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高岡くんがマスターになりたかった日

 予定は、少し遅れていた。


 高岡の行程表によると、今は片付けに入る前の休憩時間である。


 ただし、現実には。


 琴音さんは、天幕の下で行程表を見ながら「余白」について考えている。


 美波さんは、俺の隣でホットサンドメーカーを洗う順番について聞いてくる。


 仁くんは、梢に日陰を譲って、少し離れたところでペットボトルを持っている。


 朝倉さんは、安全管理者という名目でビールを飲んでいる。


 そして高岡は、立ったまま全体を見ていた。


 静かに。


 いつもの顔で。


 でも、俺には分かった。


 少しだけ、予定が崩れていることを気にしている。


「高岡」


「何」


「大丈夫か」


「何が」


「予定」


「大丈夫」


 即答だった。


 即答だったが、手元の行程表を見た。


 見たな。


「今、行程表見た」


「確認しただけ」


「気にしてるだろ」


「気にしてない」


「じゃあ、何でペグの数をもう確認してるんだ」


「片付けでなくすと困る」


「まだ片付け前だぞ」


「だから先に確認してる」


 高岡祥。


 この男は、緊張すると段取りが増える。


 恋愛の緊張も、予定の崩れも、全部確認事項になる。


 可愛いと言えば可愛い。


 ただし、本人に言うとたぶん黙る。


 そして俺の仕事が増える。


「高岡さん」


 琴音さんが、行程表を胸元に持ったまま近づいてきた。


「はい」


「予定より、少し遅れていますね」


「はい」


 高岡は正直に答えた。


「片付けの時間は足りますか?」


「足ります」


「なぜですか?」


「余白を取ってあるので」


 琴音さんは、少し目を細めた。


 嬉しそうだった。


「高岡さんの余白は、本当にいろいろ入るんですね」


「今日は特に入りました」


 高岡が静かに言った。


 俺は思わず周囲を見た。


 美波さんが俺にうちわを渡してくれたこと。


 俺が美波さんに「一緒にやりますか」と言ったこと。


 仁くんが梢のために日陰を作ったこと。


 梢が「白石さん、ちゃんと親切だから」と笑ったこと。


 朝倉さんがビールを飲んだこと。


 いや、最後は予定通りかもしれない。


「高岡」


「何」


「朝倉さんのビールは余白じゃなくて仕様だと思う」


「だろうな」


「おい、高岡」


 朝倉さんが、少し離れた椅子から低い声を出した。


「俺を何だと思ってる」


「安全管理者です」


「安全管理者に対する扱いか?」


「飲んでるので」


「見守ってる」


「飲みながら」


「見守りにも水分が必要なんだよ」


「麦の水分ですね」


「藤谷、うまいこと言うな」


「褒めなくていいです」


 琴音さんが、小さく笑った。


 その笑い方が、朝よりずっと柔らかかった。


 キャンプ場に来たばかりの琴音さんは、何もかもを丁寧に確認していた。


 天幕。


 タープ。


 ペグ。


 軍手の左右。


 火起こしの作法。


 行程表の余白。


 ひとつずつ、自分の世界の言葉に変換していた。


 壁のないお部屋。


 地面との約束。


 自然のための場所。


 笑えるのに、可愛い。


 深窓のご令嬢が、初めて野原に出て、世界の名前をひとつずつつけ直しているみたいだった。


 そして高岡は、その言葉を一度も笑わなかった。


 茶化さず、否定せず、ただ実務に戻した。


 詩を、ロープとペグと火加減に変えた。


 たぶん、琴音さんはそこを見ている。


「高岡さん」


「はい」


「片付けも、教えていただけますか」


「もちろんです」


「何からすればいいですか?」


「火の完全な処理と、洗い物と、天幕の撤収です。まず熱いものが残っていないか確認します」


「終わらせる作法ですね」


「そうです」


 高岡が、ほんの少し笑った。


 同期なので分かる。


 今のは、かなり嬉しい。


 ◇


 片付けが始まった。


 高岡は、やはり高岡だった。


 火の始末。


 炭の確認。


 水の位置。


 洗い物の仕分け。


 ゴミ袋の分別。


 テーブルを拭く人。


 椅子をたたむ人。


 天幕を押さえる人。


 何もかも、静かに指示が出る。


「朝倉さん、空き缶はその袋です」


