白石仁は、姉さんがいなくても来た
昼食が始まった。
高岡が用意したホットサンドとスープは、普通にうまかった。
普通に、という言い方は失礼かもしれない。
だが、高岡の場合、普通にうまいものを、普通に外で、普通に全員分成立させるところが普通ではない。
ややこしい。
ホットサンドは端が少しだけ焦げていた。
でも中のチーズは溶けていて、トマトの水分もそこまで出ていなくて、ハムとツナと卵の組み合わせもちゃんとしていた。
つまり、うまい。
高岡はやはり屋外に強い。
琴音さんはそのホットサンドを両手で持ち、少し真剣な顔で見つめていた。
「高岡さん」
「はい」
「これは、外で作ったものなのに、ちゃんとお料理ですね」
「はい」
「外で作ったものは、もっと……野性的なものになるのかと思っていました」
「朝倉さんが作るとそうなるかもしれません」
「高岡」
朝倉さんがビール片手に低く言った。
「俺を何だと思ってる」
「安全管理者です」
「調理への信用がない安全管理者だな」
「自覚はあるんですね」
「お前、今日やっぱり坂本っぽいぞ」
「違います」
高岡の拒否は今日も早い。
琴音さんは、ホットサンドをひと口食べて、目を少し細めた。
「おいしいです」
「よかったです」
高岡の声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
同期なので分かる。
この男、顔には出ないが、かなり嬉しい。
その横で、美波さんが自分のホットサンドを見て、少し楽しそうに笑っていた。
「藤谷さん、ちゃんと焼けましたね」
「焦げましたけど」
「外なので」
「予定通りにいかないこともありますね」
「高岡の言葉が伝播している」
俺は小さく言った。
美波さんは、少し嬉しそうだった。
俺が自分から一緒にひっくり返したホットサンド。
そう考えると、ただの昼食なのに、妙に落ち着かない。
俺は管理棟の位置を確認した。
逃げ道はある。
でも今は座っている。
大丈夫だ。
俺は戻れる。
そう自分に言い聞かせた、その時だった。
「梢さん」
少し離れたところから、仁くんの声がした。
俺の背筋が、自然に伸びた。
反射である。
兄なので。
「はい」
梢が返事をする。
藤谷梢。
俺の妹。
少し人見知りで、自分から輪に入るのは得意ではないけれど、今日はちゃんとここにいる。
その梢に、白石仁くんが小さなカップを差し出していた。
「スープ、熱いので気をつけてください」
「あ、ありがとうございます」
「具が下に沈んでいるので、少し混ぜてからのほうがいいです」
「はい」
丁寧。
白石仁が、俺の妹に丁寧。
前にも見た。
夏合宿でも見た。
ほうじ茶を渡していた。
食材を選んでいた。
野菜の切り方を教えていた。
花火に火をつける時、下に向けすぎないように言っていた。
知っている。
知っているのだ。
白石仁くんは、梢に対して、ずっと丁寧だった。
だが、慣れない。
妹に丁寧な年下男子。
情報量が多い。
「お兄ちゃん」
梢が俺を見た。
「何」
「スープ、熱いって」
「聞こえてる」
「じゃなくて、お兄ちゃんも気をつけてね」
「俺?」
「さっきからホットサンド見てないで、こっち見てるから」
妹に刺された。
妹に、兄の挙動不審を指摘された。
高岡が隣で淡々と言う。
「藤谷、兄の顔になってる」
「実況するな」
「でも、分かりやすい」
「分析もするな」
「白石くん、普通に親切だぞ」
「分かってるのが問題なんだ」
「兄だな」
「その言い方やめろ」
高岡は少しだけ笑った。
こいつ、完全に面白がっている。
でも高岡が言う通り、仁くんは普通に親切だった。
普通に、というより、自然に。
それが余計に困る。
◇
今日、美沙さんはいない。
坂本さんもいない。
美沙さんの定期検診と休養日で、坂本さんが付き添っている。
だから、仁くんがここに来る理由は、いつものようには成立しない。
姉さんが来るから行く。
姉さんがいるから来る。
姉さんの近くにいる。
白石仁という人間の行動原理は、これまでかなり一貫していた。
いや、もちろんそれだけではない。
頭もいいし、仕事もできるし、料理もできる。
ただ、中心にはいつも美沙さんがいた。
