏多くんがこちらを見た。


「藤谷さん」


「はい」


「妹さんを大切にされているのは分かります」


「分かってるなら会社に来るな」


「でも、俺も大切にしたいと思っています」


「急に重い!」


 高岡がいなくてよかった。


 いや、いたら今ごろ淡々と実況していた。


 仁くんが一歩前へ出た。


「梢さんは、あなたの保護対象ではありません」


 奏多くんの目が細くなった。


「白石」


「はい」


「お前に言われる筋合いはない」


「あります」


「どこに」


「梢さんが困っているところに」


「……ちっ」


 音がした。


 舌打ち。


 受付フロアで。


 跡取り修行中の好青年が。


 舌打ちした。


 受付の人が、聞こえなかったふりをしてくれている。


 プロだ。


 ありがたい。


「奏多」


 朝倉さんの声がさらに低くなった。


「ここ、うちの会社じゃねぇぞ」


「分かってる」


「分かってねぇから来てんだろ」


「兄さんには関係ない」


「ある。俺の顔も潰れる」


「兄さん、普段からここにいるだろ」


「俺はいいんだよ」


「よくないですよ」


 俺はつい言った。


 朝倉さんに睨まれた。


 でも事実だ。


「とにかく帰れ」


「まだ梢さんと話してない」


「用件は」


「連絡先を」


「帰れ」


 朝倉さんが遮った。


 強い。


 兄、強い。


 そこへ、背後から静かな声がした。


「何をしている」


 坂本さんだった。


 外出先から戻ってきたらしい。

 コートを腕にかけ、資料を持っている。


 表情は静か。


 でも目が、少し細い。


 受付フロアの温度が下がった。


 あ。


 会社の秩序が来た。


 奏多くんも、さすがに姿勢を正した。


「坂本さん」


「朝倉奏多くん」


「はい」


「来訪目的は」


「……個人的な挨拶です」


「受付を通して社員を呼び出す必要がある挨拶か」


 静か。


 怖い。


「ありません」


「では、今日は帰ってください」


「……はい」


 強い。


 坂本さん、強い。


 朝倉さんが身内として追い返し、坂本さんが会社として締める。


 完璧な二段構え。


 奏多くんは、梢のほうを見た。


 さっきまでの治安の悪さが、すっと消える。


「梢さん」


「はい」


「突然すみませんでした。また、改めて」


「改めるな」


 仁くんが即答した。


「白石」


「はい」


「あとで話あるからな」


「こちらこそ」


「ここで決闘の予定を立てるな!」


 俺の声が受付フロアに響いた。


 坂本さんの目がこちらを向いた。


「藤谷」


「すみません」


 なぜ俺が謝っているのか。


 奏多くんは、朝倉さんに肩を押されるようにして受付を出ていった。


 去り際、もう一度だけ梢を見た。


 そして、なぜか少し甘く笑った。


 梢が困ったように小さく会釈した。


 仁くんが、すっとその視線の間に入った。


 奏多くんの眉が動いた。


 朝倉さんが首根っこをつかむ勢いで連れていった。


 数分後。


 ようやくフロアに戻ると、梢は小さく息を吐いた。


「ごめんね、お兄ちゃん。忙しいのに」


「いや、呼んで正解」


 これは本当にそうだ。


 呼ばなかったら、受付で恋愛ヤンキーが会社訪問を完遂していた。


 恐ろしい。


 仁くんが、梢に向き直った。


 声が静かだった。


「梢さん」


「はい」


「何かあったら、僕に連絡してください」


「え?」


「最優先で駆け付けます」


 まっすぐだった。


 姉さん案件の時の熱さとは違う。


 でも、同じくらい強い。


 梢は少し驚いて、それから困ったように笑った。


「ありがとうございます。でも、白石さんもお仕事が」


「大丈夫です」


「大丈夫なんですか?」


「大丈夫にします」


 強い。


 白石仁、静かに強い。


 俺は隣で、兄として複雑な気持ちになった。


 ありがたい。

 ものすごくありがたい。


 でも、妹に「最優先で駆け付けます」と言う男がいる現実に、俺の心が追いつかない。


 坂本さんが静かに言った。


「白石くん」


「はい」


「業務は業務として進めるように」


「承知しています」


「ならいい」


 坂本さんはそれ以上何も言わなかった。


 でも、少しだけ口元が動いた気がした。


 気のせいかもしれない。


 朝倉さんは、しばらくして戻ってきた。


 なぜ戻ってくる。


「追い返した」


「ありがとうございます」


「父さんにも連絡した」


「そこまで?」


「あいつ、放っとくとまた来る」


 再発対応が本格的だった。


 朝倉さんは梢を見て、少しだけ申し訳なさそうに頭を下げた。


「悪かったな。うちの末っ子が」


「あ、いえ……びっくりしましたけど、悪い方ではないと思います」


 梢。


 優しい。


 優しいが、その優しさはたぶん危険物だ。


 朝倉さんが苦笑した。


「そう言うと、あいつ調子乗るぞ」


「えっ」


「だから、困ったらすぐ言え。俺でも藤谷でも、あと白石でもいい」


 仁くんが静かにうなずいた。


「僕でお願いします」


「お前も前に出るな」


 朝倉さんが突っ込んだ。


 俺はその光景を見ながら、頭を抱えたくなった。


 クリスマス会は終わった。


 終わったはずだった。


 なのに、朝倉奏多は会社に来た。


 忙しいはずなのに。

 跡取り修行中のはずなのに。

 受付を通して梢を呼び出した。


 恋愛ヤンキー。


 その言葉の意味を、俺は今日、職場で理解した。


 高岡が席に戻ってきた俺を見て、静かに聞いた。


「どうだった」


「恋愛ヤンキーだった」


「タイトル回収だな」


「何のタイトルだよ」


「でも、悪くない」


「坂本さんみたいに言うな!」


 俺の叫びに、部署の空気が少しだけ揺れた。


 平和だった。


 たぶん。


 でも俺のスマホには、梢から追加のメッセージが来ていた。


『白石さん、すごく心配してくれてたね』


 俺は画面を見つめた。


 それから、ゆっくり天井を見上げた。


 朝倉奏多が恋愛ヤンキーだった日。


 同時に。


 白石仁が、静かに防衛ラインを確定させた日でもあった。

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