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お嬢様は、デイキャンプに興味津々

 前回、高岡はマスターだった。


 天幕の。


 屋外の。


 そして俺の処理落ちの。


 坂本さんと白石仁くんが、二人そろって理屈だけで天幕を立てようとして、結果として地面に大きな布を寝かせていたあの日。


 高岡は、風を見た。


 地面を見た。


 ロープの角度を見た。


 そして、何でもない顔で言った。


「入口、風下にしたほうが楽」


 あの瞬間、坂本さんが高岡の指示に従った。


 仁くんも従った。


 柏木くんも、なぜか納得した。


 俺は空を見上げた。


 今日、何かが起きている。


 そう思った。


 そして、その日の終わりに、俺は思ったのだ。


 次、俺も何かマスターになる。


 何のマスターかは分からない。


 でも、何かになる。


 そう思っていた。


 思っていたのだが。


「藤谷」


「何」


「そのペグ袋、持ってくれる?」


「はい」


 今のところ、俺はペグ袋の人である。


 マスターへの道は遠い。


 ◇


 デイキャンプ当日。


 集合場所は、郊外のキャンプ場の入口だった。


 駅からバスで二十分。そこから少し歩いたところにある、日帰り利用のできるキャンプ場。


 高岡が選んだ場所だ。


 水場あり。


 炊事場あり。


 管理棟あり。


 そこそこの木陰あり。


 駅から遠すぎない。


 そして何より、高岡が事前に下見済み。


 そう。


 下見済み。


 高岡祥という男は、「デイキャンプに行きませんか」と誘ったあと、本当に一人で下見に行く男である。


 安心感が強い。


 強すぎる。


 恋愛においてそれが正しいのかは、俺にはまだ分からない。


 俺はまだ、散歩の予定名を「美波さんと散歩」に変えただけで自分に動揺する段階だ。


 高岡の国交正常化プロセスは早すぎる。


「高岡」


「何」


「今日、行程表は?」


「ある」


 高岡はクリアファイルから一枚の紙を出した。


 一枚。


 本当に一枚。


 前回、琴音さんに送ったときと同じく、A4一枚にきれいに収まっている。


 集合。


 移動。


 受付。


 設営。


 昼食準備。


 昼食。


 散策。


 片付け。


 解散。


 文字は少なめ。


 余白は多め。


「……一枚だ」


「一枚に収めると言った」


「有言実行がすぎる」


「普通だろ」


 高岡の普通は、普通ではない。


 ただし、坂本さんの普通とも違う。


 坂本さんの普通は、こちらの論理の甘さを静かに切り落としてくる。


 高岡の普通は、こちらが転ばないように、先に地面の石をどけてある。


 怖さではない。


 安心感だ。


 たまに坂本さんみたいなことを言うので、俺の処理は落ちるが。


「今日は、高岡の段取りなんだな」


「そう」


「お嬢様向けではなく?」


「俺の普通を見てもらう日だから」


 高岡は淡々と言った。


 さらっと言った。


 でも俺は聞き逃さなかった。


 俺の普通を見てもらう日。


 恋愛が進んでいる。


 高岡の恋愛が、静かに、着実に、木の根みたいに進んでいる。


 俺の恋愛はまだ、朝倉家の直球に当たって地面を転がっているというのに。


「高岡」


「何」


「お前、けっこうちゃんとしてるな」


「何が」


「恋愛」


「そうか?」


「そうだよ」


 高岡は少しだけ考えた。


「分からないことが多いから、分かるところから整えてるだけ」


「それがちゃんとしてるんだよ」


「藤谷もやれば」


「俺は今、ペグ袋を持っている」


「そこからだな」


「坂本さんみたいに言うな」


 高岡が少し笑った。


 くそ。


 わざとだ。


 ◇


 最初に来たのは、朝倉さんだった。


 低い声。


 ラフな服装。


 片手に大きめのクーラーボックス。


 そして、もう片方の手にビール。


 朝である。


「おー、やってんな」


「朝倉さん」


「何だ、藤谷」


「安全管理者ですよね」


「そうだぞ」


「手に持っているものについて説明を」


「安全管理者用の燃料だ」


「人間が燃えます」


「燃えねえよ」


 朝倉さんは悪びれずに笑った。


 この人は、こういう人である。


 低く渋い声で雑なことを言う。


 腹が立つほど似合う。


 しかも、たまに核心を突くので始末に悪い。


「高岡」


「はい」


「ビール冷やしてきたぞ」


「ありがとうございます。でも設営中は飲まないでください」