それは、悪いことではない。
仁くんにとって、美沙さんは姉で、家族で、守ってくれた人で、今度は自分が支えたい人なのだ。
そこに笑いはあっても、雑に扱ってはいけない重さがある。
俺も、それは分かっている。
分かっているのだが。
今日、姉さんはいない。
美沙さんはいない。
なのに、白石仁が来た。
理由。
俺の妹。
俺はスープを飲んだ。
熱かった。
処理が追いつかない時に熱いものを飲むべきではない。
「藤谷さん」
仁くんがこちらを見た。
「はい」
「熱いです」
「言われました」
「なぜそのまま飲んだんですか」
「兄の処理能力の問題です」
「僕には対応できません」
「知ってる」
この大学生、相変わらず強い。
そして正しい。
兄の処理能力には対応できない。
◇
昼食が少し落ち着くと、高岡が静かに言った。
「食べ終わった人から、カップだけまとめて」
「はい」
琴音さんがすぐにカップを両手で持った。
「洗うものと拭くものに分けますか?」
「分けます」
「承知しました」
お嬢様が、カップの分類を承知した。
今日の琴音さんは、外の世界をひとつずつ丁寧に受け取っている。
高岡はそれを笑わず、ひとつずつ実務に戻している。
いい。
あそこはいい。
静かでいい。
問題は、こっちである。
「梢さん、そのカップ、持ちます」
「え、でも軽いです」
「手がふさがっているので」
「白石さんも持っています」
「これはまとめて持てるので」
「……ありがとうございます」
梢がカップを渡した。
仁くんが受け取った。
普通の動作だ。
ただの片付けだ。
何も問題はない。
なのに、兄としての心が立ち上がる。
待て。
カップを持っただけだ。
カップを持っただけで、兄の心が立ち上がるな。
「藤谷」
高岡が言った。
「何」
「カップだぞ」
「分かってる」
「白石くんが持ったのは、妹さんの手ではなくカップだ」
「言葉にするな!」
美波さんが横で笑った。
「藤谷さん、お兄さんなのね」
「それ、夏合宿でも言われました」
「今も思ったの」
「何回でも思うタイプですか」
「ええ」
「朝倉家」
「はい」
肯定された。
美波さんは、にこっと笑った。
「でも、いいと思います。梢さんを大切にしているところ」
「追撃しないでください」
「控えめです」
「控えめの定義が違う」
「学習します」
「その返し、前にも聞きました」
「覚えていてくださったの?」
「しまった」
俺は口を閉じた。
美波さんが嬉しそうに笑う。
まずい。
逃げ道を確認する。
管理棟。
水場。
炊事場。
高岡。
高岡は逃げ道であり、実況席でもある。
安全ではない。
◇
片付けの途中、梢が少しだけ輪から外れた。
本人は気づかれないようにしているつもりなのだろう。
カップを拭いたあと、何をすればいいか分からなくなって、少し後ろに下がる。
分かる。
梢はそういうところがある。
何もしていない時間が苦手で、でも自分から次の役割を取りにいくのも苦手だ。
俺は声をかけようとした。
その前に、仁くんが動いた。
「梢さん」
「はい」
「この布、端を持ってもらってもいいですか」
「布?」
「濡れたカップを置く用です。少し広げたいので」
「あ、はい」
梢が布の端を持つ。
仁くんが反対側を持つ。
二人で、折りたたまれた布を広げる。
それだけだ。
ただそれだけなのに、梢の手に役割が戻った。
輪から外れかけていた妹が、また作業の中に戻った。
俺は、少し黙った。
仁くんはたぶん、自然にやった。
気づいたから、役割を渡した。
姉さんにしてきたことと同じように。
でも、今それは姉さんのためではない。
梢のためだ。
「ありがとうございます」
梢が言った。
「助かりました」
仁くんが短く返す。
助かりました。
その言い方が、妙に丁寧で、梢の表情が少しやわらいだ。
「私でも、役に立ちましたか」
「もちろんです」
仁くんはすぐに言った。
迷わなかった。
「一人で広げると、地面につきます」
「そうなんですね」
「はい。外だと、置く場所を作るのが大事なので」
「置く場所」
「姉さんが、台所でもよく言ってました。作る前に置く場所を決めないと、あとで困るって」
姉さん。
やっぱり出た。
でも、不思議と嫌ではなかった。
