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38/50

白石仁は、姉さんがいなくても来た

 昼食が始まった。


 高岡が用意したホットサンドとスープは、普通にうまかった。


 普通に、という言い方は失礼かもしれない。


 だが、高岡の場合、普通にうまいものを、普通に外で、普通に全員分成立させるところが普通ではない。


 ややこしい。


 ホットサンドは端が少しだけ焦げていた。


 でも中のチーズは溶けていて、トマトの水分もそこまで出ていなくて、ハムとツナと卵の組み合わせもちゃんとしていた。


 つまり、うまい。


 高岡はやはり屋外に強い。


 琴音さんはそのホットサンドを両手で持ち、少し真剣な顔で見つめていた。


「高岡さん」


「はい」


「これは、外で作ったものなのに、ちゃんとお料理ですね」


「はい」


「外で作ったものは、もっと……野性的なものになるのかと思っていました」


「朝倉さんが作るとそうなるかもしれません」


「高岡」


 朝倉さんがビール片手に低く言った。


「俺を何だと思ってる」


「安全管理者です」


「調理への信用がない安全管理者だな」


「自覚はあるんですね」


「お前、今日やっぱり坂本っぽいぞ」


「違います」


 高岡の拒否は今日も早い。


 琴音さんは、ホットサンドをひと口食べて、目を少し細めた。


「おいしいです」


「よかったです」


 高岡の声が、ほんの少しだけ柔らかくなった。


 同期なので分かる。


 この男、顔には出ないが、かなり嬉しい。


 その横で、美波さんが自分のホットサンドを見て、少し楽しそうに笑っていた。


「藤谷さん、ちゃんと焼けましたね」


「焦げましたけど」


「外なので」


「予定通りにいかないこともありますね」


「高岡の言葉が伝播している」


 俺は小さく言った。


 美波さんは、少し嬉しそうだった。


 俺が自分から一緒にひっくり返したホットサンド。


 そう考えると、ただの昼食なのに、妙に落ち着かない。


 俺は管理棟の位置を確認した。


 逃げ道はある。


 でも今は座っている。


 大丈夫だ。


 俺は戻れる。


 そう自分に言い聞かせた、その時だった。


「梢さん」


 少し離れたところから、仁くんの声がした。


 俺の背筋が、自然に伸びた。


 反射である。


 兄なので。


「はい」


 梢が返事をする。


 藤谷梢。


 俺の妹。


 少し人見知りで、自分から輪に入るのは得意ではないけれど、今日はちゃんとここにいる。


 その梢に、白石仁くんが小さなカップを差し出していた。


「スープ、熱いので気をつけてください」


「あ、ありがとうございます」


「具が下に沈んでいるので、少し混ぜてからのほうがいいです」


「はい」


 丁寧。


 白石仁が、俺の妹に丁寧。


 前にも見た。


 夏合宿でも見た。


 ほうじ茶を渡していた。


 食材を選んでいた。


 野菜の切り方を教えていた。


 花火に火をつける時、下に向けすぎないように言っていた。


 知っている。


 知っているのだ。


 白石仁くんは、梢に対して、ずっと丁寧だった。


 だが、慣れない。


 妹に丁寧な年下男子。


 情報量が多い。


「お兄ちゃん」


 梢が俺を見た。


「何」


「スープ、熱いって」


「聞こえてる」


「じゃなくて、お兄ちゃんも気をつけてね」


「俺?」


「さっきからホットサンド見てないで、こっち見てるから」


 妹に刺された。


 妹に、兄の挙動不審を指摘された。


 高岡が隣で淡々と言う。


「藤谷、兄の顔になってる」


「実況するな」


「でも、分かりやすい」


「分析もするな」


「白石くん、普通に親切だぞ」


「分かってるのが問題なんだ」


「兄だな」


「その言い方やめろ」


 高岡は少しだけ笑った。


 こいつ、完全に面白がっている。


 でも高岡が言う通り、仁くんは普通に親切だった。


 普通に、というより、自然に。


 それが余計に困る。


 ◇


 今日、美沙さんはいない。


 坂本さんもいない。


 美沙さんの定期検診と休養日で、坂本さんが付き添っている。


 だから、仁くんがここに来る理由は、いつものようには成立しない。


 姉さんが来るから行く。


 姉さんがいるから来る。


 姉さんの近くにいる。


 白石仁という人間の行動原理は、これまでかなり一貫していた。


 いや、もちろんそれだけではない。


 頭もいいし、仕事もできるし、料理もできる。


 ただ、中心にはいつも美沙さんがいた。


 それは、悪いことではない。


 仁くんにとって、美沙さんは姉で、家族で、守ってくれた人で、今度は自分が支えたい人なのだ。


