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白石仁は、内定した

十一月の空気は、少しだけ冷たい。


会社の窓から見える街路樹も、だいぶ色が変わっていた。


俺はその日、朝から嫌な予感がしていた。


理由は簡単だ。


坂本さんが、朝一番でこう言ったからだ。


「午後、白石仁が来る」


白石仁。


来る。


会社に。


俺は固まった。


「……何しにですか」


「内定の挨拶だ」


「内定」


「うちに入ることになった」


入ることになった。


うちに。


白石仁が。


坂本さんの会社に。


俺はゆっくり高岡を見た。


高岡はコーヒーを持ったまま、静かに言った。


「藤谷」


「何」


「逃げ場が減ったな」


「言うな」


逃げ場。


そう。


俺の逃げ場が、またひとつ消えた。


白石仁くん。


美沙さんの弟。


坂本さんを怖がらない人間。


姉さん案件になると温度が上がる男。


最近は、俺の妹に「足元、段差あります」とか言う男。


普通の大学生の男の子みたいな顔をする男。


そして今度は。


後輩になる。


「……後輩?」


俺が小さく呟くと、坂本さんがこちらを見た。


「配属はまだ未定だ」


「でも、会社には入るんですよね」


「そうだ」


「坂本さんの後輩で、俺の後輩で、でも美沙さんの弟で、坂本さんの家庭教師時代の教え子で、俺の妹と少し距離が近い人間が、会社に入る」


「整理できているな」


「できてません!」


高岡が隣で頷いた。


「情報量が多い」


「だろ!」


「でも、悪くない」


「坂本さんみたいに言うな」


高岡は少しだけ笑った。


やめろ。


最近、高岡が坂本さん構文を使いこなしてきている。


同期が進化している。


俺の処理だけが追いついていない。


◇


午後二時。


受付から連絡が来た。


「白石仁様がお見えです」


様。


白石仁様。


何だその丁寧な響き。


俺の中ではまだ、唐揚げを「一個だけ」と言いながら食べる大学生だ。


坂本さんが立ち上がった。


「行くぞ」


「俺もですか?」


「顔を知っているだろう」


「知りすぎています」


「なら行くぞ」


拒否権がなかった。


坂本さんの後ろを歩く。


高岡もなぜかついてきた。


「何でお前も来るんだよ」


「観察」


「趣味を持て」


「持ってる」


「それがこれか?」


「一部」


怖い。


高岡の静かな茶目っ気が、最近育っている。


受付に着くと、仁くんが立っていた。


スーツ姿だった。


ちゃんとしたスーツ。


髪も整えている。


いつもの少し尖った感じではなく、今日はきちんと礼儀正しい顔をしている。


普通に優秀そうな大学生だった。


いや、実際、優秀なのだ。


「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」


仁くんが、深く頭を下げた。


俺は思った。


ちゃんとしている。


ちゃんとしているのに。


何かが怖い。


坂本さんが静かに頷いた。


「内定、おめでとう」


「ありがとうございます」


「入社までに卒業要件は確実に満たせ」


「はい」


「Webデザインの実務経験は評価されている。ただし、会社に入れば学生案件とは違う。責任の範囲も、確認の密度も変わる」


「承知しています」


目が細くなった。


坂本さんの。


内定祝いの場で。


目が。


細くなった。


俺は震えた。


しかし仁くんは、まったく震えなかった。


「むしろ、その環境で働きたいと思いました」


強い。


この人、やっぱり怖がる機能がない。


いや、坂本さんに関しては昔からない。


「姉さんの負担を減らしたくて始めた仕事ですけど、それだけじゃなくなりました」


仁くんは、少しだけ視線を落としてから言った。


「自分で選んだ仕事にしたいです」


空気が、少し変わった。


坂本さんの目が、ほんの少しだけ緩む。


「そうか」


短い。


でも、優しい。


坂本さんなりの、かなり優しい声だった。


俺はちょっとだけ、胸があたたかくなった。


その瞬間。


背後から低い声がした。


「お、内定者くんじゃねえか」


出た。


朝倉さんだ。


なぜいる。


いや、いる。


必要な時に現れる人。


便利な朝倉晴臣。


「朝倉さん」


仁くんが少し表情を緩めた。


「おう。入るのか、うちに」


「はい」


「じゃあ唐揚げ食うか?」