仁くんの中に姉さんがいる。
それは当然だ。
でも今、その知識は梢に向いている。
姉さんの代わりではなく、姉さんからもらったものを使って、梢を助けている。
俺は、思ったよりそのことにほっとした。
いや、ほっとするな。
兄としてどうなんだ。
でも、悪くない。
くそ。
高岡の言い方が感染している。
「藤谷」
高岡が横から言った。
「今、悪くないって思っただろ」
「心を読むな」
「顔に出てた」
「出すな、俺の顔」
「無理だな」
「俺の顔なのに?」
「お前、だいたい漏れてる」
「知ってるけど言うな」
◇
昼食後、少しだけ散策することになった。
といっても、本格的に歩くわけではない。
キャンプ場の奥にある、小さな林道を十数分歩く程度だ。
高岡の行程表では、ここにも余白があった。
「無理に歩かなくてもいい。疲れた人は天幕で休憩」
高岡が言う。
琴音さんが真剣に頷いた。
「余白の時間ですね」
「はい」
「自然のための場所であり、人のための場所でもあるのですね」
高岡が少し黙った。
「……そうですね」
効いている。
完全に効いている。
高岡、顔には出ないが、今日かなり受け取っている。
その横で朝倉さんがビール缶を持ち上げかけた。
「朝倉さん」
高岡の声が飛ぶ。
「まだ何もしてねえ」
「散策前です」
「持ってくだけだ」
「置いていってください」
「安全管理者だぞ」
「だからです」
「見守る安全管理者」
「飲まずに」
「厳しいな」
朝倉さんは渋々缶を置いた。
美波さんがさらっと言う。
「兄さん、置いていったほうが景色に合うわ」
「俺は景色の邪魔か」
「時々」
「妹がきつい」
梢が小さく笑った。
その笑い方は、夏合宿の最初の日よりずっと自然だった。
俺は少し安心した。
そこへ、仁くんが小さなペットボトルを差し出した。
「梢さん、歩くなら水、持っておいたほうがいいです」
「あ、ありがとうございます」
「重かったら僕が持ちます」
「これは持てます」
「分かりました」
仁くんは、すぐに引いた。
持つ、と押し切らなかった。
俺はそこを見た。
見てしまった。
美沙さんには「持つ」と言う。
姉さんには、少し押し通す。
でも梢には、持てますと言われたら引く。
距離を見ている。
相手を見ている。
「白石さん」
梢が、ペットボトルを両手で持ったまま言った。
「はい」
「ありがとうございます。気にかけてくださって」
仁くんが、少しだけ目を伏せた。
「……いえ」
短い。
少し照れている。
白石仁、照れている。
俺は見た。
見てしまった。
どうする。
兄としてどうする。
美沙さんの前で鋭くなる仁くん。
坂本さんに対抗心を見せる仁くん。
朝倉さんに唐揚げで餌付けされる仁くん。
その仁くんが、俺の妹に礼を言われて、少し照れている。
情報量が多い。
高岡が隣に来た。
「藤谷」
「何」
「処理落ちしてる」
「してるよ」
「認めた」
「認めるしかない」
「白石くん、悪くない」
「分かってる」
「じゃあ何が問題だ」
「悪くないから問題なんだ」
高岡は少しだけ笑った。
「兄だな」
「だからそれを言うな」
◇
林道は、思ったより涼しかった。
木陰が続いていて、足元もそこまで悪くない。
ただ、ところどころ根が出ている。
梢は少し慎重に歩いていた。
俺は自然に少し後ろへ下がる。
兄なので。
しかし、前方で美波さんがこちらを見た。
「藤谷さん」
「はい」
「梢さんの後ろ、私が歩きます」
「え」
「足元を見るの、得意です」
「それは頼もしいですけど」
「藤谷さんは前を見ていてください」
「前?」
「白石さんが、少し先を確認しています」
俺は前を見た。
仁くんが、梢の数歩先を歩きながら、足元の根や石を見ている。
歩く速度は、速すぎない。
振り返りすぎもしない。
でも、梢が歩きにくそうな場所では少しだけ足を止める。
「ここ、根があります」
「あ、はい」
「右側のほうが歩きやすいです」
「ありがとうございます」
丁寧。
また丁寧。
俺の妹に。
しかし、今回は俺の中に別の感情が少し混じった。
警戒だけではない。
ありがたい。
それが悔しい。
兄として、先に俺がやるべきだったのではないかと思う。
でも、仁くんが気づいている。
梢が安心している。