 そこに笑いはあっても、雑に扱ってはいけない重さがある。


 俺も、それは分かっている。


 分かっているのだが。


 今日、姉さんはいない。


 美沙さんはいない。


 なのに、白石仁が来た。


 理由。


 俺の妹。


 俺はスープを飲んだ。


 熱かった。


 処理が追いつかない時に熱いものを飲むべきではない。


「藤谷さん」


 仁くんがこちらを見た。


「はい」


「熱いです」


「言われました」


「なぜそのまま飲んだんですか」


「兄の処理能力の問題です」


「僕には対応できません」


「知ってる」


 この大学生、相変わらず強い。


 そして正しい。


 兄の処理能力には対応できない。


 ◇


 昼食が少し落ち着くと、高岡が静かに言った。


「食べ終わった人から、カップだけまとめて」


「はい」


 琴音さんがすぐにカップを両手で持った。


「洗うものと拭くものに分けますか?」


「分けます」


「承知しました」


 お嬢様が、カップの分類を承知した。


 今日の琴音さんは、外の世界をひとつずつ丁寧に受け取っている。


 高岡はそれを笑わず、ひとつずつ実務に戻している。


 いい。


 あそこはいい。


 静かでいい。


 問題は、こっちである。


「梢さん、そのカップ、持ちます」


「え、でも軽いです」


「手がふさがっているので」


「白石さんも持っています」


「これはまとめて持てるので」


「……ありがとうございます」


 梢がカップを渡した。


 仁くんが受け取った。


 普通の動作だ。


 ただの片付けだ。


 何も問題はない。


 なのに、兄としての心が立ち上がる。


 待て。


 カップを持っただけだ。


 カップを持っただけで、兄の心が立ち上がるな。


「藤谷」


 高岡が言った。


「何」


「カップだぞ」


「分かってる」


「白石くんが持ったのは、妹さんの手ではなくカップだ」


「言葉にするな!」


 美波さんが横で笑った。


「藤谷さん、お兄さんなのね」


「それ、夏合宿でも言われました」


「今も思ったの」


「何回でも思うタイプですか」


「ええ」


「朝倉家」


「はい」


 肯定された。


 美波さんは、にこっと笑った。


「でも、いいと思います。梢さんを大切にしているところ」


「追撃しないでください」


「控えめです」


「控えめの定義が違う」


「学習します」


「その返し、前にも聞きました」


「覚えていてくださったの?」


「しまった」


 俺は口を閉じた。


 美波さんが嬉しそうに笑う。


 まずい。


 逃げ道を確認する。


 管理棟。


 水場。


 炊事場。


 高岡。


 高岡は逃げ道であり、実況席でもある。


 安全ではない。


 ◇


 片付けの途中、梢が少しだけ輪から外れた。


 本人は気づかれないようにしているつもりなのだろう。


 カップを拭いたあと、何をすればいいか分からなくなって、少し後ろに下がる。


 分かる。


 梢はそういうところがある。


 何もしていない時間が苦手で、でも自分から次の役割を取りにいくのも苦手だ。


 俺は声をかけようとした。


 その前に、仁くんが動いた。


「梢さん」


「はい」


「この布、端を持ってもらってもいいですか」


「布?」


「濡れたカップを置く用です。少し広げたいので」


「あ、はい」


 梢が布の端を持つ。


 仁くんが反対側を持つ。


 二人で、折りたたまれた布を広げる。


 それだけだ。


 ただそれだけなのに、梢の手に役割が戻った。


 輪から外れかけていた妹が、また作業の中に戻った。


 俺は、少し黙った。


 仁くんはたぶん、自然にやった。


 気づいたから、役割を渡した。


 姉さんにしてきたことと同じように。


 でも、今それは姉さんのためではない。


 梢のためだ。


「ありがとうございます」


 梢が言った。


「助かりました」


 仁くんが短く返す。


 助かりました。


 その言い方が、妙に丁寧で、梢の表情が少しやわらいだ。


「私でも、役に立ちましたか」


「もちろんです」


 仁くんはすぐに言った。


 迷わなかった。


「一人で広げると、地面につきます」


「そうなんですね」


「はい。外だと、置く場所を作るのが大事なので」


「置く場所」


「姉さんが、台所でもよく言ってました。作る前に置く場所を決めないと、あとで困るって」


 姉さん。


 やっぱり出た。


 でも、不思議と嫌ではなかった。


 仁くんの中に姉さんがいる。


 それは当然だ。


 でも今、その知識は梢に向いている。