「はいはい」


「はいは一回で」


「坂本か」


「違います」


 拒否が早い。


「美波さん、その布巾は洗い物用です」


「はい」


「藤谷、それはまだしまわない」


「はい」


「仁くん、ロープまとめてもらっていい?」


「分かりました」


「梢さん、無理に持たなくていいので、軽いものからお願いします」


「はい」


「琴音さん、そのカップを洗うものと拭くものに分けてもらえますか」


「承知しました」


 承知しました。


 キャンプ場の洗い物で出る言葉ではない。


 でも琴音さんだと、不思議と合う。


 琴音さんは、カップを丁寧に並べ始めた。


 真っ直ぐ。


 種類ごとに。


 高さも揃えて。


 お嬢様、片付けにも品が出る。


「琴音さん」


 高岡が少し困ったように言った。


「はい」


「そこまで揃えなくても大丈夫です」


「そうなのですか?」


「はい。洗うので」


「洗うので」


「多少、雑でも大丈夫です」


 琴音さんは、並べたカップを見た。


 それから、高岡を見た。


「雑にしても、よい場所なのですね」


「はい。外なので」


「外なので」


 琴音さんは、少し考えてから、カップを一つずらした。


 本当に少しだけ。


 五ミリくらい。


 それを見て、高岡が黙った。


 俺も黙った。


 雑の練習が、上品すぎる。


「……それでいいと思います」


 高岡が言った。


「はい」


 琴音さんは、少し誇らしそうだった。


 俺は耐えた。


 笑ってはいけない。


 可愛いから。


「藤谷」


 高岡がこちらを見る。


「何」


「顔」


「出てた?」


「出てた」


「悪い」


「分かるけど」


「高岡も分かるんだな」


「分かる」


 お前も可愛いと思ってるんじゃないか。


 言わなかった。


 言わなくても、高岡の耳が少し赤かった。


 同期なので分かる。


 ◇


 天幕の撤収は、思ったより大変だった。


 立てる時より、片付ける時のほうが難しい。


 布は風を受ける。


 ロープは絡む。


 ペグは土を連れてくる。


 朝倉さんはビールを飲む。


 最後だけ関係ない。


「朝倉さん、そこ踏まないでください」


「分かってる」


「踏んでます」


「これは踏んでるんじゃなくて押さえてる」


「足で?」


「原始的だろ」


「雑すぎます」


 高岡が一瞬だけ目を閉じた。


 疲れている。


 高岡が疲れている。


 珍しい。


「高岡」


「何」


「俺、そっち持つ」


「助かる」


 俺は布の端を持った。


 風が入る。


 少し膨らむ。


 反対側に美波さんが来た。


「藤谷さん、こちらで合っていますか?」


「はい。そこ、持ってもらえますか」


「はい」


 自然に言えた。


 自分で少し驚いた。


 でも、美波さんはもっと嬉しそうだった。


「引っ張りすぎないで、軽く張る感じで」


「高岡さんの軽く、ですね」


「それ、琴音さんの言い方」


「素敵だったので」


「朝倉家、学習が早い」


「ありがとうございます」


「褒めてるようで褒めてないです」


「でも嬉しいです」


 強い。


 美波さんは本当に強い。


 でも、今日はもう、少しだけ分かる。


 近いけど、ちゃんと見ている。


 押すけど、戻るのを待っている。


 だから俺も、声をかけられる。


「美波さん」


「はい」


「もう少しこっち、お願いします」


「はい」


 俺が言う。


 美波さんが動く。


 それだけで、天幕の布が綺麗にたためた。


 ただの片付けだ。


 ただの作業だ。


 なのに、美波さんは嬉しそうに笑う。


 俺も、少しだけ笑ってしまった。


「藤谷」


 高岡が言った。


「何」


「いい感じ」


「布が?」


「布も」


「他は言うな」


「言ってない」


「顔が言ってる」


「お前もだいたい漏れてる」


「うるさい」


 高岡が少し笑った。


 やっぱり面白がっている。


 だが、今日の高岡は、俺たちを面白がっている余裕があるようで、ない。


 全体を見ている。


 予定を見ている。


 琴音さんを見ている。


 自分の普通が、ちゃんと伝わっているかを気にしている。


 高岡くんが、マスターになりたかった日。


 そんな言葉が、ふと頭に浮かんだ。