「分かってる」


「火の近くでも飲まないでください」


「分かってるって」


「管理棟への受付中も飲まないでください」


「俺を何だと思ってる」


「安全管理者です」


「そうだよ」


「だから言っています」


 朝倉さんが一瞬黙った。


 それから、低く笑った。


「お前、今日ちょっと坂本っぽいな」


「やめてください」


 高岡の拒否が早かった。


 俺は少し安心した。


 高岡にも、坂本さんみたいと言われて嫌な部分はあるらしい。


「でも、坂本いねえんだろ?」


「はい」


 高岡が答えた。


「美沙さんの定期検診と休養日を兼ねて、付き添いだそうです」


「なるほどな」


 朝倉さんの声が、少しだけ柔らかくなった。


「じゃあ今日は、坂本も美沙ちゃんも抜きか」


「はい」


「仁は来るんだろ?」


「来ます」


「美沙ちゃんいねえのに?」


 朝倉さんがにやっとした。


 高岡は俺を見た。


 やめろ。


 こっちを見るな。


「……来ます」


 俺は答えた。


「理由は?」


「俺の妹です」


 言った瞬間、自分で頭を抱えたくなった。


 理由。


 俺の妹。


 文字にするとさらに強い。


「いいじゃねえか」


 朝倉さんは楽しそうに笑った。


「若いってのは」


「安全管理者、開始前から場をかき回さないでください」


「俺は見守ってるだけだ」


「見守る前から飲もうとしてましたよね」


「まだ開けてねえ」


「開ける気はあるんですね」


「ある」


「堂々とするな!」


 ◇


 次に現れたのは、美波さんと梢だった。


 朝倉美波さん。


 朝倉さんの妹。


 第一印象は上品で、落ち着いていて、涼しげなお嬢様。


 中身は朝倉家。


 距離が近い。


 発言がまっすぐ。


 悪気がない。


 逃げ道を確認する必要がある。


「藤谷さん」


「お、おはようございます」


「おはようございます。今日はよろしくお願いします」


「こちらこそ、よろしくお願いします」


 美波さんは微笑んだ。


 その笑顔は綺麗だった。


 綺麗なのに、近い。


 距離が。


 物理的にも、心理的にも。


 朝倉家の血は、カーブを知らない。


 その後ろから、梢が少し控えめに顔を出した。


「お兄ちゃん」


「梢。大丈夫か?」


「うん。大丈夫」


 藤谷梢。


 俺の妹。


 同じ会社の別部署にいる。


 小動物みたいな雰囲気で、少し人見知りだが、芯はちゃんとある。


 美波さんに誘われて、今日は来ることになった。


 美波さんの誘い方は、たぶんこうだ。


「梢さんも来ませんか」


 直球。


 拒否権がないわけではない。


 ただ、差し出された手がまっすぐすぎて、断る前に握ってしまうタイプの直球だ。


「高岡さんが、持ち物リストを送ってくださったから、助かった」


 梢が小さく言った。


「軍手の選び方まで書いてあった」


「高岡」


「何」


「妹がお世話になりました」


「普通の連絡だろ」


「普通の範囲が広い」


「必要だったから」


「その言い方も高岡だな」


 高岡は少しだけ首を傾げた。


 本人には自覚がない。


 ◇


 それから少し遅れて、白石仁くんが来た。


 黒いリュックを肩にかけて、いつもより少し落ち着いた顔をしている。


 姉さんがいないからだろうか。


 いや。


 違うかもしれない。


 梢を見た瞬間、仁くんの表情がほんの少しやわらかくなった。


 俺は見た。


 見てしまった。


 兄として。


 見てしまった。


「おはようございます」


 仁くんが言った。


「おはようございます」


 梢が少しだけ頭を下げる。


「白石さん」


 白石さん。


 そう。


 梢は仁くんのことを「白石さん」と呼ぶ。


 仁くんのほうが年下だ。


 でも梢にとっては、いきなり距離を詰める相手ではない。


 丁寧に、少し距離を置いて、でもちゃんと向き合う。


 それが梢らしい。


「来てくださったんですね」


 梢が言う。


「はい」


 仁くんが少しだけ視線を下げた。


「梢さんが来るって聞いたので」


 直球。


 お前もか。


 白石家もカーブを知らないのか。


 いや、仁くんの場合、今までは姉さん方向にだけ直線だったはずだ。


 その直線が。


 俺の妹へ。


 情報量が多い。


 多すぎる。


 俺は心の中で管理棟へ走った。


 実際には走っていない。


 兄として耐えた。


「藤谷さん」


 美波さんが隣から俺を見上げる。


「大丈夫ですか?」