 姉さんの代わりではなく、姉さんからもらったものを使って、梢を助けている。


 俺は、思ったよりそのことにほっとした。


 いや、ほっとするな。


 兄としてどうなんだ。


 でも、悪くない。


 くそ。


 高岡の言い方が感染している。


「藤谷」


 高岡が横から言った。


「今、悪くないって思っただろ」


「心を読むな」


「顔に出てた」


「出すな、俺の顔」


「無理だな」


「俺の顔なのに?」


「お前、だいたい漏れてる」


「知ってるけど言うな」


 ◇


 昼食後、少しだけ散策することになった。


 といっても、本格的に歩くわけではない。


 キャンプ場の奥にある、小さな林道を十数分歩く程度だ。


 高岡の行程表では、ここにも余白があった。


「無理に歩かなくてもいい。疲れた人は天幕で休憩」


 高岡が言う。


 琴音さんが真剣に頷いた。


「余白の時間ですね」


「はい」


「自然のための場所であり、人のための場所でもあるのですね」


 高岡が少し黙った。


「……そうですね」


 効いている。


 完全に効いている。


 高岡、顔には出ないが、今日かなり受け取っている。


 その横で朝倉さんがビール缶を持ち上げかけた。


「朝倉さん」


 高岡の声が飛ぶ。


「まだ何もしてねえ」


「散策前です」


「持ってくだけだ」


「置いていってください」


「安全管理者だぞ」


「だからです」


「見守る安全管理者」


「飲まずに」


「厳しいな」


 朝倉さんは渋々缶を置いた。


 美波さんがさらっと言う。


「兄さん、置いていったほうが景色に合うわ」


「俺は景色の邪魔か」


「時々」


「妹がきつい」


 梢が小さく笑った。


 その笑い方は、夏合宿の最初の日よりずっと自然だった。


 俺は少し安心した。


 そこへ、仁くんが小さなペットボトルを差し出した。


「梢さん、歩くなら水、持っておいたほうがいいです」


「あ、ありがとうございます」


「重かったら僕が持ちます」


「これは持てます」


「分かりました」


 仁くんは、すぐに引いた。


 持つ、と押し切らなかった。


 俺はそこを見た。


 見てしまった。


 美沙さんには「持つ」と言う。


 姉さんには、少し押し通す。


 でも梢には、持てますと言われたら引く。


 距離を見ている。


 相手を見ている。


「白石さん」


 梢が、ペットボトルを両手で持ったまま言った。


「はい」


「ありがとうございます。気にかけてくださって」


 仁くんが、少しだけ目を伏せた。


「……いえ」


 短い。


 少し照れている。


 白石仁、照れている。


 俺は見た。


 見てしまった。


 どうする。


 兄としてどうする。


 美沙さんの前で鋭くなる仁くん。


 坂本さんに対抗心を見せる仁くん。


 朝倉さんに唐揚げで餌付けされる仁くん。


 その仁くんが、俺の妹に礼を言われて、少し照れている。


 情報量が多い。


 高岡が隣に来た。


「藤谷」


「何」


「処理落ちしてる」


「してるよ」


「認めた」


「認めるしかない」


「白石くん、悪くない」


「分かってる」


「じゃあ何が問題だ」


「悪くないから問題なんだ」


 高岡は少しだけ笑った。


「兄だな」


「だからそれを言うな」


 ◇


 林道は、思ったより涼しかった。


 木陰が続いていて、足元もそこまで悪くない。


 ただ、ところどころ根が出ている。


 梢は少し慎重に歩いていた。


 俺は自然に少し後ろへ下がる。


 兄なので。


 しかし、前方で美波さんがこちらを見た。


「藤谷さん」


「はい」


「梢さんの後ろ、私が歩きます」


「え」


「足元を見るの、得意です」


「それは頼もしいですけど」


「藤谷さんは前を見ていてください」


「前?」


「白石さんが、少し先を確認しています」


 俺は前を見た。


 仁くんが、梢の数歩先を歩きながら、足元の根や石を見ている。


 歩く速度は、速すぎない。


 振り返りすぎもしない。


 でも、梢が歩きにくそうな場所では少しだけ足を止める。


「ここ、根があります」


「あ、はい」


「右側のほうが歩きやすいです」


「ありがとうございます」


 丁寧。


 また丁寧。


 俺の妹に。


 しかし、今回は俺の中に別の感情が少し混じった。


 警戒だけではない。


 ありがたい。


 それが悔しい。


 兄として、先に俺がやるべきだったのではないかと思う。


 でも、仁くんが気づいている。


 梢が安心している。


 なら、いい。


 いいのか。


 いい。


 たぶん。


「藤谷さん」