「今ですか?」


「内定祝い」


「会社の受付で唐揚げを出さないでください」


俺が言うと、朝倉さんは平然と答えた。


「受付じゃ出さねえよ。休憩室だ」


「場所の問題じゃないです」


「藤谷は細かいな」


「俺が細かいんですか?」


坂本さんが静かに言った。


「朝倉」


「何だよ」


「今日は挨拶だ」


「分かってる」


「唐揚げで採用活動をするな」


「してねえよ。福利厚生だ」


「違う」


福利厚生。


唐揚げが。


俺は頭を抱えた。


仁くんは少しだけ笑っていた。


普通の大学生の男の子みたいに。


それを見て、俺はまた少し複雑になった。


◇


結局、場所は会議室になった。


人事への挨拶のあと、坂本さんのチームにも顔を出す流れになったらしい。


バイトに来ていたこともある。


コンペで採用されたこともある。


関係者への挨拶としては、まあ自然だ。


自然なのだが。


「白石仁です。来春からお世話になります。よろしくお願いいたします」


仁くんがチームの前で頭を下げた瞬間、柏木くんが手を挙げた。


「質問してもいいですか」


早い。


「どうぞ」


仁くんが言う。


「白石さんは、白石美沙さんの弟さんですよね」


空気が止まった。


いきなりそこ。


柏木澄人。


怖さの翻訳機能だけでなく、場の温度計もまだ実装途中。


「そうです」


仁くんの声が、少し低くなった。


「では、坂本さんの義弟候補ですか」


部屋の温度が下がった。


十一月なのに。


暖房が入っているのに。


「柏木」


坂本さんの声が静かに落ちた。


「事実関係の確認です」


「今するな」


「分かりました」


分かったんだ。


素直。


素直だが遅い。


仁くんは笑っていない。


坂本さんも笑っていない。


俺は心の中で叫んだ。


やめろ柏木くん。


入社前の内定者を凍らせるな。


いや、凍らせているのはどちらかというと仁くんと坂本さんだ。


高岡が横から静かに言った。


「柏木」


「はい」


「その話題は、火気厳禁」


「火は使っていません」


「比喩だ」


「比喩でしたか」


柏木くんは納得した。


納得が遅い。


「白石さん」


柏木くんは仁くんを見た。


「入社後はよろしくお願いします」


「……よろしくお願いします」


仁くんは、かろうじて社会人予定者の顔で返した。


偉い。


成長している。


姉さん案件なのに耐えた。


その瞬間、朝倉さんが会議室の入口から低く言った。


「仁、偉いな。唐揚げ食うか」


「一個だけ」


食うんだ。


◇


休憩室に移動した。


なぜか唐揚げがあった。


なぜある。


朝倉さんの引き出しはどうなっている。


「コンビニのやつだぞ」


「会社の引き出しに唐揚げを入れないでください」


「温めた」


「そういう問題じゃないです」


仁くんは紙皿の唐揚げを一個だけ取った。


本当に一個だけ。


そして食べた。


「……おいしいです」


「だろ」


朝倉さんが満足げに笑う。


仁くんは少し悔しそうだった。


懐いている。


これは懐いている。


本人は認めないだろうが、かなり懐いている。


そこへ、梢が来た。


別部署から書類を届けに来たらしい。


俺の妹。


藤谷梢。


少し人見知りで、でも最近は前よりずっと職場に馴染んできた。


梢は休憩室の入口で、仁くんを見て一瞬だけ目を丸くした。


「白石さん」


仁くんも、少し驚いた顔をした。


「藤谷さん」


白石さん。


藤谷さん。


まだ丁寧。


まだ遠い。


でも、デイキャンプの朝より近い。


俺の兄センサーが反応した。


弱めに。


以前より弱めに。


つまり、俺も成長している。


たぶん。


「内定、おめでとうございます」


梢が少し緊張しながら言った。


「ありがとうございます」


仁くんの声が、ほんの少し柔らかくなった。


おい。


その声。


俺は聞いたぞ。


「来春から、同じ会社なんですね」


「はい。まだ配属は分かりませんけど」


「でも、またお会いできますね」


梢がそう言った瞬間。


仁くんが固まった。


今度は仁くんが処理落ちした。


珍しい。


白石仁が。


坂本さんの細い目にも耐える男が。


俺の妹の「またお会いできますね」で止まった。


俺は高岡を見た。


高岡も俺を見た。


「藤谷」


「何」


「白石くんも落ちるんだな」


「言うな」


「でも、悪くない」