「大丈夫です」


「少し遠くを見ていました」


「心が管理棟にいました」


「管理棟」


「避難先です」


「では、必要になったらご一緒します」


「一緒に来るんですか!?」


 近い。


 逃げ道に一緒に来るタイプ。


 朝倉家。


 強い。


 ◇


 最後に来たのが、琴音さんだった。


 柔らかい色のシャツに、動きやすそうなパンツ。


 足元はスニーカー。


 スニーカーなのだが、やはり上品だった。


 どういうことだ。


 お嬢様はスニーカーを履いてもお嬢様なのか。


「おはようございます」


 琴音さんが丁寧に頭を下げた。


「おはようございます」


 高岡の声が、ほんの少し柔らかくなる。


 同期なので分かる。


 ほんの少しだが、確実に違う。


「今日はよろしくお願いいたします」


「こちらこそ。来てくださってありがとうございます」


「行程表、拝見しました」


 琴音さんはバッグからクリアファイルを出した。


 中には高岡の行程表。


 印刷済み。


 折り目なし。


 保護されている。


 行程表が、お嬢様の手にかかると資料になる。


「本当に一枚でした」


「はい」


「余白がありました」


「はい」


「余白は、何のためですか?」


 高岡は少しだけ考えた。


「崩れた時のためです」


「崩れる」


「外なので」


「外なので」


「予定通りにいかないことがあります」


「なるほど」


 琴音さんは真剣に頷いた。


 真剣すぎる。


 キャンプ場の入口で、余白について学ぶお嬢様。


 絵面が強い。


「では、この空白部分は、予備時間ではなく、自然のための場所ですか?」


 高岡が一瞬、目を上げた。


「……そう言ってもいいと思います」


「自然のための場所」


 琴音さんは、行程表を見つめた。


「素敵ですね」


 俺は高岡を見た。


 高岡はいつも通りの顔をしていた。


 だが、たぶん効いている。


 自分の段取りの余白を、素敵だと言われた男の顔だ。


 分かりにくい。


 でも同期なので分かる。


「高岡」


「何」


「よかったな」


「何が」


「自然のための場所」


「藤谷」


「何」


「ペグ袋」


「はい」


 照れ隠しで人をペグ係にするな。


 ◇


 受付を済ませ、指定された区画へ向かう。


 途中、琴音さんはずっと周囲を見ていた。


 木。


 水場。


 炊事場。


 薪の束。


 管理棟の張り紙。


 遠くの家族連れ。


 タープの影。


 何もかもが珍しいらしい。


 でも、はしゃぐのではない。


 一つひとつを、丁寧に観察している。


「高岡さん」


「はい」


「あちらの布は、天幕ですか?」


「タープですね」


「タープ」


「屋根だけ作るものです」


「壁のないお部屋ですか?」


「近いです」


「壁のないお部屋」


 琴音さんが、少し嬉しそうに繰り返した。


 詩的になった。


 高岡のアウトドア用語が、お嬢様の中で詩になっていく。


「では、今日立てるものも、壁のないお部屋ですか?」


「そうですね。外に、少しだけ居場所を作る感じです」


「外に、居場所」


 琴音さんは、その言葉を大切そうに受け取った。


 俺は少し黙った。


 高岡は、たぶん何気なく言った。


 でも琴音さんには、ちゃんと響いている。


 ホテルラウンジの席も、商店街の喫茶店の席も、場所だった。


 でも今日の場所は、最初からある場所ではない。


 高岡が選んで、見て、立てる場所だ。


 外に作る、居場所。


 それはたぶん、琴音さんにとって、本当に初めてのものなのだろう。


「高岡さん」


「はい」


「天幕は、どなたが立てるのですか?」


「俺が中心でやります。みなさんにも少し手伝ってもらいます」


「私もできますか?」


「できます」


「壊しませんか?」


「壊れにくいです」


「怪我は?」


「軍手をして、無理に力を入れなければ大丈夫です」


「軍手には、左右がありますか?」


「あります」


「ありますか」


 琴音さんは真面目に手元を見た。


「確認します」


 俺は耐えた。


 笑ってはいけない。


 琴音さんは真剣だ。


 真剣に、軍手の左右を確認している。


 お嬢様は、デイキャンプに興味津々だった。


 しかも、ちゃんと全部を大切に扱おうとしている。


 それが少し可愛かった。


 ◇


 設営場所に着くと、高岡の顔が変わった。


 いや、大きく変わったわけではない。


 でも、俺には分かる。