 前回、高岡は本当にマスターだった。


 風を読み、天幕を立て、坂本さんと仁くんすら実務で黙らせた。


 でも今日は、違う。


 今日は、完璧に仕切りたいだけではない。


 琴音さんに、自分の得意な世界を見せたかったのだ。


 たぶん、少し格好つけたかった。


 珍しく。


 高岡らしく、静かに。


 その結果。


 朝倉さんは飲む。


 美波さんは俺の横にいる。


 仁くんは梢に日陰を作る。


 琴音さんはカップを五ミリだけずらして雑を学ぶ。


 予定は崩れる。


 でも、高岡は崩れた予定を、ひとつずつ拾っていた。


 ◇


 最後に、ペグの確認をした。


 高岡が数える。


「一本、二本、三本……」


 仁くんが横から言う。


「こっちに二本あります」


「ありがとう」


「土、落としますか」


「軽くでいい」


「分かりました」


 仁くんはもう、普通に手伝っている。


 梢がその様子を少し離れて見ていた。


「白石さん、慣れてますね」


「前に教えてもらったので」


「高岡さんに?」


「はい」


 仁くんが少しだけ高岡を見る。


「高岡さんは、外だと強いので」


「外だと」


 高岡が小さく言った。


「室内でも弱くはないつもりだけど」


「仕事では坂本さんが強すぎます」


「それは否定しない」


 高岡が認めた。


 認めるんだ。


 梢が小さく笑った。


 仁くんも少し笑った。


 その顔が、普通の大学生の男の子に見えた。


 いつもの鋭さがない。


 姉さんのことになると温度が上がる仁くんではなく、好きな子の前で少し照れている男の子。


 俺は、また兄として複雑になった。


 でも、前ほど警報は鳴らなかった。


 たぶん、見慣れてきたのではない。


 受け入れ始めているのだ。


 いや。


 まだ認めたわけではない。


 ここは大事だ。


「藤谷さん」


 仁くんが言った。


「何」


「ペグ、一本足りません」


「何で俺に言う」


「藤谷さんが最後に持っていました」


「俺?」


「はい」


 全員の視線が俺に集まる。


 俺は手元を見た。


 ない。


 ポケットを触る。


 ない。


 足元を見る。


 ない。


 美波さんが、俺の少し後ろを指さした。


「藤谷さん、そこです」


 あった。


 俺の椅子の下に。


 ペグが一本。


 静かに転がっていた。


「……ありました」


「藤谷」


 高岡が静かに言う。


「何」


「地面との約束を放置するな」


 琴音さんが目を輝かせた。


「高岡さん、覚えていてくださったのですか?」


「はい」


 高岡の顔はいつも通りだった。


 でも、琴音さんは本当に嬉しそうだった。


「ありがとうございます」


「いえ」


 俺はペグを拾った。


「何だろう。俺が怒られたはずなのに、二人の距離が縮まった」


「藤谷さんのおかげですね」


 美波さんが言った。


「そういうことにしないでください」


「でも、ありがとうございます」


「やめてください。俺の処理が変な方向に落ちます」


 朝倉さんが、椅子に座ったまま笑った。


「藤谷、今日ずっと落ちてんな」


「誰の妹さんのせいだと思ってるんですか」


「美波か」


「主に」


「いいじゃねえか」


「よくはないです」


「戻ってきてんだろ」


 俺は黙った。


 朝倉さんは、時々こういうことを言う。


 雑なのに、妙に核心に近い。


「……戻っては、います」


 俺が言うと、美波さんが嬉しそうに笑った。


 やめてほしい。


 いや。


 やめなくていい。


 どっちだ。


 ◇


 片付けが終わった。


 予定より少し遅れた。


 でも、バスの時間には十分間に合う。


 高岡の余白は、最後まで機能していた。


 撤収した場所は、来た時とほとんど同じ地面に戻っていた。


 天幕がなくなったことで、少しだけ寂しい。


 さっきまでここに、壁のないお部屋があった。


 琴音さんが、その場所を静かに見ていた。


「なくなると、少し不思議ですね」


「はい」


 高岡が答えた。


「でも、持って帰れるんですね」


「道具は」


「場所は?」


 琴音さんが聞いた。


 高岡は少し考えた。


「場所は、覚えて帰るものかもしれません」


 俺は高岡を見た。


 高岡が、詩的なことを言った。


 事件では?