なら、いい。
いいのか。
いい。
たぶん。
「藤谷さん」
美波さんが隣に並んだ。
「顔が忙しいわ」
「朝倉家に言われたくないです」
「兄さんよりは静かよ」
「基準が朝倉さん」
「悪くないでしょう?」
「悪くないって便利に使わないでください」
美波さんが笑った。
「白石さん、梢さんにちゃんと合わせているわね」
「見てましたか」
「ええ」
「美波さんは、よく人を見てますね」
言ってから、俺は少し驚いた。
自然に言った。
美波さんも少し驚いたように目を丸くした。
それから、嬉しそうに笑った。
「藤谷さんも」
「俺は兄なので」
「それだけ?」
まっすぐ。
来た。
朝倉家の血はカーブを知らない。
でも、俺は前より驚かなかった。
少しだけ考えてから、言った。
「……それだけではないかもしれません」
美波さんの笑みが、深くなった。
俺はすぐに前を見た。
見すぎると処理が落ちる。
でも、逃げなかった。
歩いた。
◇
林道の途中に、小さなベンチがあった。
そこで少し休憩することになった。
朝倉さんは、当然のように座ろうとした。
「朝倉さん」
高岡が言った。
「何だよ」
「先に疲れている人を」
「分かってるよ。俺は地面でいい」
「地面と約束しますか」
琴音さんが真面目に言った。
全員が一瞬止まった。
高岡が少しだけ口元を押さえた。
笑った。
今、笑った。
「琴音さん」
「はい」
「それは、ペグです」
「そうでした」
「でも、悪くない」
「高岡」
俺は反射で言った。
「坂本さんみたいに言うな」
琴音さんが楽しそうに笑った。
朝倉さんは地面に座りながら言った。
「お嬢様、今日だいぶ野外に馴染んできたな」
「そうでしょうか」
「地面と約束とか言い出したら、もうこっち側だ」
「こちら側」
琴音さんが少し考える。
「高岡さん側ですか?」
高岡が固まった。
俺は見た。
効いた。
今日一番効いたかもしれない。
高岡さん側。
それは強い。
「……そうですね」
高岡がようやく答えた。
「少しずつ」
琴音さんは嬉しそうに頷いた。
こっちはこっちで進んでいる。
静かに。
でも確実に。
その一方で、梢はベンチの端に座っていた。
少し疲れた顔をしている。
仁くんがそれに気づく。
「梢さん、日が当たっています」
「あ、本当ですね」
「こっちなら木陰です」
仁くんが、自分が座っていた場所を少しずらした。
梢のために、日陰を空ける。
自然だった。
あまりにも自然だった。
「でも、白石さんが」
「僕は大丈夫です」
「でも」
「暑かったら、あとで交代してください」
押しつけない。
でも、引きすぎない。
逃げ道を残す言い方だった。
梢が少し迷って、それから小さく頷いた。
「じゃあ、少しだけ」
「はい」
梢が木陰のほうへ座り直す。
仁くんはその横に座らない。
少し離れて、立ったままペットボトルを開けた。
距離。
距離が、丁寧だ。
夏合宿のときからそうだった。
仁くんは梢に踏み込みすぎない。
でも、見ていないわけではない。
ちゃんと見ている。
俺は、それが少し分かってしまった。
兄として複雑だ。
でも、悪くない。
「白石さん」
梢が言った。
「はい」
「ありがとうございます」
「日が当たっていたので」
「よく気づきますね」
仁くんは少しだけ考えた。
「姉さんが、昔、日差しに弱い時期があったので」
声が少しだけ低くなった。
「それで、日陰とか、水分とか、見る癖がつきました」
「そうなんですね」
「はい」
「白石さんは、お姉さんのことを、ずっと見ていたんですね」
梢の声はやわらかかった。
仁くんは、すぐには答えなかった。
風が葉を揺らす。
少しだけ、空気が静かになった。
「……姉さんには、見てもらってばかりだったので」
仁くんが言った。
「今度は、僕が見る番だと思っていました」
「はい」
「でも」
仁くんは、少しだけ梢を見た。
「姉さん以外を見てはいけないわけではないので」
俺は固まった。
高岡も一瞬、こちらを見た。
美波さんが、静かに目を細めた。
朝倉さんは、ビールを持っていないのに、完全に面白そうな顔をしている。
やめろ。
誰も大きく反応するな。
今、静かなところだ。
梢は、少し驚いた顔をした。
それから、ほんの少しだけ笑った。