 前回のデイキャンプで見た顔だ。


 屋外に立つ高岡祥。


 静かに有能な男。


 高岡はまず、地面を見た。


 それから風向きを見た。


 木の位置を見た。


 炊事場への距離を見た。


 水場とトイレの方向を確認した。


 朝倉さんのビールの位置も見た。


「朝倉さん」


「何だ」


「クーラーボックスは火から離してください」


「まだ火、起こしてねえだろ」


「あとで動かすのが面倒です」


「お前、ほんと段取りいいな」


「普通です」


「普通の顔で言うな」


 高岡はロープを出した。


 ポールを出した。


 ペグを並べた。


 琴音さんがその様子をじっと見ている。


「高岡さん」


「はい」


「ペグは、地面に刺すものですね」


「はい」


「杭のような」


「そうです」


「では、これは天幕を地面と約束させる道具ですか?」


 高岡の手が止まった。


 俺も止まった。


 朝倉さんも止まった。


「……約束」


 高岡が小さく言った。


「すみません。変な言い方でしたか?」


「いえ」


 高岡はペグを一本手に取った。


「分かりやすいと思います」


 琴音さんの表情が、ぱっと明るくなった。


「本当ですか?」


「はい。風で動かないように、地面に留めるので」


「地面と約束」


 朝倉さんが低く笑った。


「いいじゃねえか。詩人だな、お嬢様」


「朝倉さん」


 高岡が静かに言った。


「何だよ」


「茶化さないでください」


「茶化してねえよ。褒めてる」


「声が茶化しています」


「声は生まれつきだ」


「便利ですね」


「お前、今日やっぱ坂本っぽいぞ」


「違います」


 琴音さんが小さく笑った。


 高岡はペグを地面に置き、位置を決める。


「琴音さん」


「はい」


「ここを持ってもらえますか」


「はい」


 琴音さんが両手でロープを持つ。


 丁寧。


 まるで絹の紐でも扱うように。


「強く引かなくて大丈夫です。軽く張るくらいで」


「軽く」


「はい」


「高岡さんの軽く、ですね」


 高岡が少し黙った。


 それから、ほんの少し笑った。


「そうです」


 あ。


 今のはいい。


 俺は思った。


 高岡の“軽く”を、琴音さんが覚えている。


 琴音さんの“軽く”がホテルラウンジだったように、高岡の“軽く”にも、高岡の基準がある。


 その基準を、二人で確かめている。


 デイキャンプなのに、ちゃんとラブコメが進んでいる。


 平和。


 いや、平和ではない。


 横で美波さんが俺を見ている。


「藤谷さん」


「はい」


「私は何をすればよいですか?」


「え」


「お手伝いします」


 来た。


 第2話の気配が来た。


 近い。


 美波さんが近い。


 まだ本格的には始まっていないのに、もう近い。


「えっと、じゃあ……その袋を」


「はい」


「いや、まだ俺も何をすればいいか」


「では、一緒に確認します」


「一緒に」


「はい」


 俺は逃げ道を確認した。


 管理棟。


 水場。


 炊事場。


 朝倉さん。


 朝倉さんは逃げ道ではない。


 むしろ火元だ。


 俺は深呼吸した。


 今日は第1話だ。


 まだ美波さん回ではない。


 俺はペグ袋を持つ。


 美波さんはその隣にいる。


 近い。


 でも、前より逃げたいだけではない。


 困る。


 困るけど、嫌ではない。


 ……いや、待て。


 今のは第2話でやるやつだ。


 戻れ、俺。


 ◇


 天幕は、あっという間に形になり始めた。


 高岡の指示は短い。


「藤谷、そっち少し持って」


「仁くん、こっちの角」


「朝倉さん、それ踏まないでください」


「美波さん、そこはまだ近づかないほうがいいです」


「梢さん、荷物は木陰に置いて大丈夫です」


「琴音さん、そのまま。上手です」


 上手です。


 高岡が琴音さんに言った。


 琴音さんの頬が、ほんの少し赤くなった。


「ありがとうございます」


 お嬢様、褒められるとちゃんと嬉しそう。


 高岡はそれに気づいているのか、いないのか。


 いや、気づいている。


 高岡は気づいているくせに、顔に出さないタイプだ。


 ずるい。


「高岡さん」


 琴音さんが言った。


「はい」


「これは、力よりも、位置が大切なのですね」


「そうです」


「角度と、順番」


「はい」


「少し、茶道のお支度に似ています」


 高岡が少し驚いた顔をした。


「茶道ですか」


「はい。私は詳しいわけではありませんが、ものの位置や、手の順番に意味があるので」