 琴音さんが、驚いたように目を見開いた。


 それから、ゆっくり笑った。


「高岡さんも、そういう言い方をなさるんですね」


「……たまにです」


 照れている。


 高岡が照れている。


 珍しい。


 すごく珍しい。


 俺は見逃さなかった。


「藤谷」


 高岡が言った。


「何」


「言うな」


「まだ何も言ってない」


「顔が言ってる」


「俺、そんなに顔に出る?」


「出る」


 全員が頷いた。


「全員で頷くな!」


 梢まで頷いていた。


 妹よ。


 兄を助けてくれ。


「お兄ちゃん、分かりやすいから」


「妹まで」


 仁くんが小さく笑った。


 普通の大学生の男の子みたいな顔で。


 俺は、また少し複雑になった。


 でも、今日のところはいい。


 今日のところは。


 ◇


 管理棟へ使用終了の報告に行く前、高岡が最後に荷物を確認した。


 数が揃っている。


 ゴミもない。


 炭の処理も終わっている。


 火も完全に消えている。


 忘れ物もない。


 ただひとつ、朝倉さんの空き缶が袋の口から少し見えていた。


「朝倉さん」


「持って帰るって」


「見えています」


「見えてちゃだめなのか」


「だめではありませんが、主張が強いです」


「空き缶に主張って何だよ」


「朝倉さんの空き缶なので」


「俺のせいか」


「はい」


 高岡が即答した。


 朝倉さんは、なぜか楽しそうだった。


「高岡、お前さ」


「はい」


「今日はマスターっぽく決めたかったんだろ」


 空気が止まった。


 高岡の手も止まった。


 俺も止まった。


 琴音さんも、高岡を見た。


 朝倉さんは、にやっと笑っている。


 この人は本当に、こういうところで爆弾を落とす。


「朝倉さん」


 高岡の声が少し低い。


「何だよ」


「余計です」


「いいじゃねえか。男としては普通だろ」


「普通ではないです」


「好きな子に、得意なとこ見せたい。普通だろ」


 直球。


 急にストレート。


 朝倉家の血は、カーブを知らない。


 美波さんが横で少し笑っている。


 ああ、兄妹だ。


 高岡は黙った。


 琴音さんも黙った。


 俺はどうしたらいいか分からず、管理棟の方向を見た。


 逃げ道。


 いや、俺が逃げる場面ではない。


 高岡が、少しだけ息を吐いた。


「……そうかもしれません」


 認めた。


 高岡が認めた。


 俺は空を見上げた。


 今日、何かが起きている。


「高岡さん」


 琴音さんが、静かに呼んだ。


「はい」


「そうだったのですか?」


「……はい」


 高岡は、珍しく少し視線を落とした。


「前に、屋外のことを褒めてもらったので」


「はい」


「今日は、ちゃんと案内したかったんです」


「はい」


「でも、予定通りにはいきませんでした」


 高岡の声は静かだった。


 少し悔しそうで。


 少し照れていて。


 少しだけ、いつもより年相応だった。


「火起こしも、片付けも、散策も、遅れました。朝倉さんは飲むし、藤谷は処理落ちするし、白石くんと梢さんは別の流れを作るし」


「高岡、最後のは何だ」


 俺が言うと、高岡は淡々と返した。


「事実」


「事実だけど言うな」


「美波さんも、藤谷を手伝いすぎるし」


「高岡さん」


 美波さんが笑った。


「藤谷さんは戻ってきてくださいました」


「それも事実」


「そこで認めるな」


 俺の立場がない。


 琴音さんは、少しずつ笑みを深めていた。


「高岡さん」


「はい」


「私は、今日、とても楽しかったです」


 高岡が顔を上げた。


「知らないことばかりでした。軍手の左右も、火を始める前に水を置くことも、地面との約束も、外に居場所を作ることも」


「はい」


「予定通りではなかったのかもしれません」


「はい」


「でも」


 琴音さんは、行程表をそっと持ち上げた。


 朝から大切にしていた、一枚の行程表。


 余白のある紙。


「高岡さんの段取りは、崩れても安心できるんですね」


 高岡が、黙った。


 風が吹いた。


 天幕はもうない。