「だから坂本さんみたいに言うな」


坂本さんが近くでこちらを見た。


「何が悪くないんだ」


「いえ」


高岡が即答した。


逃げた。


お前、逃げるのうまいな。


仁くんは、ようやく処理を戻した。


「……はい。また、よろしくお願いします」


「こちらこそ」


梢が小さく笑った。


仁くんも、少しだけ笑った。


普通の大学生の男の子みたいに。


俺は複雑だった。


複雑だったが。


前ほど嫌ではなかった。


いや。


認めたわけではない。


ここは大事だ。


◇


その後、仁くんは坂本さんと少しだけ話をして帰ることになった。


エレベーターホールまで見送りに行く。


なぜ俺と高岡もいるのかは分からない。


俺は、巻き込まれ体質だ。


たぶん高岡は、趣味の一環だ。


仁くんは、坂本さんに向き直った。


「一志さん」


「何だ」


「内定を受けること、姉さんも喜んでくれました」


坂本さんの表情が、少しだけ柔らかくなった。


「そうか」


「でも、姉さんに安心してもらうためだけじゃなくて」


仁くんは、まっすぐ坂本さんを見た。


「俺自身が、ここで働きたいと思いました」


坂本さんは黙って聞いていた。


「一志さんがいるから、じゃないです」


「そうか」


「姉さんの恋人がいる会社だから、でもないです」


「それは当然だ」


少し早い。


坂本さんの返事が少し早い。


そこは気になるんだ。


「……でも」


仁くんは少しだけ笑った。


「一志さんが仕事で怖い理由は、少し分かるようになりました」


「怖い?」


坂本さんの目が細くなった。


やめてください。


本人確認しないでください。


「責任を、人任せにしないからです」


仁くんが言った。


「数字も、設計も、言葉も。甘く扱わない。それは、怖いです。でも、信頼できます」


坂本さんは、少し黙った。


そして、静かに言った。


「入社したら、身内扱いはしない」


「望むところです」


強い。


この二人、やっぱり怖い。


「ただし」


坂本さんが続けた。


「困った時に相談するな、という意味ではない」


仁くんが、少し目を開いた。


「会社では、報告と相談は早いほうがいい」


「……はい」


「ひとりで抱え込むな」


その声は、仕事の坂本さんだった。


でも少しだけ、違った。


昔、家庭教師をしていた相手に向ける声。


美沙さんの弟に向ける声。


そして、来春から同じ会社で働く内定者に向ける声。


仁くんは、ゆっくり頭を下げた。


「よろしくお願いします」


「こちらこそ」


エレベーターが来た。


仁くんが乗る。


扉が閉まりかけた時、朝倉さんがどこからともなく現れて言った。


「仁、今度飲みに行くか」


「未成年じゃないですけど、まだ学生です」


「じゃあ飯」


「唐揚げ以外でお願いします」


「贅沢言うな」


「言います」


扉が閉まった。


最後に見えた仁くんの顔は、少しだけ笑っていた。


◇


戻り道。


俺は長いため息をついた。


「高岡」


「何」


「来春から、白石仁くんが会社にいる」


「そうだな」


「坂本さんの近くにいて、美沙さんの弟で、朝倉さんに懐いてて、柏木くんと相性悪くて、梢とも知り合いで」


「そうだな」


「俺の逃げ場は?」


高岡は少し考えた。


「ない」


「考えた結果がそれか」


「正確に言った」


「坂本さんみたいに言うな!」


高岡が笑った。


本当に少しだけ。


その横で坂本さんが、いつもの静かな顔で歩いていた。


でも、さっきより少しだけ柔らかかった。


たぶん、美沙さんに報告するのだろう。


白石仁が、内定の挨拶に来た。


ちゃんとしていた。


自分で選んだと言った。


美沙さんは、きっと笑う。


柔らかく。


嬉しそうに。


そして坂本さんの声も、きっと少し柔らかくなる。


俺はそれを想像してしまって、また少し処理が落ちた。


「藤谷」


高岡が言った。


「何」


「来春までに、慣れておけ」


「無理だろ」


「余白はある」


「高岡」


「何」


「デイキャンプから帰ってこい」


「戻ってる」


「戻ってない」


十一月の廊下は、少し冷たかった。


でも、なんとなく空気は温かかった。


白石仁が、内定した日。


俺の逃げ場は、また少し減った。


でも。


悪くない。


……いや。


坂本さんみたいに言うな、俺。

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