「……そうですね」
声が、小さかった。
でも、ちゃんと届いた。
「見てもらえるのは、少し安心します」
仁くんの耳が、赤くなった。
白石仁の耳が、赤くなった。
俺は見た。
見てしまった。
どうする。
兄として。
どうする。
叫ぶか。
止めるか。
管理棟へ走るか。
いや、ここは林道だ。
逃げ道はキャンプ場方向。
俺は深呼吸した。
そして、何も言わなかった。
言わなかった俺、偉い。
「藤谷」
高岡が小さく言った。
「何」
「今のは、兄として悪くなかった」
「黙れ」
「でも、悪くない」
「二回言うな」
◇
天幕へ戻る頃には、梢の表情は少し柔らかくなっていた。
仁くんは相変わらず落ち着いた顔をしている。
でも、耳の赤さは完全には消えていない。
俺は見ないふりをした。
兄なので。
見ているが、見ないふりをする。
高度な技術である。
天幕の下に戻ると、琴音さんが行程表を見ていた。
「予定より少し遅れています」
高岡が答える。
「大丈夫です」
「余白ですか」
「はい」
「高岡さんの余白は、いろいろ入りますね」
「今日は特に」
高岡が俺たちを見る。
見るな。
俺は関係ない。
いや、関係ある。
ありすぎる。
朝倉さんがクーラーボックスに手を伸ばした。
「よし、戻ったし」
「朝倉さん」
俺、高岡、美波さんの声が重なった。
朝倉さんが止まる。
「何だよ。まだ開けてねえだろ」
「開ける顔でした」
美波さんが言った。
「顔で判断するな」
「兄さんは分かりやすいから」
「妹がきつい」
梢が、そこで小さく笑った。
仁くんも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
俺はそれを見て、思った。
美沙さんはいない。
坂本さんもいない。
でも、仁くんはここにいる。
姉さんのためだけではなく。
梢のために、自然に動いている。
そして梢も、白石さん、と丁寧に呼びながら、少しずつその親切を受け取っている。
距離はまだ近すぎない。
でも、遠くもない。
日陰ひとつ分。
ペットボトル一本分。
熱いスープを冷ます時間分。
そのくらいの距離で、少しずつ近づいている。
兄としては、非常に困る。
でも。
悪くない。
言ってしまうと高岡に負けた気がするから、口には出さない。
「藤谷さん」
仁くんが言った。
「何」
「何か言いたそうですね」
「何も」
「顔に出ています」
「お前も言うのか」
「出ています」
梢がくすっと笑った。
「お兄ちゃん、分かりやすいよ」
「妹まで」
「でも、大丈夫」
梢は少しだけ照れたように、ペットボトルを両手で持った。
「白石さん、ちゃんと親切だから」
ちゃんと親切。
その言葉に、仁くんが少し目を伏せた。
「……ありがとうございます」
梢がまた笑った。
俺は、心の中で頭を抱えた。
白石仁は、姉さんがいなくても来た。
理由は、俺の妹。
情報量が多い。
処理は追いつかない。
だが、たぶん。
このデイキャンプで一番静かに大きく動いているのは、ここなのかもしれない。
朝倉さんが、ようやく缶ビールを開けた。
プシュッ。
いい音がした。
「安全管理者」
俺が言うと、朝倉さんは低く笑った。
「見守っただろ」
「何をですか」
「若いの」
「ビール飲む口実にしないでください」
「場を温めた」
「アルコールで?」
「お前、それ好きだな」
高岡が静かに言った。
「今日の朝倉さんは、見守り役としては悪くなかった」
「高岡まで」
「でも、ビールは飲んでた」
「そこは余計だ」
琴音さんが、少し考えてから言った。
「安全管理者にも、余白が必要なのですね」
朝倉さんが笑った。
高岡が黙った。
俺は思わず言った。
「その余白、たぶんアルコールです」
梢が笑った。
仁くんも、少し笑った。
その笑い方は、姉さんの前で見せる顔とは違った。
少し照れていて。
少し安心していて。
年相応だった。
俺は見た。
見てしまった。
そして今度は、見ないふりをしなかった。
兄として、少しだけ覚悟した。
まだ認めたわけではない。
全然、まったく、認めたわけではない。
でも。
今日のところは。
白石仁が、姉さんがいなくてもここに来たことを。
少しだけ、悪くないと思った。