 美波さんが隣に並んだ。


「顔が忙しいわ」


「朝倉家に言われたくないです」


「兄さんよりは静かよ」


「基準が朝倉さん」


「悪くないでしょう?」


「悪くないって便利に使わないでください」


 美波さんが笑った。


「白石さん、梢さんにちゃんと合わせているわね」


「見てましたか」


「ええ」


「美波さんは、よく人を見てますね」


 言ってから、俺は少し驚いた。


 自然に言った。


 美波さんも少し驚いたように目を丸くした。


 それから、嬉しそうに笑った。


「藤谷さんも」


「俺は兄なので」


「それだけ?」


 まっすぐ。


 来た。


 朝倉家の血はカーブを知らない。


 でも、俺は前より驚かなかった。


 少しだけ考えてから、言った。


「……それだけではないかもしれません」


 美波さんの笑みが、深くなった。


 俺はすぐに前を見た。


 見すぎると処理が落ちる。


 でも、逃げなかった。


 歩いた。


 ◇


 林道の途中に、小さなベンチがあった。


 そこで少し休憩することになった。


 朝倉さんは、当然のように座ろうとした。


「朝倉さん」


 高岡が言った。


「何だよ」


「先に疲れている人を」


「分かってるよ。俺は地面でいい」


「地面と約束しますか」


 琴音さんが真面目に言った。


 全員が一瞬止まった。


 高岡が少しだけ口元を押さえた。


 笑った。


 今、笑った。


「琴音さん」


「はい」


「それは、ペグです」


「そうでした」


「でも、悪くない」


「高岡」


 俺は反射で言った。


「坂本さんみたいに言うな」


 琴音さんが楽しそうに笑った。


 朝倉さんは地面に座りながら言った。


「お嬢様、今日だいぶ野外に馴染んできたな」


「そうでしょうか」


「地面と約束とか言い出したら、もうこっち側だ」


「こちら側」


 琴音さんが少し考える。


「高岡さん側ですか?」


 高岡が固まった。


 俺は見た。


 効いた。


 今日一番効いたかもしれない。


 高岡さん側。


 それは強い。


「……そうですね」


 高岡がようやく答えた。


「少しずつ」


 琴音さんは嬉しそうに頷いた。


 こっちはこっちで進んでいる。


 静かに。


 でも確実に。


 その一方で、梢はベンチの端に座っていた。


 少し疲れた顔をしている。


 仁くんがそれに気づく。


「梢さん、日が当たっています」


「あ、本当ですね」


「こっちなら木陰です」


 仁くんが、自分が座っていた場所を少しずらした。


 梢のために、日陰を空ける。


 自然だった。


 あまりにも自然だった。


「でも、白石さんが」


「僕は大丈夫です」


「でも」


「暑かったら、あとで交代してください」


 押しつけない。


 でも、引きすぎない。


 逃げ道を残す言い方だった。


 梢が少し迷って、それから小さく頷いた。


「じゃあ、少しだけ」


「はい」


 梢が木陰のほうへ座り直す。


 仁くんはその横に座らない。


 少し離れて、立ったままペットボトルを開けた。


 距離。


 距離が、丁寧だ。


 夏合宿のときからそうだった。


 仁くんは梢に踏み込みすぎない。


 でも、見ていないわけではない。


 ちゃんと見ている。


 俺は、それが少し分かってしまった。


 兄として複雑だ。


 でも、悪くない。


「白石さん」


 梢が言った。


「はい」


「ありがとうございます」


「日が当たっていたので」


「よく気づきますね」


 仁くんは少しだけ考えた。


「姉さんが、昔、日差しに弱い時期があったので」


 声が少しだけ低くなった。


「それで、日陰とか、水分とか、見る癖がつきました」


「そうなんですね」


「はい」


「白石さんは、お姉さんのことを、ずっと見ていたんですね」


 梢の声はやわらかかった。


 仁くんは、すぐには答えなかった。


 風が葉を揺らす。


 少しだけ、空気が静かになった。


「……姉さんには、見てもらってばかりだったので」


 仁くんが言った。


「今度は、僕が見る番だと思っていました」


「はい」


「でも」


 仁くんは、少しだけ梢を見た。


「姉さん以外を見てはいけないわけではないので」


 俺は固まった。


 高岡も一瞬、こちらを見た。


 美波さんが、静かに目を細めた。


 朝倉さんは、ビールを持っていないのに、完全に面白そうな顔をしている。


 やめろ。


 誰も大きく反応するな。


 今、静かなところだ。


 梢は、少し驚いた顔をした。


 それから、ほんの少しだけ笑った。


「……そうですね」


 声が、小さかった。