 でも、さっきまでそこにあった影の形を、まだ少し覚えているような気がした。


 高岡は、少しだけ視線を下げた。


 それから、静かに言った。


「……それは、悪くないですね」


 俺は反射で言った。


「坂本さんみたいに言うな」


 高岡がこちらを見る。


「学習してるな」


「だから坂本さんみたいに言うな!」


 琴音さんが笑った。


 美波さんも笑った。


 梢も笑った。


 仁くんも、少し照れたように笑った。


 朝倉さんは、缶の入った袋を持ち上げながら言った。


「いいじゃねえか。今日の高岡は、ちゃんとマスターだったぞ」


 高岡は少しだけ眉を動かした。


「なりたかっただけです」


「なれてたって」


「予定は崩れました」


「崩れても戻しただろ」


 朝倉さんが、珍しくまともなことを言った。


「そこがマスターなんじゃねえの」


 高岡は答えなかった。


 でも、ほんの少しだけ笑った。


 本当に少しだけ。


 琴音さんは、それを見逃さなかったと思う。


 ◇


 バス停へ向かう道で、高岡は琴音さんの隣を歩いていた。


 歩幅は、朝より少しだけゆっくりだった。


 琴音さんは、行程表をバッグにしまっている。


 もう何度も確認するためではなく、大切に持ち帰るために。


「高岡さん」


「はい」


「次も、外に居場所を作れますか」


 高岡が、少しだけ足を止めた。


 次。


 出た。


 次が出た。


 俺は少し離れたところで聞いていた。


 聞くつもりはなかった。


 でも聞こえた。


 藤谷直樹、耳が仕事をした。


「はい」


 高岡が答えた。


「作れます」


「では、また教えてください」


「はい」


 高岡の声が、柔らかかった。


 同期なので分かる。


 あれはかなり嬉しい。


 かなり。


「藤谷さん」


 美波さんが隣から言った。


「はい」


「高岡さん、嬉しそうですね」


「分かります?」


「はい」


「分かりにくいのに」


「藤谷さんほどではありません」


「俺、そんなに分かりやすいですか」


「はい」


「即答」


「でも、悪くありません」


「またそれですか」


「はい」


 美波さんが笑った。


 俺は逃げ道を確認した。


 バス停。


 管理棟。


 水場はもう遠い。


 でも、大丈夫だった。


 戻れるから。


 前方では、仁くんが梢に「足元、段差あります」と言っていた。


 梢が「ありがとうございます、白石さん」と答えている。


 その距離は、まだ少し丁寧で、少し遠い。


 でも、今日の朝より近い。


 高岡と琴音さんも。


 俺と美波さんも。


 仁くんと梢も。


 少しずつ、違う形で近づいている。


 朝倉さんだけは、最初から距離が近い。


 そこは変わらない。


「朝倉さん」


 俺は言った。


「何だ」


「今日、安全管理者として何しました?」


「見守った」


「ビール飲んでただけですよね」


「場を温めた」


「アルコールで?」


「お前、ほんとそれ好きだな」


 朝倉さんが笑った。


 高岡も、少し笑った。


 琴音さんも笑った。


 秋の空気は、少し冷たくなっていた。


 でも、帰り道はなんとなく温かかった。


 高岡くんが、マスターになりたかった日。


 完璧な一日ではなかった。


 予定は崩れた。


 余白は埋まった。


 ペグは一本、俺の椅子の下に転がった。


 朝倉さんは飲んだ。


 でも、誰も不安ではなかった。


 高岡は最後まで、崩れたものを拾って、戻して、また歩ける形にした。


 たぶんそれが、今日のマスターだった。


 バスが来た。


 高岡が全員の荷物を一度見て、静かに言った。


「忘れ物なし」


 琴音さんが微笑んだ。


「はい。場所は、覚えて帰ります」


 高岡は少しだけ黙って、


「……はい」


 と答えた。


 俺はそれを見て、思った。


 今日は、高岡がマスターだった日ではない。


 高岡がマスターになりたかった日。


 そしてたぶん。


 琴音さんにとっては、最初から最後まで、ちゃんとそうだった日だ。

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