お嬢様は段取りがお好き
昼休み。
俺は、昨日のカレンダーをまだ見ていた。
『美波さんと散歩』
……名前を変えてしまった。
散歩、ではなく。
美波さんと散歩。
自分で入力したくせに、画面を見るたびに少し落ち着かない。
消すか。
いや、消すほどではない。
でも、残すと認めたことになる。
何をだ。
俺がひとりでスマホ相手に処理落ちしていると、横から声がした。
「藤谷」
「見るな!」
「まだ何も見てない」
高岡だった。
高岡祥。
俺の同期で、淡々と人の処理落ちを観察する男。
昨日もこいつは、俺に言った。
楽しかったら、楽しかったって言え。
言った。
言ってしまった。
その結果、俺のカレンダーには『美波さんと散歩』が爆誕した。
「何」
「少し聞きたいことがある」
「怖い」
「まだ何も言ってない」
「お前が“聞きたいことがある”って言う時点で、世界が少し傾いてる」
高岡は否定しなかった。
否定しろ。
「お嬢様の“軽く”について、どう思う」
「俺に聞くな」
即答した。
俺はいま、朝倉美波さんの“まっすぐ”だけで手一杯なのだ。
お嬢様の“軽く”まで受け止める容量はない。
「じゃあ、朝倉さんにも聞く」
「よりによって?」
「おぼっちゃまだろ」
「属性で相談相手を選ぶな」
その時だった。
「呼んだか」
背後から低い声がした。
振り向くと、朝倉さんがコーヒー片手に立っていた。
出た。
必要な時に、なぜか現れる人。
便利な朝倉晴臣。
「呼んではいません」
「でも話題にはしたろ」
「しましたけど」
「で? 何だ。高岡。お嬢様案件か」
「はい」
「言い方が重いな」
「実際、少し重いです」
「お前が言うと本当に重いな」
朝倉さんは空いている椅子に勝手に座った。
座るな。
いや、この人にその概念はない。
「で、何があった」
高岡は、少し考えてから言った。
「最初は、そういうものだと思っていました」
「何が」
「段取りです」
段取り。
高岡が言うと、仕事の話にしか聞こえない。
「一回目は、“軽くお茶でも”と言われました」
「普通だな」
俺は頷いた。
軽くお茶。
駅前のカフェ。
一時間。
逃げ道あり。
俺ならまずそこを確認する。
「ホテルラウンジでした」
「軽くない」
即答した。
「アフタヌーンティーでした」
「軽くない!」
「ただ、最初だったので、そういうものかと」
「お前、受け止め力が高すぎるだろ」
高岡は淡々としていた。
「行程表が来ました」
「行程表?」
「十四時集合、十四時八分車寄せへ移動、十四時十五分ラウンジ到着、十四時三十分季節のアフタヌーンティー、十六時庭園散策、雨天時代替案は館内ギャラリー」
「軽くお茶とは」
俺は机に手をついた。
軽くとは。
お茶とは。
「でも、丁寧だとは思いました」
「高岡のいいところが裏目に出てる」
朝倉さんは、なぜか納得した顔でコーヒーを飲んだ。
「あー、あるある」
「あるあるなんですか」
「ある。あいつらの“軽く”は、だいたい軽くねえ」
「おぼっちゃまの実感だ……」
「うるせえ」
高岡は続けた。
「二回目は、“少し季節のものを”と言われました」
「嫌な予感がする」
「料亭の個室でした」
「少しじゃない!」
「出てきた器が全部違いました」
「そこ?」
「料理はおいしかった」
「そこでもない」
「三回目は、“歩きやすい場所を選びました”と言われました」
「それは普通では?」
「庭園付きレストランの敷地内でした」
「歩きやすいの種類が違う」
「石畳でした」
「歩きやすくない!」
「彼女は歩きやすそうな靴でした」
「どんな?」
「上品な革靴」
「高岡、たぶんそれは歩きやすい靴じゃない。お嬢様基準だ」
俺が言うと、朝倉さんがうんうんと頷いた。
「分かる。本人は本気で歩きやすいつもりなんだよな」
「朝倉さん、妙に詳しいですね」
「おぼっちゃまだぞ」
「自分で言った」
高岡は、そこで少しだけ眉を寄せた。
珍しい。
高岡が困っている。
高岡が。
俺の処理落ちを観察していた高岡が。
「一番判断に困ったのは、四回目です」
「まだあるのか」
「“高岡さんの普通を知りたい”と言われました」