 でも、ちゃんと届いた。


「見てもらえるのは、少し安心します」


 仁くんの耳が、赤くなった。


 白石仁の耳が、赤くなった。


 俺は見た。


 見てしまった。


 どうする。


 兄として。


 どうする。


 叫ぶか。


 止めるか。


 管理棟へ走るか。


 いや、ここは林道だ。


 逃げ道はキャンプ場方向。


 俺は深呼吸した。


 そして、何も言わなかった。


 言わなかった俺、偉い。


「藤谷」


 高岡が小さく言った。


「何」


「今のは、兄として悪くなかった」


「黙れ」


「でも、悪くない」


「二回言うな」


 ◇


 天幕へ戻る頃には、梢の表情は少し柔らかくなっていた。


 仁くんは相変わらず落ち着いた顔をしている。


 でも、耳の赤さは完全には消えていない。


 俺は見ないふりをした。


 兄なので。


 見ているが、見ないふりをする。


 高度な技術である。


 天幕の下に戻ると、琴音さんが行程表を見ていた。


「予定より少し遅れています」


 高岡が答える。


「大丈夫です」


「余白ですか」


「はい」


「高岡さんの余白は、いろいろ入りますね」


「今日は特に」


 高岡が俺たちを見る。


 見るな。


 俺は関係ない。


 いや、関係ある。


 ありすぎる。


 朝倉さんがクーラーボックスに手を伸ばした。


「よし、戻ったし」


「朝倉さん」


 俺、高岡、美波さんの声が重なった。


 朝倉さんが止まる。


「何だよ。まだ開けてねえだろ」


「開ける顔でした」


 美波さんが言った。


「顔で判断するな」


「兄さんは分かりやすいから」


「妹がきつい」


 梢が、そこで小さく笑った。


 仁くんも、ほんの少しだけ口元を緩めた。


 俺はそれを見て、思った。


 美沙さんはいない。


 坂本さんもいない。


 でも、仁くんはここにいる。


 姉さんのためだけではなく。


 梢のために、自然に動いている。


 そして梢も、白石さん、と丁寧に呼びながら、少しずつその親切を受け取っている。


 距離はまだ近すぎない。


 でも、遠くもない。


 日陰ひとつ分。


 ペットボトル一本分。


 熱いスープを冷ます時間分。


 そのくらいの距離で、少しずつ近づいている。


 兄としては、非常に困る。


 でも。


 悪くない。


 言ってしまうと高岡に負けた気がするから、口には出さない。


「藤谷さん」


 仁くんが言った。


「何」


「何か言いたそうですね」


「何も」


「顔に出ています」


「お前も言うのか」


「出ています」


 梢がくすっと笑った。


「お兄ちゃん、分かりやすいよ」


「妹まで」


「でも、大丈夫」


 梢は少しだけ照れたように、ペットボトルを両手で持った。


「白石さん、ちゃんと親切だから」


 ちゃんと親切。


 その言葉に、仁くんが少し目を伏せた。


「……ありがとうございます」


 梢がまた笑った。


 俺は、心の中で頭を抱えた。


 白石仁は、姉さんがいなくても来た。


 理由は、俺の妹。


 情報量が多い。


 処理は追いつかない。


 だが、たぶん。


 このデイキャンプで一番静かに大きく動いているのは、ここなのかもしれない。


 朝倉さんが、ようやく缶ビールを開けた。


 プシュッ。


 いい音がした。


「安全管理者」


 俺が言うと、朝倉さんは低く笑った。


「見守っただろ」


「何をですか」


「若いの」


「ビール飲む口実にしないでください」


「場を温めた」


「アルコールで?」


「お前、それ好きだな」


 高岡が静かに言った。


「今日の朝倉さんは、見守り役としては悪くなかった」


「高岡まで」


「でも、ビールは飲んでた」


「そこは余計だ」


 琴音さんが、少し考えてから言った。


「安全管理者にも、余白が必要なのですね」


 朝倉さんが笑った。


 高岡が黙った。


 俺は思わず言った。


「その余白、たぶんアルコールです」


 梢が笑った。


 仁くんも、少し笑った。


 その笑い方は、姉さんの前で見せる顔とは違った。


 少し照れていて。


 少し安心していて。


 年相応だった。


 俺は見た。


 見てしまった。


 そして今度は、見ないふりをしなかった。


 兄として、少しだけ覚悟した。


 まだ認めたわけではない。


 全然、まったく、認めたわけではない。


 でも。


 今日のところは。


 白石仁が、姉さんがいなくてもここに来たことを。


 少しだけ、悪くないと思った。

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