「なるほど」


「外にも、作法があるんですね」


 高岡は少しだけ考えた。


「作法というより、楽にするための手順です」


「楽にするため」


「無理をしないためです」


 琴音さんは、高岡を見た。


「高岡さんらしいですね」


 高岡が黙った。


 俺は見た。


 効いている。


 これはかなり効いている。


 高岡の“普通”を、琴音さんがちゃんと見ている。


 高岡はマスターになりたいのではなく、たぶん、自分の普通を怖がらずに見てほしかったのだ。


 高岡の普通。


 風を見ること。


 地面を見ること。


 無理をしない手順を選ぶこと。


 崩れた時の余白を残すこと。


 それを琴音さんは、ひとつひとつ拾っている。


「藤谷」


「何」


「顔」


「え」


「にやけてる」


「にやけてない」


「にやけてる」


「同期の成長を見守ってただけだ」


「朝倉さんみたいなこと言うな」


「それは嫌だ」


「おい、藤谷」


 朝倉さんが後ろから言った。


「聞こえてるぞ」


「聞こえる距離で言いました」


「強くなったな」


「誰のせいだと思ってるんですか」


「俺か?」


「かなり」


 朝倉さんが楽しそうに笑った。


 ◇


 やがて、天幕が立った。


 布がふわっと持ち上がり、影ができる。


 ただの地面だった場所に、輪郭ができる。


 外なのに、そこだけ少し落ち着く。


 風が抜ける。


 光がやわらかくなる。


 琴音さんが、その下に一歩入った。


 そして、小さく息をのんだ。


「……本当に」


 声が少しだけ、いつもより幼く聞こえた。


「外に、居場所ができました」


 高岡が手を止めた。


 琴音さんは天幕の布を見上げている。


「壁はないのに」


「はい」


「扉もないのに」


「はい」


「でも、ここにいていい場所みたいです」


 高岡は、少しだけ視線を下げた。


「そうですね」


「不思議です」


 琴音さんは、天幕の影の中で微笑んだ。


「高岡さんの普通は、不思議ですね」


「……そうですか」


「はい。知らないことばかりなのに、怖くありません」


 風が吹いた。


 天幕の布が、ぱた、と軽く鳴った。


 その音を聞きながら、俺は思った。


 ああ。


 これは、第1話の終わりでいい。


 まだ昼食は始まっていない。


 美波さんは俺の横で待機している。


 仁くんは梢の荷物の位置をさりげなく見ている。


 朝倉さんはビールのタイミングをうかがっている。


 火種は全部残っている。


 でも今日の始まりとしては、これでいい。


 琴音さんが、高岡の作った外の居場所に入った。


 それだけで、十分だった。


「高岡さん」


「はい」


「次は、何をしますか?」


「昼食の準備です」


「火を使いますか?」


「使います」


「点火の責任者は?」


「俺です」


「承知しました」


 琴音さんは真剣に頷いた。


「火起こしにも、作法がありますか?」


 高岡が少しだけ笑った。


「あります」


「学びます」


「では、まず軍手を」


「左右は確認済みです」


「完璧です」


 琴音さんが嬉しそうに笑った。


 俺は思わず、高岡を見た。


 高岡はいつも通りの顔をしていた。


 でも、少しだけ嬉しそうだった。


 少しだけ。


 本当に少しだけ。


 同期なので分かる。


「高岡」


「何」


「今日、いい感じだな」


「まだ始まったばかりだろ」


「そうだけど」


 高岡は火起こし用の道具を取り出しながら、静かに言った。


「余白は取ってある」


 俺は一瞬、坂本さんを思い出した。


 でも、言わなかった。


 今日はまだ、そこじゃない。


 その代わり、朝倉さんが缶ビールを持ち上げた。


「じゃ、俺もそろそろ」


「朝倉さん」


 高岡の声が低くなった。


「まだです」


「安全管理者だぞ」


「だからです」


「見守る安全管理者だ」


「飲まずに見守ってください」


「厳しいな、お前」


 俺は思った。


 前回、高岡はマスターだった。


 今日は、まだマスターではない。


 でも琴音さんは、もう興味津々だ。


 そして俺たちは、まだ知らない。


 このあと、朝倉美波さんが手伝いたがり。


 白石仁くんが姉さん抜きで成長し。


 高岡の余白が、ほぼ全部埋まることを。


 デイキャンプは、まだ始まったばかりだった。

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