「いい話じゃん」
「俺もそう思いました」
高岡は頷いた。
「なので、駅近の昔ながらの喫茶店を提案しました」
「高岡らしい」
「混みすぎず、長居しすぎず、価格も高くない。駅から近くて、帰りやすい」
「お前、俺の散歩にもその理論使ったな」
「使った」
「即答するな」
「有効だっただろ」
「有効だったけど!」
高岡は、一拍置いて言った。
「彼女は、黒い車で来ました」
「喫茶店に?」
「はい」
「商店街の?」
「はい」
「黒い車で?」
「はい」
俺は頭を抱えた。
強い。
高岡のお嬢様、強い。
「しかも、かなりきちんとしたワンピースでした」
「喫茶店に?」
「はい」
「商店街の?」
「はい」
「黒い車で?」
「二回言った」
処理が追いつかない。
商店街の喫茶店前に、黒い車。
そこから降りてくる上品なお嬢様。
待っている高岡祥。
絵面が強い。
「店内の人が全員見ました」
「そりゃ見る」
「彼女は言いました。“今日は高岡さんの世界にお邪魔する日ですもの”」
「重い!」
「悪意はない」
「分かる! 分かるけど重い!」
高岡は静かに頷いた。
「だから困っています」
困っています。
高岡が。
高岡祥が。
困っています。
「高岡」
「何」
「お前でも困ることあるんだな」
「ある」
「世界が少し広がった」
「それはよかった」
「よくない」
朝倉さんは低く笑った。
「で? 切符の話は?」
「切符?」
俺が聞くと、高岡がこちらを見た。
「その次に、電車で来てもらえますか、と提案しました」
「おお」
「いいじゃん」
俺は思わず前のめりになった。
歩み寄りだ。
お嬢様が高岡の普通を知りたいなら、高岡の普通に少し近づく。
高岡も、相手に全部合わせるのではなく、自分の基準を出す。
いい。
すごくいい。
「すると、“では、切符の買い方から教えていただけますか”と」
「そこから?」
「俺もそう言った」
「だろうな!」
「券売機で行き先を選ぶのでしょう、と言われた」
「間違ってはいない」
「だから、今回はSuicaを使いましょう、と伝えた」
「実務的!」
「果物ではありません、とも言った」
「言ったの!?」
「少し間があったから」
「お嬢様、少し迷ったの!?」
朝倉さんが肩を震わせた。
「いいな、それ」
「いいんですか」
「いや、本人は真面目なんだろ。真面目だから面白い」
「朝倉さん、笑ってますよ」
「笑ってねえ」
「震えてます」
「コーヒーが熱い」
「嘘が雑」
高岡はまったく笑っていなかった。
だが、困っているというより、考えている顔だった。
「彼女は、こちらに合わせようとしてくれているんだと思う」
その声は、いつもより少しだけ柔らかかった。
「ただ、合わせ方の規模が大きい」
「規模」
「黒い車で商店街に来るくらいには」
「規模が大きいな」
朝倉さんが頷いた。
「でも、お前も合わせてるだろ」
「俺がですか」
「ホテルラウンジも料亭も庭園も行ったんだろ」
「はい」
「それ、合わせてる」
「そうですか」
「そうだよ。お前は器用だから、合わせられる。でも合わせられるからって、ずっと合わせてたら、向こうはお前の普通が分かんねえだろ」
俺は朝倉さんを見た。
まともだ。
朝倉さんが、まともなことを言っている。
おぼっちゃまの知見が、急に実用化された。
「朝倉さん」
「何だ、藤谷」
「今、まともです」
「失礼だな」
「驚いて」
「もっと失礼だな」
高岡は黙って聞いていた。
こういう時、高岡は茶化さない。
ちゃんと聞く。
だから、朝倉さんも続けた。
「ま、お互い好きなら歩み寄れ」
「急に結論が雑ですね」
高岡が言った。
「恋愛なんて、最後はだいたいそこだろ」
「おぼっちゃまの知見、雑!」
「うるせえな」
朝倉さんはコーヒーを置いた。
「つーか、高岡」
「はい」
「デイキャンプ連れてけよ」
「デイキャンプ」
「お前の得意分野だろ」
高岡が少しだけ目を細めた。
考えている顔だ。
「段取りできる。場所も選べる。飯も作れる。変な無理しなくていい。お前がちゃんと分かってる場所で、向こうにお前の普通を見せられる」
朝倉さんは、雑に続けた。
「で、向こうが分からないことがあれば教えりゃいい。Suicaと同じだろ」
「Suicaと同じ」
「最初から全部分かるわけねえんだから、分かるほうが教えりゃいい。向こうの世界に行く時は、向こうに教えてもらう。こっちの世界に来る時は、お前が教える」
俺は黙った。
まともだ。
朝倉さんが、すごくまともだ。
なんだこれ。
低く渋い声で雑に絡むおぼっちゃまが、急に恋愛相談の核心を突いている。
「朝倉さん」
「何だ」
「今日、どうしたんですか」
「お前、あとで覚えてろ」
高岡は静かに頷いた。
「参考になりました」
「おう」
「デイキャンプ、提案してみます」
「そうしろ」
「ただ」
「ただ?」
「行程表は作ります」
「作るんかい」
「作るだろ」
「高岡だな」
朝倉さんは笑った。
「でも、一枚にしとけ」
「一枚」
「向こうの段取りに全部寄せるな。お前の段取りにしろ」
高岡は少しだけ考えてから、また頷いた。
「分かりました」
◇
翌日。
昼休みの終わりかけに、高岡が俺の席の横に立った。
「藤谷」
「何」
「昨日の件」
「お嬢様段取り案件?」
「略し方」
「他に何て呼べばいいんだ」
高岡はスマホを取り出した。
「送った」
「何を」
「デイキャンプの提案」
俺は少し身構えた。
恋人とのやり取りを見ていいのか。
いや、見せるために出しているのだから、いいのだろう。
高岡のスマホ画面には、メッセージが表示されていた。
高岡
『次は俺が段取りします。よければ、デイキャンプに行きませんか』
お嬢様
『デイキャンプ』
高岡
『日帰りです。外で昼食を作って、少し歩いて、夕方前には戻ります』
お嬢様
『行程表はありますか?』
高岡
『作ります。ただし、一枚に収めます』
お嬢様
『一枚』
高岡
『はい』
お嬢様
『それは、高岡さんの段取りですか?』
高岡
『そうです』
お嬢様
『では、楽しみにしています』
俺はスマホから顔を上げた。
「……いいじゃん」
「そうか」
「うん。ちゃんと歩み寄ってる」
「朝倉さんの助言が、珍しく有効だった」
「珍しくって言うな。俺も思ったけど」
高岡はスマホをしまった。
「靴についても伝えた」
「何て?」
「革靴ではなく、スニーカーで来てください、と」
「大事」
「彼女から、“スニーカーを選ぶ段取りから始めます”と返ってきた」
「段取りがお好き!」
「そうだな」
高岡の声は、少しだけ笑っていた。
ほんの少し。
気づかない人なら、たぶん気づかないくらい。
でも、同期なので分かる。
高岡は、困っている。
でも、嫌ではなさそうだった。
「高岡」
「何」
「楽しみ?」
高岡は少し黙った。
それから、いつもの調子で言った。
「悪くない」
「坂本さんみたいに言うな」
「学習してるな」
「だから坂本さんみたいに言うな!」
高岡は、ほんの少し笑った。
俺は思った。
高岡の恋愛は、俺よりずっと落ち着いて見える。
でも、たぶん中身は中身で大変だ。
お嬢様の“軽く”は軽くない。
高岡の“普通”も、相手にとっては普通ではない。
でも、それを笑いながら、困りながら、少しずつ見せ合っていくなら。
それは、たぶん。
悪くない。
「藤谷」
「何」
「デイキャンプの持ち物リスト、確認するか」
「俺に?」
「お前も来るだろ」
「なんで!?」
「美波さんも誘う流れになるかもしれない」
「逃げ道が消えた!」
高岡は淡々と言った。
「確認したら、戻れ」
「俺の言葉じゃない! お前の言葉だ!」
「でも、有効だっただろ」
「有効だったけど!」
その時、向こうの席から朝倉さんの低い声が飛んできた。
「お、デイキャンプか。俺も行く」
「増えた!」
「坂本も呼ぶか」
「増やすな!」
「美沙ちゃん来るなら仁も来るな」
「共同体が形成されていく!」
俺は机に突っ伏した。
高岡は横で、静かにスマホを操作していた。
たぶん、行程表を作っている。
一枚に収めると言っていた。
だが、参加人数が増え続けている。
高岡くん。
お嬢様は段取りがお好きかもしれない。
でもこの会社は、段取りを破壊する人間が多すぎる




